Shining tear 〔前編〕
その街を訪れたのは、成り行きからなる偶然だった。
国の代表として他国に赴き、交渉の席についての帰り。大きな街道とそれなりの治安。領主がいるとなまじ気を遣われてわずらわしいのでそれは避け、セイルーンへの最短距離を選んだ結果、訪れることになった街。
馬車に掲げられたセイルーンの紋章が衆目を集めているのを気にしつつ、窓越しに視界をよぎった建物にふと目を細める。
「―――姫さま?」
「ここの魔道士協会は大きそうですね」
「何か、隔幻話で王宮に至急連絡することでもございますか?」
「いいえ、そういうわけじゃないです」
余計な気をまわしてくる侍女に苦笑し、アメリアは窓から体を離した。
他意などない。ただ思いだしただけだ。訪れた街に規模の大きな魔道士協会があると、必ず顔を出していた彼女と、書庫に入り浸っていた彼のことを。
「まだ日も高い時分ですが、次の町まで距離があるため、この街に一泊する予定です」
「わかりました」
鷹揚に頷き、アメリアは馬車のなか、ふと目を伏せた。
落とした視線の先、白い袖に包まれた両手には何の飾りもない。対でこそ意味を成す護符のその片割れは、いま何処とも知れぬ空の下だ。
いまどこで、何をしているだろうか―――
自分は国の使者としての務めを果たし、自国に帰る旅の途中だ。
アメリアは揺れる馬車のなかから、遠く空を見つめる。
もの思いをふりきるように、背筋を伸ばし、端然と座す。国の代表としてふさわしく。唇には淡い笑み。
王女が仏頂面など見せてはいけないのだから。
まして、涙など。
予定されていた宿につくなり、アメリアはブーツを脱いでベッドの上に寝転がった。
「疲れました〜」
香草で煮沸したシーツの胸がすくような匂いをいっぱいに吸いこむ。
王女の一行が滞在するという先触れを受けて、それこそ床がすり減るまで磨きあげたのだろう。埃ひとつないベッドの飾り彫りが、ガラス窓から射しこむ午後の陽射しを受け、飴色に光っている。
アメリアの後に続いて部屋に入ってきた侍女が、椅子の背に放り投げられた上衣をとりあげて、小さく溜息をついた。
「せめて足を洗ってからにしていただけませんか。ここはまだセイルーンではございません」
「わかってま〜すよ〜」
上体を起こして両手をつき、アメリアも溜息をついた。
じっと動かずに座っていて、そのくせ何時間も揺れに耐えなければならない馬車というのは、彼女にとっては馬よりきつい。
たしかに雨風に関係なく移動できるという点で馬車のほうが便利ではあるが、付き従っている者たちはそうもいかないではないか。
当初は馬車には衣装やら贈答品やらの荷物だけを放りこみ、彼女自身は他の者たちとともに馬で行く予定だったのだが、安全がどうの長旅がどうのと、重臣たちがあまりにうるさいので折れて馬車になった。安全性も何も、外の気配を察しづらく、とっさの身動きがとれない馬車のほうが、馬よりも危険な気がするのだが、重臣たちの考えは違うらしい。
「まあ、みんなお年寄りですもんね」
身も蓋もないことを呟いて、アメリアは肩をすくめた。
アメリアひとりだけだと身軽なのだが、使節団ともなるとそうはいかない。頭はもちろん彼女だが、あれこれ人員を足すとどうしても十数名の大所帯になる。これでも王族の一行としてはかなり少ないほうだ。
この街にしても、たかだか一泊。どこかに外出する予定もない。アメリアからすると取り立ててすることもないように思うのだが、侍女はさっそく細々と荷を広げて、あれこれ整えている。
その様子を見ながら、アメリアは自らの疲労感を自覚して物憂い気分になった。
今回の公務はさすがに疲れた。ラルティーグ王都を発って相当日数が経過しているが、まだ気分も体も重い。
ノックの音がした。
アメリアの誰何に対して、侍従の声が返ってくる。無造作に入室を許可すると、侍女が立って扉を開けに行った。まったく。王族をやっていると、扉は勝手に開くものだと勘違いをしそうになる。
やってきた侍従から、町長を含めた街の顔役数名が、後ほど王女のご尊顔を拝する機会を賜りたいと申し出ていると告げられ、アメリアは眉間に皺を寄せた。
