Just be conscious〔後篇〕

 雨は、すぐに止んだ。
 たどりついた街では、適当な名前で良い宿に部屋をとった。
 盗賊たちをしょっぴいた警備兵に居所を探しあてられ、あれこれ事情を尋ねられるのも面倒くさいと思っただけで、他意はない。
 盗賊たちから有り金を巻きあげていることを何ら後ろめたく思いはしないが、追求されるのも手間だった。もし突きとめられたら突きとめられたで、開きなおって口先三寸で言いくるめるだけである。
 普段より良い宿にしたのも、変な宿にあたって設備のことであれこれ苛立つのも馬鹿らしかっただけで、これまた深い意味はない。安っぽいつくりでも我慢できないことはないが、それよりは多少出費してでもつまらないことに気をわずらわせたくない。
 ―――セレンティアを出て以来、そんな気分だった。
 宿に着いたときには、すでにもういい時間となっていた。
 とりあえず部屋に荷物だけ置いて夕食をすませ、あらためて部屋のある三階へあがるとガウリイと挨拶をかわして扉の前で別れる。次に会うのは明日の朝だ。
 そこそこ値がはっただけあって、宿のつくりは上々だった。備品の小物類が充実している。床にはカーペットが敷かれ、部屋履きも備えつけられていた。灯されているランプからも、癖のある獣脂の匂いがしない。
 リナはショルダー・ガードとマントをはずし、まだ少し滴の残っている装備類をざっと拭いた。ベンチを兼ねたチェストの上に適当に並べて乾かす。それからその横の余った空間に腰掛けてブーツを脱いだ。
 次に小指から順に手袋を引き抜きかけ―――違和感に、一瞬だけ動きを止める。
 やがて小さな溜息とともにするりと手袋を抜きとると、リナはランプの明かりに指先をかざした。
「あ〜、やっぱ割れてたか」
 痛みはないので生爪の部分が無事なのはわかっていたが、先刻からずっと指先に違和感があった。左の人差し指と中指と薬指。程度は違えど、そろってきれいに割れている。
 このままではよろしくない。万が一、服やら髪やらひっかけて、肉のついたところまで割ってしまったら、えらいことになる。
 リナはやれやれと息を吐くと、外したショルダー・ガードの内側から薄刃の小さなナイフをとりだし、スリッパをつっかけてテーブルのところまで歩いていった。
 椅子をひいて座り、魔力の明かりを生むと、それから爪にナイフをあてて、割れたところを慎重に削いでいく。
 左の爪でよかった。右手だと、少しばかり難儀するところだった。
(アメリアと一緒のときは、右手はアメリアにやってもらってたんだけどなー)
 彼女とは、ときどき一緒に爪や髪の手入れをしあっていた。
 そんなことを思いだしながら、なんとなく指を伸ばして爪を眺める。
 自分でいうのもなんだか情けないが、手のサイズに見合った幅の狭い細長い爪だ。アメリアのほうは逆に幅が広くて堅く、姫君らしくきれいに整えられてはいたが、何というか………女らしさよりも、表現はおかしいが「元気がいいわね」と評したくなるような彼女らしい爪だった。
 むしろ最初にアメリアの手をとったときは、爪よりも、目立たないながらも姫君の手に拳ダコがあることに驚いて、そちらのほうに気をとられてしまった。リナの手よりも皮膚が厚くなめらかで、きちんと体術を修めている者の手だった。
 王女の手としては型破りだったが、幼い頃から手入れされ続けて荒れや歪みのない、いかにも上流階級らしい形の良さと、戦う者として自身の拳の使いかたを知っている力強さが違和感なく同居している不思議な手で、リナはアメリアの手が好きだった。
「アメリア、元気かしらね。あとゼルも」
 元気でいてね、と声に出さずに呟く。
 墓に手向けられた幾つもの枯れた花―――
 きゅっ、と胸の奥が冷たく縮こまるような気がした。黙ってリナは爪を削ぐ。
 ある程度、爪の形を整え終えると、静かにナイフを置いた。
 それから卓上に置きっぱなしだった旅荷の紐をくつろげ、魔力強化した絹紐やら針金やらの、不法侵入………もとい探索用の七つ道具が入った小袋を引っぱりだす。
