Just be conscious〔前篇〕
それは。
気づかないうちにいつの間にか。
セレンティアの門に背を向けてからずっと、空は青く、雨は一滴も降らず、旅の歩みを止めるものはなかった。
旅は自由だ。進むも止まるも戻るも、それを阻むものはない。
だが足を止めようとしても、それを押しとどめる何かが、いまの二人のあいだには静かに存在していた。
ふりはらえば、ほどけてしまう細い糸のようなその何か。それは時とともに自然と薄れ霞んでいくことがわかっており、いま敢えてふりほどかずともよいものだった。
いつもと何が変わるわけでもなく、他愛のない話をし、おいしいものを食べ、その何かをまといつかせたまま、リナとガウリイは大地を踏んで前へと進む。
透きとおるように、空は青い。
「お前………つくづく縁があるよなあ」
「今回はあたしがどうこうしたわけじゃないわよ」
どこかしみじみとガウリイが呟いたのは、セレンティアを出て三日目のこと。
憮然と答えつつ、リナはショート・ソードの柄に指をかけた。だが、まだ抜きはしない。
ガウリイのほうはといえば、緊張感もなくゆったりと立っているだけに見えるが、彼の場合はそこからほとんど予備動作なく抜剣する。すでに臨戦態勢だといえた。
深呼吸がわりに溜息をひとつ吐き、すっと体勢を整える。
西の空は、はや黄昏の色。
森のなかを抜ける街道の行く手を塞いでいるのは、見覚えはないが見慣れた風情の盗賊たち。やや数多し。
ざっと周囲を把握しながら、リナは思わず半眼になった。
たしかにそれほど大きな街道ではないとはいえ、表街道で日も沈まないうちから出てくるか普通。
「へへ、出すもん出しゃ見逃してやってもいいぜ」
「それはこっちのセリフよ」
盗賊の頭と思しき男が発したありきたりの口上に、リナは小声で詠唱していた呪文を中断した。ガウリイの呆れた顔は見ないフリをして、ぴしゃりと言い捨てる。
「ひとがせっかくおとなしくしてあげてるのに、わざわざそっちから姿を現してくれるなんてね。悪いけど、今日はあんたたちと遊びたい気分じゃないのよ。そっちこそ出すもん出してくれるなら、いまなら見逃してあげてもいいけど?」
「ずいぶんと威勢がいいじゃねェか」
小娘の虚勢ととったか、数を頼んでいるのか、頭の男はひくりと口元を歪めて笑っただけだった。
たしかに多少、数が多い。茂みや木の陰に隠れている者も含めてざっと二十数名というところか。表街道でシゴトをしようなどと考えるだけあって、数は揃えているようである。頭数だけなら圧倒的に向こうが勝っているため、囲まれるのはあっという間だった。
無言で次々と武器をかまえ、脅すようにじわりと包囲の輪を狭めてくる。
得物は質も種類もてんでばらばらだが、皆一様にぎらりと光を反射した。騎士くずれか小さな盾をかまえている者もいる。これだけで普通の旅人は恐ろしさにふるえあがって諸手をあげるのだろう。
リナも怯えたふりをして、ガウリイの後ろにまわった。男がまだ何か言っているが、さすがにもう相手の口上は右から左に聞き流す。面倒くさいのでとっとと片づけるに限る。
依頼料を受けとることなく街を後にしたとはいえ、さすがにまだ盗賊いぢめにいそしむ気にはなれなかった。このあたりはラルティーグの中央部ということもあり、もう少し国境沿いまで移動してからと考えていたのだ。そのうち頼まれなくともこちらから出向くつもりだったというのに、なんだってひとが気分の乗らないときに、のこのこと出てくるのか。
腹が立って、どうということのない口上が聞き捨てならず、思わず最初の詠唱を中断してしまったではないか。
苦々しい気分で呪文を口ずさんでいたリナの目の前で、ガウリイの金髪がかすかに揺れた。風が、吹いていた。
すぐそばにある広い背中を見つめる。そのなんてことはない金に目を惹かれた。見慣れた色彩、よく知ってる背中。
刹那、形にならない淡い何かが胸のうちをよぎり―――そのまま、呪文の詠唱が完了する。
「風波礫圧破!」
生みだされた轟風が前方にいた盗賊の半数を打ち倒し、ついでにその方向に隠れていた盗賊も景気よく吹っ飛ばした。引きちぎられた枝葉や舞う砂礫が、盛大に視界を埋め尽くす。
包囲がくずれたその一角へ、ガウリイが剣を抜き放ちざま飛びこんだ。リナも一拍遅れてショート・ソードを手に後に続く。
「っ……のアマ!」
殺気だった真正面からの一撃を受けとめ、リナは続けて次の呪文を解放した。
「氷の矢!」
十数本の冷気の矢がリナの背後に出現し、二人に追いすがろうとしていた後方の敵へと降り注ぐ。
「なん……… !?」
愕然とする目の前の盗賊の剣を弾き、リナはその横をすり抜けた。
向かう先では、ガウリイが数人を相手にその剣をふるっている。
べちべちっ!