「気を遣わなくってもいいって、先触れでちゃんと伝えたんですか? 何のために領主のいる街を避けて通ってると思ってるんです。これ以上、晩餐会やら酒宴やらに呼ばれたくないからですよ。私はラルティーグ王宮で一生分の社交辞令を使い果たしてきました」
「………アメリアさま。ここはまだ」
「はいはい、セイルーンじゃないんですよね」
ベッドに腰掛けて裸足の足をぱたぱた揺らしながら、アメリアは再び肩をすくめた。二間続きの次の間を指でさし示す。先程通りぬけてきた最初の部屋は居間になっていた。
「ここでいいなら会いますよ。夕食をご一緒にというなら丁重にお断りしてください。王女殿下は長旅の疲れで頭痛を訴えているそうです」
けろりとした顔でそう指示を出すアメリアに、侍従はもはや何も言わず淡々と命令を復唱して退出した。さすがにここ数年、アメリアの外交公務を補佐しているだけあって対応が慣れている。
上衣の皺を伸ばし、携帯してきた衣桁にかけ終えた侍女が、足を洗うための水盤や布と一緒にやわらかな布靴を持ってきた。
「対面なさるときには何をお召しになりますか? 略装でよろしいですか?」
「ドレスは却下です。セイルーンに帰りつくまで、もう二度と袖を通す気はありません。上衣と肩帯でも礼儀は適うでしょうし、それでお願いします」
コルセットと爪先の尖った固い靴を思い浮かべ、アメリアはげんなりとした。あれほど体力を消耗するものはない。
ドレスは主に対外公務用で、日常、セイルーン王族は男も女も皆似たような恰好をしている。白を基調とした上下か長衣を基本として、時と場合や性別によって様々なオプションを足したり引いたりして威儀を整える。
以前のアメリアの巫女装束は、基本の衣装にマントを足しただけの単純なものだった。あれは一般の巫女たちとほとんど変わらない超簡略装なので、あの恰好で王宮内を歩きまわっていると、あまりいい顔をされない。いつなんどき、滞在中の賓客と遭遇するかもわからないので、最低でも肩帯ぐらいは掛けてまわれという無言の圧力がかかる。
現在、アメリアが着ている上下は以前のものと形はほぼ同じだが、長い袖口や裾などの細部の意匠や素材が違う。他国の王族子女に比べるとかなり簡素だが、それでも一見して貴人とわかる恰好だった。防虫のためにとあらかじめ薫きしめられている香の匂いが甘く、ほろ苦い。
「―――対面の準備をするまではあなたも休憩してください。こちらはもういいです。あとは自分でやりますから」
「はい」
割り当てられた部屋へ下がっていく侍女を見送り、アメリアは簡単に手足を洗うと水気を拭った。引きよせた椅子の背に布をひっかけると、ベッドに寝転がって目を閉じる。ずぼら極まりないが、もうさすがに動く気になれない。
天井を見あげ、肺が空になるような深呼吸。
「あーもー、疲れましたー!」
唸って、アメリアはうんと伸びをした。
体のこわばりがほどけ、鈍く痛んだ。きゅうきゅうと関節のあちこちから悲鳴があがっているような気がする。
まったくもって、セイルーンは人手不足もいいところだった。
王族の数そのものが少なく、父親は国王代行で身動きがとれず、姉は行方不明、叔父は継承権放棄で表舞台に立てないとなると、動ける王族は実質、彼女ひとりしかいない。他国への祝賀や、ここはひとつ箔を付けたいという行事や使節には、どうしても王族の顔が必要になるのだが、それらの公務のほとんどを現在、アメリアひとりで請け負っている状態だった。
以前はこれでも若年を理由に多少免除されていたのだが、いい加減、結婚してもおかしくない年頃になってくるとそうも言ってられない。
嫌なことを思いだし、天井を見あげていたアメリアの目が半眼になった。
「あーもう………」
今回のラルティーグ行きの目的は、半年ほど前に代替わりして玉座についたラルティーグ十二世の生誕祝賀会とやらだったのだが、もちろんメインはそれでも、他に様々な意味合いを兼ねていた。二、三の条約の確認やら見直しやらエトセトラ。
新国王はずいぶん先代と反りが合わなかったらしく、彼が即位してからのラルティーグは内政から外交方針まで大きく変化した。セイルーンと結んでいた幾つかの条約や通商協定にもあれこれ見直しの提案をしてきたため、セイルーン側としては調整に乗りださないわけにはいかなかったのだ。