 しばらくなかを探っていたが、リナはやがて、そのなかから指一本分ほどの幅をした薄い鋼板を選びだした。表面が明り(ライティング)の光を受けて、一面粉を吹いたようにきらめいている。
 リナが故郷で近所の鍛冶屋に頼んで作ってもらった特製のやすりである。塗布してあるのは、魔術で粉にしたくずサファイア。
 本来なら一度粉にした状態から、魔法陣を焼きつけ宝石の護符(ジュエルズ・アミュレット)を造りだすところを、術式を途中で中断し、粉のまま使用したのだ。
 ルビーもサファイアもかなりの硬度を持っているので、粉にしたそれを見て、磨き砂の代わりになるのではないかと単純な思いつきだったのだが―――
 これがまた、面白いよーに削れるのである。
 作りだした鍛冶屋も驚いていたが、そこに目聡い母親が商売上の契約をもちかけため、いまや実家の目玉商品になっていたりする。
 発明したのは自分なのだから、少しぐらい権利対価(おこづかい)をくれないかと言ったら、姉にあんたは自分の家が儲かるのが不満なうえにそこからお金をとるの? と、にっこり笑ってすごまれた。怖かった。
 そんなこんなで、以来このアイテムはリナ愛用の七つ道具、兼、爪やすりである。鋼板を爪やすりにしているリナを見て、アメリアには呆れられたが、その彼女も一度使って気に入ったらしく、物に執着しない彼女にしてはめずらしく欲しがった。
 さいわい複数本持っていて一本分けてあげたので、いまごろ王宮で使っているかもしれない。
 爪にやすりをあて二、三度動かし、指を吹いて粉を飛ばす。
 粉っぽくなってしまった指先を擦りあわせながら、いつのまにこんなに長く伸びてしまったんだろう、とぼんやり思った。
 当たり前だが、放っておけば爪は伸びる。わりとすぐに伸びるので、けっこうまめに手入れをしなければならない。長すぎても短すぎても、指を使う動作に支障を来す。
 剣を握り、印を結ぶのは指だ。戦うときに下手に長いと、今日みたいなことになる。
 リナは手袋で保護しているからまだいいが、ガウリイの場合、剣を握る手先の感覚が何よりも大切なので、あれでけっこうリナよりまめに手入れをしている。大きな背中を丸めて爪を切っている様は、なんとなく笑いを誘った。
「他の爪も伸びすぎだわね………」
 指先を眺めて溜息を吐く。最後に爪の手入れをしたのはいつだったか。
 忙しかったり、疲れていたりすると、細かい作業が億劫でつい後回しにしてしまう。
 やすりを置いて、再びナイフを手にとりかけ―――リナはその動きを止めた。
 記憶の蓋が開く。
 そうだ。最後に爪を整えたのは、セレンティアに着いた最初の日―――
 のんびりあちこち見てまわるつもりで、仕事はしないとガウリイに宣言したにもかかわらず、魔道士協会の評議長に泣きつかれ、翌日には依頼を持って帰った。あんな結末を迎えるとも知らず。
 自身を顧みる余裕もなく、あの広い寺院都市を駆けずりまわった。ふたりで。
 そのあいだにも、いつの間にか爪は伸びて。いま割れて。
 リナは知らず詰めていた息を吐きだした。
 もつれあって胸をふさぎ、呼吸を苦しくさせるような糸はまだからみついていた。敢えてふりほどく気にもなれない。時間が経てば薄れて霞みゆくものだと知っていた。
 だが、いまはまだ鮮やかに生々しい。
 黄昏の紅と血の赤が重なり、焦げた異臭と血の匂いが混ざりあう。それらを鎮めるそよぐ風と揺れる緑は、耐えがたいほど透徹とした痛みをともない、閃光となって脳裏を埋めつくしていく。
 永遠に失われて、取り戻せないもの。
 く、と喉から奇妙な音が洩れ、リナは思わず唇を噛んだ。胸の奥から咳きあげてくるものが、怒りなのか哀しみなのかも判然としない。
 これではいけない。
 ゆるく頭をふって流し追いやり、気をとりなおしてナイフを爪にあてたときだった。
「―――リナ、いいか?」
 穏やかなノックと、それに続く穏やかな声。
 動きを止め、しばらく忙しなくまばたきをくり返し―――リナはナイフを置いて立ちあがった。
 鍵をはずし扉を開ける。目線はごく自然に上を向き、当たり前のように視線がかちあう。
