Shining tear 〔後編〕
次に目を覚ましたとき、板戸のすきまからこぼれる朝の光がまぶしかった。
がばりと跳ね起きると、隣りのベッドで頭を抱えて呻いているリナの姿が目に入る。それでようやく周囲を見回す余裕が生まれた。
宿の一室だ。ただし、酒宴の名残や酒の匂いは欠片もない。部屋の隅に寄せられていたはずのリナたちの旅荷も見あたらない。
わずかに眉をひそめたが、記憶はすぐに解答を見つけだした。昨日、たしかリナが隣りの空き部屋も確保しておいてくれたのだ。どうせ泊まってくでしょ? と言いながら。
「〜っ、メリア。おはよ………うう痛ぁ」
半身を起こしたリナが額を押さえながら、朝の挨拶をしてくる。
昨夜の記憶とは違い、羽織っていたローブは皺になるのを防ぐためにか脱いでおり、その下に着ていた濃い緑のシャツと膝上丈のズボンだけというラフな恰好だった。ばさりと顔にかかる髪をかきあげる手首でも、やはり緑色の石が光る。
「おはようございます。リナさん」
「………あんた、あれだけ呑んどいてよく平気ね」
昨夜、まったく同じセリフを言われたことを思いだし、アメリアは苦笑した。
それから悪戯っぽく笑って、隣りのベッドに向かって首を傾げてみせる。
「王族が酔いつぶれていたら話になりませんから?」
顔をしかめていたリナは、その言葉にちらりとアメリアに視線を寄越し、ふっと肩をすくめて息を吐いた。
「元に戻ったわね」
「………すいません。ありがとうございます」
「べっつに。何のことよ? ってか、うー、がんがんする………」
「リナさん、ここだけの話なんですけど」
「あによ?」
宿の一室まで確保してこちらを気づかってもらった礼もある。アメリアは声をひそめて、とっておきを告げた。
「実は二日酔いって、麗和浄で治ります」
「嘘マジで !?」
がばりと顔をあげて大声を出したリナは直後、声もなくベッドの上に撃沈した。
「………アメリア、お願い」
「はーい」
アメリアはぺたぺたと裸足で隣りのベッドまで行くと、横たわるリナの傍らに腰を下ろし、小声で呪文を唱えはじめた。
朝の光がまぶしくすがすがしい。板戸越しの鳥の声。
力あることばによって解毒の効果が発動し、酒精が中和されても、しばらくリナは無言でベッドに横になっていた。
アメリアもやはりしばらく無言でその傍らに座っていたが、やがて立ちあがるとベッドをまわりこんで、窓際に立った。
大きく窓を開く。
文句なしによく晴れた朝の青空だった。アメリアの目の色よりずっと薄く、ゼルガディスの双眸よりは濃く。そしてガウリイの瞳よりはわずかに淡い。綿雲がちぎれて浮かび、ゆったりと風に運ばれていく。
胸いっぱいに朝の空気を吸いこんだ。息がつまるような胸苦しさはもうない。どこまでも軽やかに気持ちよく、大気は肺を洗っていく。
「―――ねえ、リナさん」
「ん?」
「私、だいじょうぶですから」
「そりゃ、けっこうなことだわね」
「はい」
アメリアはふり返らずに笑うと、大きく両手を広げて伸びをした。
夜着にも着替えていないし、就寝と起床の身繕いもしていない。我ながら何てだらしのないことだろう。
なのに、なぜだか最高に気分がよかった。
このままどんどん広がっていって、高く空まで届いてしまいそうだ。
「………ね、アメリア」
ふと背後から、心なしか気まずそうなリナの声。
何事かとふり返ると、ベッドにぺたりと座りこんだリナと目が―――合わなかった。あっちこっちに視線をさまよわせ、無意識になのか手首の飾りをいじりつつ、彼女はこちらに話しかけてくる。
「ちょっと聞きたいんだけど。あんた、自分の足でここまで寝に来たの?」
ぽしょぽしょしたその呟きに、アメリアはしばらく沈黙した。
記憶を掘り返し、事実を冷静に分析判断すると、神妙に答える。
「………いいえ。目が覚めたらここでしたけど。リナさんは?」
「………あたしも」
リナがわずかに顔をあげ、視線があう。
―――揃って赤面し、二人は何となくお互いから目をそらした。
再会のひとときは名残を惜しむ間もなく、あっというまに過ぎた。
晴れ晴れとした顔で、アメリアは背後をふり返った。
「ここでもうだいじょうぶです!」
アメリアの言葉に、わずかに距離を置いてリナとガウリイが立ち止まり、それよりも少し前に出る形でゼルガディスが足を止める。
宿はもう目の前だ。すっかり警戒している衛兵たちの横、塀の上では猫まで毛を逆立てているのだが、なぜだろうか。