交渉の席に着くのはアメリアだが、もちろん専門の官を同伴している。出立前に入念に打ちあわせてきているので、あとは立ち回りの問題である。
だが今回、アメリアを疲弊させたのは条約の折衝などではなく、やぶから棒に提案された結婚話だった。公式の使者を立てずに直接本人に話を持ってくる時点で、夜会の冗談の域を出ていないのだが、それだけにタチが悪い。
「セイルーン国内で私の結婚話が出ないのを何だと思ってるんですかね」
―――出ないのではなく、出せないのだ。
次代の王族が現在、アメリアひとりしか王宮に存在しないため、迂闊な相手を娶せられないのである。
セイルーンは女子に継承権がない。だが現在、直系王族がアメリアと現在行方不明の姉グレイシアしかいないので、どちらかの伴侶が王となる可能性がある。直系大事、血筋大事の重臣たちからは、いっそ王室法を改定して女王を立てられないかという話もぽつぽつ出始めているが、そうでなくとも婿入りは絶対条件だ。降嫁によってこれ以上王族を減らされては、セイルーンは本気で首が回らなくなるうえ、もしアメリアが男児を産んだとしても降嫁していては継承権が生じない。
グレイシアの帰郷、もしくはフィリオネルの即位によって一気に表面化してくるだろう問題だが、現在はまだどうにか白紙のままだった。嵐の前の静けさとも言う。
もちろん、相手もそれを承知の上で話を持ちだしてきたのだろう。いまのうちにアメリアと結婚しておけば、うまくすればラルティーグ王家の者かその血筋が将来セイルーン国王として立つかもしれない。アメリアは、自分が他国にとってかなり好条件の姫君であることを理解していたが―――理解しているからとて、感情的に納得できるかというとまったく別の話である。
ラルティーグ十二世とその側近たちは、長年培ってきた会話術を駆使して、アメリアを右へ左へふりまわした。言質をとられないよう、なおかつ気の利いた受け答えするのに必死で、滞在期間が終わりに近づくころには、アメリアの笑顔はかなりひき攣りかけていた。更新した条約の調整がもう少し長びこうものなら、キレて姉のような高笑いでも始めていたかもしれない。
デーモン討伐の陣頭指揮を執っているほうが何倍もマシだった。
「疲れました………」
何度目かの呟きを洩らして、アメリアは持ちあげた両腕を顔の上で重ねた。視界がさえぎられ、磨かれた床に反射して天井に映りこんでいた陽光もふつりと途切れる。
細く長く息を吐くと、肺も体も縮こまっていくような気がした。
どうしてだろう。王宮にいたときよりも、こうして外に出ているときのほうが、より強く彼のことを考えてしまう。王宮の窓から見あげるよりもたしかに、彼のもとへと同じ空が続いていることを意識できるからだろうか。
―――いまどこで、何をしていますか。
時間が空くと、気がつけば心のなかで話しかけている。応えが返ってくるはずもないが、それでも。
預けたままの護符も受けとった彼も、まだ長い旅から帰らない。かざしたアメリアの手とそこから続く手首は、何もなくただ白いままで。
時折、ふとたまらなくなる。闇雲にがむしゃらに、ただ走りだしたくなる。
それでも胸のうちに残された熱は、いまだ温かいままで、だから―――だいじょうぶ。まだ、だいじょうぶだ。
ベッドの上に起きあがったアメリアは勢いよく頭をふると、ほうっと息を吐いた。そしておもむろに唇に笑みを刷く。
「―――あと、もうひと頑張りです!」
自分はまだ、セイルーンに帰りついてもいないのだから。
その再会には、何の予感もなかった―――
巫女的な勘などあてにならないことの証明のように、実際に事態に直面するまで、その可能性には欠片も思い至らなかった。
街の名士たちの歓迎の挨拶を受け、滞在中ご迷惑をかけますがよろしく頼みますと笑みを浮かべ、異国の姫君に対する彼らの好奇心を満たしてやり、適当に会話を続けて追い帰した直後―――それは、きた。
一瞬、自分を襲った感覚がなんなのかわからず、棒立ちになる。だがすぐにその正体に気づき、むしろそれが即座にわからなかったことに対してショックを受けた。
大きな魔力が動いていく気配。あまりにも馴染み深い。一瞬で集束し方向付けられ、鮮やかに発現して展開、炸裂するそれは―――
―――ちゅどぉぉぉんっ!