「どうしたの?」
「あ、いや別にたいした用でもないんだが………下に行って何かつまもうと思ったんだが、お前さんもどうかと思って」
「………って、さっきご飯食べたばっかじゃないのよ」
「そんなんでもないぞ」
 意外そうにガウリイに言われ、リナはしばし眉をひそめた。
 どうやら思った以上に爪の手入れに時間がかかっていたらしい。―――いや、むしろぼんやりしているほうに時間を使ってしまったのか。
 思わず溜息をつきかけ、慌てて呑みこむ。
 たしかに腹具合は寝る前に何か飲んだり、つまんだりするのにちょうどいいぐらいになっていた。ガウリイの誘いを受けるのも悪くない気がする。
 少し考え、リナは笑ってうなずいた。
「オーケイ、悪くないお誘いね。でも先に行ってて。後から行くわ」
「どうしてだ? あ、悪い。もしかしてなんか取りこみ中だったのか?」
「そーいうこと。ちょっと爪切ってたのよね。まだ途中なの」
 リナはうなずいて、ノブを握っていないほうの手をひらひらさせた。
「すぐ行くから先行ってなんか頼んでて」
 そう言うと、ガウリイは少し困った顔になった。
「そんなにかからないんだったら、終わるのを待っててもいいか?」
「別にいいわよ?」
 疑問に思ったものの特に断る理由もなく、リナは一歩退いてガウリイを部屋のなかへと入れる。そのままテーブルに戻りながら、すぐに理由に思いあたった。
 あの街を出てから、まだ三日しか経っていない。きっと、それが理由。ガウリイも、ひとりでいるとぼんやりしてしまうのかもしれない。―――夜が長くて。
 リナは椅子に座りなおし、爪の手入れを再開する。
 ドアを閉めてやって来たガウリイは、もう一脚あった椅子を勝手にひいて、長い足を持てあますようにして座った。互いの部屋を行き来するのも、いつのまにか慣れてしまった。いまさら椅子をすすめたりなどしない。自分の居場所はそれぞれ勝手に見繕う。
 しばらくともに無言だったが、相手のいる沈黙を苦にしたことはなかった。
 ときおり脈絡なく単語が飛びだし、そこからぽつぽつと会話が繋がる。それも普段と何も変わらない。明日向かう予定の街の話だとか、今日の昼間の盗賊の話だとか、さっき食べた夕食のあれがおいしかったから、下に行ったらまた頼もうとか、そんな話題がふたりのあいだを埋めていく。
「ガウリイは爪、平気?」
「んー、明日にでもやるさ」
「そ。あたしは伸ばしすぎたわね。うっかりしてたわ」
 最後の爪にやすりをあて終え、リナは指先でなぞって感触をたしかめる。
 頬杖をついてリナの話を聞いていたガウリイが、ふと何かに気づいたように顔をしかめた。
「―――もしかして、さっきの盾か?」
「あー、実はちょっとね」
 だからこうして爪切ってるってワケ―――
 そう続けようとしたセリフは、喉まで出かかったあたりで消えた。
 明り(ライティング)の光は揺れないが、テーブルに落ちる指先の影はなぜかゆらゆらと頼りない。そのふたつの影が、ひとつに繋がっていた。
 彼の手のなかに、リナの左手があった。



 理由もわからない激しい空白が生じた。



 手をとられている。ただそれだけの光景が視界に灼きつく。
 整え終わった爪を真剣に見ているガウリイの綺麗な青い目の色だとか、その視線が実際に留まっているような奇妙な指先の感覚だとか、思ったよりその手が温かく逆に自分の手が冷えていることだとか。互いの輪郭と陰影だとか。
 一瞬で氾濫した思考の濁流に、どこか他人事のように呑まれながら―――リナは、たったひとつのことにひどく衝撃を受けていた。
「あんたの………」
 呆然として言葉を紡ぐ。
 たいして力を入れられているわけでもなく、本当に他愛なく手をとられているはずなのに、なぜかふりほどけないまま。
「あんたの手、大きいわね」
 爪から視線をはずし、リナの顔を見たガウリイがまばたきした。
 はっとリナは我に返る。
 無表情を保ったまま、馬鹿なことを口走ったと内心で焦った。
