楔―くさび― 第八章
草原にゼロスの呪が流れる。
それを阻止しようと、ガウリイとアメリアがゼロスへ接近戦をいどんだ。
援護しようと呪文を唱えかけて、ゼルガディスはゼロスが唱えている呪文が何なのか気がついて、声をあげた。
「まずい、さがれ!」
慌ててアメリアとガウリイが、ゼロスから距離をとる。
だがたいして離れもしないうちに、ゼロスの周囲に十数個の光球が浮かび上がった。
「暴爆呪!」
光球が弾け、光が閃く。
轟音と衝撃波、大地が煮沸するほどの熱気。
たとえ直撃はしなくとも、至近距離にいるだけで相当のダメージを喰らう。
大地に叩きつけられ、熱にあぶられながら、ようやく起きあがったゼルガディスとアメリアの視界に、すでにゼロスはいなかった。
戦慄とともに立ち上がった二人の目に入ったのは、爆発の衝撃によって体勢の崩れたガウリイに、至近距離から魔力光を放つゼロス――――
ガウリイは避けようとして、間に合わない。
アメリアは思わず目を閉じた。
生々しい肉の焦げる音。
「―――っふっざけんじゃないわよッ !! 」
だが、それと共に聞こえてきた叫びは、甲高い少女の声だった。
慌てて目を開いたアメリアの視界に飛びこんできたものは―――
膝をつくガウリイの正面に立つ、両腕を灼いたリナの姿だった。
風だけの流れる夜の街道に、沈黙が降りる。
「ふ………くくくっ」
最初にその沈黙を破り、響き渡ったのは、ゼロスの笑い声だった。小さな笑いが次第に大きな哄笑へと変わっていく。
「く、くくくっ。あははははははっ」
体を二つに折って、ひとしきり大笑いしたあと、ゼロスはようやく顔をあげて正面に立つリナを見た。
肩で呼吸を繰り返しながら、リナがその魔族の瞳をにらみ返す。
「ははっ、リナさん。やっぱり貴女はすごいです。すばらしい。もう空間を渡れるようになったんですか?」
ゼルガディスとアメリアが息を呑んだ。ガウリイはただ呆然と目の前の背中を凝視する。
リナは小さく首をふった。
そうしなければ、間に合わなかった。ガウリイは死んでいた。
考えてやったわけではない。ただ、夢中で―――
「ゼロス………」
口を開きかけたリナの体が揺らいだ。
その体がゆっくりと大地にくずおれる。
我に返ったのはガウリイだった。リナの体を受け止めると、後ろに飛んでゼロスから距離を取る。ゼルガディスとアメリアがそこに合流した。
ゼロスが攻撃をしかけてくる気配はもはやないが、油断はできない。
空間を渡った直後、ゼロスが放った魔力光を素手で握りつぶしたリナの両手は肘のあたりまで、ほとんど炭と化してした。
アメリアが蒼白な顔で復活を唱え始める。
「リナ!」
ガウリイの呼びかけに、リナはガウリイを見上げて、尋ねた。
「ガウリイ、怪我してない?」
あまりな問いかけにガウリイは絶句する。絶句するしかなかった。
そうしていると、リナは不安げな顔でガウリイに再び訊いてくる。
「どっか怪我したの?」
慌ててガウリイが首をふると、リナはほっとしたように体の力を抜いた。
「そう。よかった………」
その表情に、再びガウリイは言葉を失う。
その一言に、この少女の輝きすべてが詰めこまれている気がした。
他人の心配をできるような怪我ではないのに。
「お前のほうこそ、腕―――」
リナは苦く笑った。
「平気よ。それに、もうあんま痛みも感じないの。よく見えないし」
それを聞いた三人の表情がこわばる。そこに、ゼロスの笑みを含んだ声が割りこんだ。
「じゃあ、後は〈楔〉を破壊するだけですね」
ガウリイの腕の中から、リナがよろめきながら立ち上がった。アメリアの復活はまだ続いている。
感覚はないが、徐々に手の組織が回復してきていることはわかった。