ガラス窓を枠ごと揺らがせて、あたりに爆音が響き渡る。
アメリアの着替えを手伝おうとしていた侍女が、きゃっと悲鳴をあげた。そのころになって、ようやく立ち昇ってくる黒煙と焦げた匂い。騒然となる表の気配。
立ちつくしていたアメリアの手が、わずかに動いた。
肩から掛けていた飾り帯にぎこちなく指をかけた、まさにその瞬間。聞きなれた弾けるような声で名を呼ばれる。
名だけを、呼ばれる。
「やっほー、アメリアー! 一緒にご飯食べなーい !?」
その声の調子とあまりの内容に、腹の底から笑いとも怒りともつかない衝動がこみあげてきた。
衝撃は確信に変わり、何かが一気に弾け飛ぶ。
アメリアは無言で肩帯をむしりとった。両肩からゆったりと掛ける幅広の飾り帯は、セイルーンの意匠としてよく知られた、白地に金の大柄な唐草模様。
放り投げたそれを侍女が慌てて受けとめるのには目もくれず、アメリアは窓に駆けよった。ガラス窓を思いきり押し開ける。窓枠を両手でつかみ、落ちんばかりに身を乗りだした。
そして、宿の門前で攻撃呪文をかましてくれた当人を視界に入れるよりも先に、大きく息を吸いこんで―――
「どーして普通に呼び出せないんですかっ。リナさんっ!」
窓の外はとても明るかった。降り注ぐ陽射しに視界が灼ける。久々に出した怒鳴り声に自分自身でくらくらする。
光に馴染んでゆく視界のなかで、焦げた石畳と衛兵たちに取り囲まれるようにして、彼と彼女がいた。そして―――
予想もしなかった、白が。
―――どんッ、と心臓の裏側から殴られるような衝撃が奔った。
息が止まる。火傷したようにアメリアは窓枠から手を離した。
思いつきもしなかった。予想もしなかった。
こんなことになるなんて、欠片も。
「ちょ、ちょっと待ってください。こっ、こここ心の準備がっ」
「姫さま?」
侍女のいぶかしげな声も耳に入らない。
何年? 何年ぶりだろう? 最後に逢ったのはあの別れ―――この手から護符が失われたあの夜。それから、それから―――
「………っ」
アメリアは深く息を吸うと身をひるがえした。黒髪がぱさりと頬をうつ。
大股に歩きながら上衣を脱いだ。やわらかな布靴を脱ぎ捨て、ブーツに足を突っこむ。小物入れをひっつかむと部屋を出た。足取りはどんどん加速する。侍女が何事か呼び止めた。侍従が叫ぶ。聞きとれない。
だんッ、だんッ! と二段飛ばしに階段を下り、最後は五段ほどすっ飛ばしてしなやかに着地すると、アメリアは顔をあげた。宿の主人の仰天した顔。
かまわず扉を開き、外へと飛びだした。
暗い室内から光溢れる外へ。いま一度、視界が明るく染まる。まぶしさにアメリアは目を細めた。
たたずむ三人は彼女が走ってくるのを待ち受けている。見慣れぬ服装の彼と彼女に、変わらぬ出で立ちの彼。当たり前のように、ごく自然に馴染んでそこに在る三人。
もしかして三人とも、以前のようにまた偶然出逢って、そのまま一緒に旅をしている途中なのかもしれない。たまたま、この街で彼女の滞在を知って、それで声をかけて―――
急にずきりと痛みだした何かを無視して、アメリアは余計に足を速めた。
弾け飛ぶような開放感にアメリア自身が追いつけない。息が詰まってうまく呼吸ができない。それでも止まらない。何かに追いたてられるように、気持ちはどんどん加速する。
嬉しくて嬉しくて。なぜだかひどく、さみしくて―――
「きゃーっ! リナさん、お久しぶりですっ!」
「アメリアも! 元気だった !?」
いきおいよく抱きつくと、同じように抱き返してくるリナの腕。
リナは飛びついてきた彼女を少しふりまわすようにしてその勢いを殺し、アメリアもよろけないようにすっと体の重心を移動させた。顔をあげると、きらめくような笑顔といたずらげに輝く双眸。
途端に、気分が高揚してくるのを止められない。
―――そして。
きゃあきゃあ言い合う二人の横で、わざとらしく溜息をつく気配がした。
心臓が跳ねる。目を逸らしていても、彼の気配をとらえてざわめきが奔る。
あまりにも急に訪れたこの偶然に、どう対峙していいかわからない。
アメリアはひとつ呼吸をして気持ちを切りかえた。
ぱっとリナから身を離し、彼に笑いかける。
「ゼルガディスさんもお久しぶりです!」
「―――ああ」
いつも通りの自分の挨拶と、いつもと変わらぬ他人行儀な彼の返事。
それがとても嬉しくて―――
やっぱりなぜか、ひどく胸が苦しかった。