 男女差はもとより、ガウリイは長身の部類でリナは同性のなかでも小柄なほうだ。あらためて比べるまでもなく、パーツの大きさ全部が違う。これまでにも何度かふたりのあいだで話題になっている。いまさら口にするようなことでもなかった。
 なのに急に。まるでいままで何も知らずにいたかのように、相手の手の大きさとそれに添う自分の手の小ささに驚くなんて、どうかしている。本当にいまさらすぎる。
 黙りこんでいると、ガウリイが屈託なく笑った。
「リナの手はちっちゃいな、ほんと」
 ひょいと手を持ちあげられる。子ども同士がするような他愛なさで、リナとガウリイは手を合わせていた。大きさの比べあいっこ。これだって初めてではない。
 やはり以前に抱いた感想と違わず、彼の手に比べ、リナの手ときたらまるでおもちゃのようだった。同じ人間の手だというのに、関節ひとつ分は違っている。
 気づけば、普段通りの憎まれ口が口をついて出ていた。
「あんたの手がおっきすぎるのよ」
「まあ、そうかもしれんが、お前さんの手も小さいほうだろ」
 買った手袋の指の部分をいつも縫い縮めている事実に、リナはうっと言葉に詰まる。
「爪、平気そうだな」
「だから、だいじょーぶだって言ったでしょ。単に伸ばしすぎて割れちゃっただけなんだから」
 重ねていた手のあいだに、空気と陰影がすべりこんだ。テーブルに落ちる影がふたつに分かたれる。
 分かれた手はそのまま、ぽん、と頭の上に移動した。二、三度はずんで、あっけなく離れていく。
「今度から気をつけろよ」
 ―――ああ、ガウリイは気づいている。
 爪を割ってしまった、その理由に。
 じゃ行くか、とガウリイが椅子から立ちあがり、つられるようにリナも立ちあがった。
 スリッパでは階下に降りられないため、少し断って時間をもらい、チェストに腰掛けてブーツを履く。
 顔をあげて、戸口で待っているガウリイを見つめた。
 扉はすでに半分ほど開いている。ノブをつかむ手と、扉の枠に何気なく置かれた手。少し節の目立つ長い指と大きな手のひら。
 強い、手だ。かなわない。
 先ほどの理由も知れない空白が、ひどく胸に沁みた。
 気づいてしまった。
 たぶん、この手はいつも用意されている。触れるか触れないかの位置にそっと。
 前に進んでいる限り、たじろがない限り、その手は触れない。けれど、ゆらいでぐらつき、倒れそうになったときに、傾いた背中にこの手が触れて、支える。
 当たり前のように、それが自然のことであるかのように、この男はリナを支えるのだ。
 泣いているのかと、だいじょうぶかと、半分背負うからと―――
 この手が両肩に置かれたときの重さが、不意によみがえった。ひどく重たかったような気がする。憎悪に気圧され、呑まれかけていたリナを引きあげ、連れ戻した手。
 剣を探していたときも、剣が見つかってからもずっと、変わることなく。
 この手とこの手が持つ穏やかで静かな強さは、いつも自分の傍らにあったのだ―――
 知っていた。わかっていた。
 そんなこと、とっくに承知しているはずだった。
 だが、もしかすると自分はわかったつもりになっていただけだったのかもしれない。
「―――リナ?」
 怪訝そうにガウリイが呼びかけてくる。リナは立ちあがれずにいた。
 思考の濁流に呑まれて溺れ、沈んだ先に眠っていたものが、じわじわとリナを爪先から侵していく。
 それは最初からあったものだった。きっと、ずっと以前から埋もれて眠っていた。
 あのとき、ぎりぎりまで保っていたはずの理性も吹き飛び、一瞬前まで理解していたはずの、その行為が意味する結果の後先も考えず、ただ。ただ目の前から失わないためだけに。
 あの呪文を唱えた。それが何を意味していたのか。
 旅をするのに理由はいらないと告げられて、置かれた手の感触がひどく心地よかったのはなぜなのか―――
(あたしは、あたしはガウリイが)
 突然浮上してきた事実はいままで堆積してきた時間の分だけ、抱えきれない重さと大きさ持っていた。潰される。


   ………なら………
   あんたたちならどうなんだ………?
   もしも俺と同じになったらどうだ?