回復の時間を稼ぐために、リナは口を開く。言っておきたいこともあった。
「そう、その〈楔〉なんだけど、結局のところ何なのかわからなかったわ。あんまモノ考えられる精神状態じゃなくてね。でも―――」
ゆっくりとリナが笑った。心からの笑みだった。
「ありがとう」
心からの言葉だった。
ゼロスがよろめいた。その表情が目に見えて引きつる。
皮肉とかそう言うレベルをはるかに超える、真っ直ぐにゼロスに向けられた感謝の念だった。
これは、かなり痛い。
おまけにどうしてこんな話の流れで笑うのかわからず、ゼロスの混乱を助長する。
そんなゼロスを見て、リナはくすっと笑った。いまだ魔族化は進行しているにもかかわらず、晴れやかな表情を見せる。
「あんたのおかげで、あたしは気づいたの。たったいま気づいたって言うほうが正しいかもしんない。あたしの望み、あたしの願い。あたしが本当にしたいことは何なのか。あたしが何を悩んでたのか。そして、あんたの言う〈楔〉が何なのか」
自分自身と向き合う勇気がいま、持てた。
ようやく、変わっていく自分と、その想いに向き合えた。
負担になりたくないと願うこと。そのための強さを望むこと。
ガウリイのかたわらに在りたいと思うこと。
全部、ガウリイへの気持ちに向き合えなかった弱い自分が起こしたこと。彼への気持ちなんか、あの呪文を唱えた瞬間にわかりきっていたことなのに。
呆れたことに、まだ認めていなかったのだ。
そして、ガウリイがどう思っているかわからなくて、怖かっただけなのだ。
いくら悩んでても、本人に訊かなければそんなことわかるはずないのに、なんてバカなんだろう。
そして、〈楔〉―――
途切れた会話の合間を縫うように、アメリアの呪文が静かに流れる。
リナは風に流される髪をおさえた。手は元に戻りつつある。
自分の魔力が急激にふくれあがっていくのがわかる。すでに、髪はもういつもの栗色。
「別に〈楔〉が何かわかったことにたいしては、あんま感謝してないんだけどね。いまのあんたのセリフで何となく想像はつくわ。あんたの話の流れからして、〈楔〉はあたしの肉体をつなぎ止めておくために、あたしに食いこんでいる、文字通り〈楔〉よ。それだけわかれば充分だわ。
―――あんたはあたしの迷いに便乗してあおっておく一方で、あたしの仲間に手を出した。〈楔〉を破壊するために」
先ほどの「ありがとう」がよほど効いているのか、ゼロスは黙して答えない。
「あたしはもう迷わない。あたしの〈楔〉を見つけたもの」
リナの瞳が、強い真紅の輝きを帯びる。アメリアの声がふっつりと途切れた。ゼルガディスとガウリイがゆっくりと立ち上がる。
揺らめく炎のような、戦意。
「あたしは魔族になんかならない。ガウリイは殺させない! ゼロス、あたしはあんたを許さない!」
ゼロスの紫の瞳が、すさまじい殺気のこもった視線でリナを射抜いた。
その視線を真っすぐリナは受け止める。
退いたりなど、しない。
「それでどうするおつもりですか? リナさんがどう言おうとも、貴女が魔族となりつつあることに変わりはないでしょう?」
「それでも! 足掻く前からあきらめるなんて、あたしの流儀に反するの !! 」
迷いなど微塵もない表情に、ゼロスは苦々しい思いを禁じ得ない。
「しかたありませんね。貴女の目の前でガウリイさんを殺します!」
「させないっ」
叫ぶリナの背後で、ゼルガディスが呪文を解き放った。
「覇王雷撃陣!」
ゼロスが空間を渡って雷撃をよけ、すぐ後ろの空間に再び現れる。
「いくわよ、ガウリイ!」
「おう!」
すでに魔皇霊斬のかかっている剣を構えて、ガウリイが奔る。それを見ながらリナは呪文を唱えはじめた。
呪符の力を借りなくても、いまならこの呪文は発動する。