なんだか痛そうな音とともに盗賊が吹っ飛び、ばたばたと倒れていった。どうやら、また剣の腹で殴っているようである。彼が本気であの剣をふり抜いたら、相手の胴体は確実に泣き別れになってしまうのでやむをえない。いくら盗賊とはいえ、それは少々むごかろう。それに人の往来する街道をあまり汚すわけにもいかない。
呪文をくちずさみつつ、リナは斬りかかってきた別の盗賊の剣を受け流し、その胴を蹴りとばした。囲みを抜けたところで大技を一発いきたいのだが、合流しなければガウリイが巻きこまれてしまう。
走り寄ってくるリナに気づき、ガウリイのほうも剣で周囲を牽制しながら近づいてくる。その表情がはっと変わった。
「リナっ!」
鋭い警告―――リナの視界の左隅で影がひらめいた。
剣を持つ右手は間に合わない。リナはとっさに左手で、飛んできた何かを打ち払った。
「………ッ!」
思った以上に強い衝撃が来た。角度が悪かったらしく、腕に続いてぶつかった指先に痺れがはしる。
痛みに顔をしかめたものの、リナはそのまま詠唱を続けた。
弾かれて地面に転がったものは、革張りの小さな丸い木盾だった。それを投げ放ちざま剣を手に突っこんできた盗賊が、走りこんできたガウリイに一撃のもと倒される。
向こうにとってはタイミングが悪すぎた。ガウリイと合流をはかる前なら、まだリナの不意を突けたかもしれないが、いまは互いが互いをフォローできる位置にいる。
栗色の髪を踊らせリナは身をひるがえす。こちらは場所、タイミングともに完璧。
ガウリイの隣りに立ちながら、リナは笑みとともに『力あることば』を唇にのせた。
「地霊咆雷陣!」
勝敗は一瞬で決した。
空と大地をつなぐように広範囲に降り注いだ雷撃の雨は、残りの盗賊たちそのほとんどを呪文の効果に巻きこんでいた。
「相変わらず容赦ないのな………」
「手加減してるほうだわよ、かなり」
戦闘不能になった盗賊たちから有り金を巻きあげ、片っ端から眠りをかけながらリナは不機嫌にそう答えた。
なにぶん数が多いため、ふん縛るのも縄がもったいない。
さいわいリナたちが後始末をしている最中に旅の商人が通りかかってくれたので、これから行く街の警備兵へ伝言を頼んだ。盗賊たちの人数と呪文の破壊跡に仰天した相手はすぐさま来た道を引き返してくれたので、そのうち警備兵とともに戻ってくるだろう。
それまでに、やっておかねばならないことがある。
有り金を巻きあげながら、まだ意識のある盗賊からねぐらの場所を聞きだせば、リナが踏んだ通り、ここからかなり離れた国境沿いに拠点を持つ別の盗賊団の一員だった。リナがそう考えたのは何のことはない、指揮をとっていた盗賊の頭が、あまり頭らしくなかったからである。指示を出しきれていなかった。
仲間内で反りが合わなくなって、盗賊団を抜けたはぐれ者の集まりだったらしい。ここでのシゴトがうまくいけば、新生盗賊団の輝かしい一歩となったかもしれないが、相手が悪すぎた。
「世間様から思っきしはみだしてる盗賊たちのなかで、さらに反りが合わないって………いったいどんだけキョーチョー性がないのよ?」
「な、なんだとぉ! まるでひとをリナ=インバースか何かのようにぶげしっ!」
リナは唱えかけていた呪文ではなく、ブーツの底でその盗賊を黙らせた。
不幸にして、先ほどリナが名前を呼ばれたのを聞いていなかったらしい。
「ったく………こいつらほっといて、さっさと街に行きましょ」
「いいのか?」
「いーわよ。もう用はないわ。歩いてるうちに警備兵ともすれ違うでしょ」
「―――手は平気か?」
「は?」
意味がわからず、リナは眉をひそめてガウリイを見た。
いつのまにか近くまでやってきていた相棒は、じっとリナを見下ろしている。―――その顔ではなく、左手を。
何を問われているのか悟り、リナは苦笑した。
街道沿いの草むらに転がっている問題の盾は、通常の円盾の半分ほどの大きさしかない小型のものだった。だから投擲できたのだろうが、素材自体は重くて堅い樫材でできている。傭兵をやっていたガウリイは、そのあたりを知っているのだろう。
「だいじょーぶよ。骨にも異常はないわ」
「お前さん、ちょっと痛そうにしてただろ」
さすがに至近距離だっただけあって、しっかり見られている。
たしかにまだ指先が少しじんじんしているが、痛みはもうなかった。そして相変わらず呪符は傷ひとつついていない。
「そりゃね。でもいまはもう痛くないし。青あざぐらいはできるかもしんないけど、それぐらいはたいしたことないでしょ」
腕を持ちあげ、握ったり開いたりしてみせる。最後にひらひらと手をふってみせると、ガウリイは納得したのかうなずいて、リナの頭をくしゃりと撫でた。
なぜか、言葉に詰まった。
思わず視線を伏せた先で、ぽつっと地面がまるく滲む。
手の甲に滴でも跳ねたか、ガウリイが空を見あげた。
「あ………」
頭に手を置かれたままリナも顔をあげ、軽く目を見張る。
視界いっぱいに金の糸が降り注いでくる。射しこむ陽射しに無数の滴がきらめいて散った。その向こうに広がる空は、晴れ渡って青い。
ショルダー・ガードの上で滴がぱたぱたと音をたてた。みるみるうちに連なって流れると、縁飾りのところに濃くわだかまる。
「天気雨ね」
「濡れちまうな」
お互い独り言のように呟いた。
すぐに止むだろうけれど、ぼんやりとここに居てはびしょ濡れになってしまう。
ふたりはどちらからともなく、街に向かって走りだした。警備兵の一群は迂回することを心に決める。雨のなか事情説明のための立ち話なぞごめんである。
互いの装備が無骨な音をたてる以外は、ともに無言。
気安め程度に手をかざし光る雨糸を遮りながら、リナは頭上から失われた手の重みが、なんとなく名残惜しいような気がしてならなかった。