 いまさらのように彼の問いに叫びだしたくなった。
 彼の憎悪が怒りが絶望が、そして何より最後の躊躇が。生々しく迫る。切り裂いていく。
 透きとおるような風と緑が脳裏にひらめく。永遠に失われて、取り戻せないもの。
 いつのまにか伸びていた爪は割れてしまった。なんてことない衝撃で、あっけなく。
 知らず育っていたこの感情も、いつかどうということはない日常のなかで、たやすく割れて失われていくのだろうか。
 そのとき、自分は。
 テーブルの上の明り(ライティング)が消え、部屋が闇に沈んだ。



 リナは立ちあがった。
「―――ごめん。何でもない。行こっか」
 目はまだ慣れないが、扉まで障害物はない。歩きだした先で長身の影が動いた。夜目がきくその動きは危なげない。
 当たり前のように腕をとられた。
「暗いだろ。気をつけろよ」
 ランプの明かりがやわらかく滲む。だんだんと薄暗さに馴染んだ視界が、あたりの輪郭を捉えなおしていく。
 礼を言おうとした刹那、ふわりと視界にまた闇が降りた。
「ひとりで背負うなよ」
 それはひどく優しくあたたかい暗がりで。
 腕のなかにいる、という理解は遅れてやってきた。
「前にも言ったろ。半分はオレが背負うって」
 リナは軽く身じろいだ。ガウリイの腕に手を添える。
 ひどく優しく、ゆるやかな、抱擁とすら呼べないような抱擁だった。抜けだそうと思えば、たやすく抜けだせる。ただ抱き留めているだけのような、腕の囲い。
 そうだ。こうやって(・・・・・)この男は支える(・・・・・・・)
 リナの揺らぎを見逃さない。
 目眩がした―――。いまさらのように、自分の傍らに立つ彼が持っている途方もない価値に気づく。それが自分のためだけに用意されていると、誰に言われるでもなくリナは知っていた。
 こうして寄り添って立っていると、爪先から頭のてっぺんまで、その優しさにひたされているようで、泣きたくなる。実際、眼窩の奥がじわりと熱くなり、リナは慌てて目を伏せた。
 いつのまにか、当たり前のように触れるようになった。
 いつしか、自分は心地よさとともにそれに慣れていた。
 それは気づかないうちに、根を下ろし土を抱え、大地に食いこみ、抜きさることなど不可能なほどに育っていた。
 気づいてしまうと、たまらなくなる。その途方もない感情の量に、いてもたってもいられなくなる。彼が突きつけてきた問いに叫びだしたくなる。
 失うわけにはいかない。
 手放すことなど、できるはずがない。
「―――ガウリイ」
 だから名前を呼んだ(・・・・・・・・・)
 両腕を持ちあげて自由にすると、リナは背伸びして彼を抱擁した。やはり、ふわりとごく軽く。包みこむように。
「ありがとう」
 体を離し、リナはガウリイの顔を覗きこんで微笑する。
「だけど、あんたも忘れないで。あんたの重さの半分も、あたしが背負ってるのよ」
 どちらか片方がもう片方の重さを、一方的に引き受けているわけではない。
 ただきっと、それが等分かと言われると、それは違うのだろう。そうでないものも、いまはまだある。
 だが少なくとも、いまのふたりにからみついている呼吸を苦しくさせるような想いは、等しく分かちあっている重さだった。
 ガウリイが、わずかに目をみはった。
 それから少し安堵したように笑い、リナの頭を撫でる。
 それはいつもの、ぽんと手を置くような撫でかたではなく、指で梳き混ぜていくような、どこか普段とは違う気配の宿った動きで、リナはそれに気づいたが、そのままそれを受け入れた。
 与えられる感覚にリナは目を細め―――やがてそっと、閉じた。
 空気が動く。さらりと髪が落ちるかすかな音がした。
 唇にやわらかく触れた官能は、ゆっくりと離れていく。闇が深さと甘さを増す。
 感応は、ほんの一瞬。
 ただそれだけで酩酊しそうだった。自制がきかない。
 平静を装ってはいるものの、心臓が早鐘を打ちすぎていまにも止まるのではないかと思った。
 こつんと額に額があたる。なかば覚悟を決めて目を開けば、至近距離からの双眸は笑っていた。
「お前さん、顔真っ赤だぞ」
「うるさい」
 こんなに暗いのにひとの顔色を読みとれるほうが間違っている。
 リナは相手から視線をはずし、小さく息を吐いた。
「………どういうつもりよ?」
「んー?」
 無造作に抱き寄せられ思わず身を固くすると、つむじのあたりにちょこんと顎が乗せられた。頭のてっぺんから直接声が響いてくる。
「キスしたかったし、いまならしてもいいんじゃないかと思ったから」
「ん、な―――」