―――凍れる森の奥深く 荒ぶるものを統べる王
滅びを誘う汝の牙で 我らが道を塞ぎしものに
我と汝が力持て 滅びと報いを与えんことを
「獣王牙操弾!」
ガウリイが斬りかかるのに合わせて、光の帯がゼロスに襲いかかる。
ゼロスが舌打ちしながら、ガウリイの剣を錫杖でうち払った。短距離転移で逃れようとするが、光の帯は軌道を変えながらゼロスに迫る。
「おおおおおっ!」
ゼロスが吠えた。それとともに獣王牙操弾の光は消滅する。
「この僕に向かってこの呪文とは、良い度胸をしてますね」
「本人だけでなく、呪文も怖いの?」
軽口をたたきながら、アメリアとゼルガディスに目配せをする。小さく二人がうなずいた。
ゼロスとの斬撃の応酬にゼルガディスが加わった。そこに、アメリアの呪文が重なる。
「―――無限より来りて裁きを今ここに! 崩霊裂!」
ゼロスの姿がブレる。
「逃がさない!」
リナが叫んだ。ガウリイとゼルガディスが飛び退いて離れる。精神世界面が見えているリナも、呪文が発現する瞬間を察知して、ゼロスの束縛を解いた。
再びゼロスが吠えた。
蒼い光が一瞬だけゼロスを包みこむものの、やはりすぐにかき消える。
「精神世界面から攻撃しましたね。もはや何でもありですか」
にらむゼロスにリナは不適に笑った。
「たとえなんだろうと、使えるものは使うわ」
しかし、崩霊裂ではゼロスにはやはり決定的なダメージを与えることができない。
―――やっぱりあれかなぁ………。
いまの自分の存在の仕方では、滅多に暴走することはない呪文だといえ、うまく制御できるかわからない。
でも、やるしかない。
「呪文を唱える時間を稼いで」
小声で三人にそう伝える。
「平気か」
何の呪文を使うのか正しく理解したゼルガディスが尋ねてくる。リナはあっさりと答えた。
「わかんないわよ、んなこと。でも、あれじゃなきゃゼロスを滅ぼせない」
「…………」
ゼルガディスは何も言わずにゼロスを見すえると、剣をかまえなおした。
「お願いね」
三人が、それぞれの表情でうなずいて、散開した。リナも走り出す。
―――天空のいましめ解き放たれし
「冥懐屍!」
大地を奔る影をゼロスが錫杖で突き殺すと、その背後からガウリイが斬りかかった。
黒衣が裂けるものの、やはり高位魔族であるゼロスにはたいしたダメージを与えられない。
反撃とばかりにゼロスが不可視の衝撃波をガウリイへと放つが、横からぶつけられたゼルガディスの氷の矢によってその軌道は変えられる。
そこへ、アメリアがたたみかけるように崩霊裂を解き放った。
―――凍れる黒き虚無の刃よ
もう何度目かの蒼い光を錫杖で断ち割って、ゼロスが声をあげた。
「何を考えているか、バレバレですよっ」
飛んできた魔力光をリナはすんでのところでよける。
―――我が力 我が身となりて
慌てて三人がカバーに入る。
だが、一瞬の隙をついて、ゼロスの姿はかき消える。
ガウリイの剣が空しく空を切った。
―――共に滅びの道を歩まん
リナの目の前にゼロスが出現する。手のひらには魔力光。
「ガウリイさんを殺すまで大人しくしててください」
「リナさんッ」
アメリアの悲鳴のような声。
―――神々の魂すらも………、………?
魔力光が顔を灼く寸前、突然リナが詠唱をやめた。ゼロスが怪訝な顔をする。
とまどったような表情が、一瞬だけリナの顔に浮かんで―――
ぱぅんっ――― !!
空間が変わった。
生まれ変わった。
リナとその周囲だけ、いらない殻を脱ぎ落とすかのように、空間そのものの気配が根本から変化する。
何の前兆もなく、唐突に現れたのは、忘れようもない力の気配。
輝かしい金色。
―――全てを生みだし、無に帰す、金色の女神がそこに立っていた。