「間違えたか、オレ?」
 問いの形をとっているが、その声音は笑っている。
「………むかつく」
 ぼそりと呟くあいだも、ガウリイの手はゆっくりと髪を撫で続けていた。
 リナは突っ立ったままでいる。
 腕の囲いはたしかに少し狭くなったが、体を預けることもなく、すべての重さをゆだねることもない。揺らぐことなく立つリナを包みこむように、ガウリイの腕は彼女を抱きしめている。それでいいと言うように。
 この男ときたら。
 リナはうつむいた。なぜだか泣きそうだった。
(―――あたしは、あんたが)
 何も考えられないぐらい、頭のなかがたったひとつの感情で埋めつくされる。飽和して処理しきれない。立ちつくしていないと倒れてしまいそうだった。
 髪を梳き混ぜていた指が頬に触れた。かかる髪をのけていく。
 観念してリナが再び目を伏せたとき―――廊下から、ひとの足音が響いた。
 指の動きがぴたりと止まる。リナはすっと目を開けた。
 ―――そういえば、扉が半開きのままだった。
 沈黙が落ちる。………何となく、ふたりして苦笑した。
「行くか」
「そうね」
 慌てるでもなく戸惑うでもなく、いつものようにするりと距離が開いた。最初の予定通りに階下の食堂へと向かう。
 階段を降りながら、リナは先を行くガウリイになんとなく尋ねていた。
「そういえば、さっき何でちょっと驚いてたわけ?」
「いや………また首絞められるんじゃないかと思ったもんだから、そうじゃなくて驚いたというか安心したというか」
「………いますぐ目の前の背中に靴跡つけてもいーかしら。一瞬で下まで降りられるわよ」
 地を這うような声でリナが言うと、目前の背中はびくっとふるえ、蹴られてはたまらんと慌てて遠ざかっていく。
 そうやって、踊り場からちらりとこちらを見上げる青い瞳は、薄暗い夜のなかでも、とても綺麗で。
 階段を踏む足音ともにすぐに消えたそれが名残惜しい気がして―――リナは、柄でもない自分の思考に溜息をついて、思わず頬に手をあてた。いまさらのように熱い気がする。
 まだ心なしか、とくとくと鼓動は速い。
 ゆっくりと息を吐いて吸う。
 ことん、ことんと、ひとつずつ階段を降りていく自身の足音。
 自覚した感情に、輪郭をあたえ、爪を整えるように形を整え、そっと大切に胸のなかにおさめなおす。水面にときおり顔を覗かせながら、それはたゆたい揺れ動く。二度と沈んで埋もれていくことはないだろう。
 失くしてからでは遅いのだ。気づかないうちにいつのまにか、あっけなく割れてしまわないように、手間をかけて、まめに触れて。意識して。
 たどりついた踊り場で、射しこむ月明かりに窓を見あげた。壁の一角に小さな採光用のガラス窓があった。
 彼はどこでこの夜を過ごしているのだろうか。いくつものいくつもの手向けられた花。
 彼の問いにこたえられるはずもなく、この感情に気づいてしまったいまでは、増してしまったその恐ろしさを真正面から受け止めるしかない。
 だが増したがゆえに、恐怖の輪郭ははっきりとしていた。知ってしまえば、向き合える。
 ときどき持てあましながら、飼いならして。怯えることなく前を見て。
 今日と同じ明日が来ることを変えないために、少しずつ変わっていくことはできる。この感情に気づいて、受け入れたように。
 いままで通り、ふたりで歩いていくために。
「―――好きよ」
 唇だけでその言葉を呟いて、リナはまたゆっくりと階段を降りていく。
 なかなか来ないリナをいぶかしんだガウリイが、数段昇って顔をのぞかせた。
 笑い返して、リナは彼のもとへ近づいていく。目線が等しくなる特別な一段にたどり着くと、驚く青い双眸にかまわず、ぐいとその金髪をつかんで引き寄せた。
「いまならしてもいいんじゃないかと思ったわ」
 唇を離しながら素っ気なく告げ、すぐにその隣りに並ぶ。
 特別な時間は階段一段分しか与えない。
「………かなわんなあ」
 頭上で溜息のように苦笑する気配がし、くしゃくしゃと頭が撫でられた。
 リナは笑いながら目を伏せ、傍らの背中をぽんと叩く。
 それから一緒に階段を降りた。



 旅は自由だ。進むも止まるも戻るも、それを阻むものはない。
 やがて世界はふるえ、リナは未来を選びとる。(たお)すことと泣くことを。
 それでも、いつもと何が変わるわけでもなく、他愛のない話をし、おいしいものを食べ、リナとガウリイは大地を踏んで前へと進む。以前より少しだけ互いの距離を近くしながら。
 変わっていくものと変わらないもの。
 透きとおるように、空は青い。



 〈Fin.〉