「じゃあまたね、アメリア」
「はい! リナさんもガウリイさんも、今度王宮に遊びに来てくださいね。お子さんを連れて!」
アメリアがそう言うと、ゼルガディスがフードの奥で吹きだした。
絶句したリナの顔がもう何度目かもわからないほど真っ赤に染まり、その頭にぽんと手をおいたガウリイが呑気に応じる声がする。まったく、彼がいちばんのくせ者だ。
わめくリナの声を右から左へと聞き流し、アメリアもひとしきりくすくすと笑った。
笑って、そしてしなやかに顔をあげて。
真っ直ぐな視線の先には―――ゼルガディス。
「ゼルガディスさんも………いつか。いいえ、いつでも」
言いなおしながら、アメリアは知らず手首をぎゅっと握りしめていた。何もない手首。失われた重さはほんのわずかだが、それでも確かにそれは相手へと託されている。願いと想いとともに。たったひとつだけの問いが。
いまだ答えをもらうことはできていないけれど。
だいじょうぶ。
私は、だいじょうぶ。
唇に自然と笑みがのぼった。頭上には抜けるような空。
笑うアメリアに、逆に正面に立つ白い影のほうが、口調に微かなほろ苦さを混ぜる。
「ああ。………あと少し、時間をくれないか」
「わかってます。昨日はごめんなさい」
「………どのあたりまで記憶があるんだ?」
「ふふっ、内緒です」
笑って煙に巻き、アメリアはちらりと背後に目をやった。ガラス窓の向こう、反射でよく見えないが侍従と侍女の服の色彩がにじんでいる。
さて、帰らなければ。
「じゃあ、ゼルガディスさんも。また逢うときまで、元気でいてくださいね」
「………ああ、お前もな」
以前のような。いつも通りの。
別れの挨拶を交わし、そのままくるりときびすを返して歩きかけ―――
………ああ!
アメリアは勢いよくまたふり返った。黒髪が頬をうつ。
一足飛びに駆け戻ると、迷うことなく腕を伸ばした。指先をひっかけてそれを落とす。頬に触れた。呼気がかかる。
呆気にとられる氷蒼の瞳を視界いっぱいに映しこんで、それを最後に目を閉じた。ごめんなさい不意打ちします!
銀の髪がかすかに頬をこすり、すぐに離れる。
目を開けるといまだ唖然としている双眸とぶつかり、アメリアは心の底から楽しく、嬉しくなって笑いだした。
そのまま、相手の反応をたしかめることなく走りだす。
背後でリナとガウリイが口を揃えて『ほほう』などと呟いているような気がした。
途中、一度だけふり返ると、アメリアは彼らに向かって大きく手をふる。
―――朝に見かけた綿雲はいつのまにか姿を消し、空はただただ真っ青だった。
帰ってくると、意外にも侍従たちは何ひとつ文句は言ってこなかった。ただ、お帰りなさいませと告げただけである。
小言のひとつでももらうかと思っていたアメリアは少し拍子抜けしたが、そのまま謝罪と礼だけを言ってすませてしまった。
次の町までは多少距離がある。出立の支度はすでにととのっており、すぐに馬に鞭があてられた。
あっというまに街は遠ざかり、ただ街道沿いの木立が視界を横切るばかりとなる。
ぼんやりと小窓から外を眺めていると、正面に座った侍女がわずかに首を傾げて口を開いた。
「―――久しぶりにお会いになる皆さまがたは、お元気そうでしたか?」
問われたアメリアは生返事をしそうになり―――ふと気づいてまじまじと侍女の顔を見た。
栗色の髪を高い位置でひとつに結い、それを一本に編んで垂らしている彼女は、アメリアが王宮に腰を落ち着けるようになってから彼女付きの侍女となったが、それ以前から王宮に勤めている。
「そういえばあなた、前にリナさんに怯えてテラスからひっくり返って落ちましたよね」
「それはどうか忘れてください」
心なしか顔を赤くして侍女が視線をあさってにそらす。
王宮で魔族騒動が持ちあがっていたときの話である。そう考えると、この侍女は三人全員と顔を合わせているということになるのか。
「リナさんもゼルガディスさんも、そう怖いひとたちじゃありませんよ?」
「わかっております」
うなずいて、アメリアより少し年上の侍女は笑った。
「だって姫さま、昨日とはお顔が全然違いますもの。ですから、みんな何も言わないんですわ」
「へ?」
アメリアはぱちぱちと目をまばたいた。しばらく間の抜けた顔をしていたが、やがて困ったような顔で笑う。どこか照れくさそうに。
そして、そのまま沈黙が落ちた。
しばらく、ごとごとと馬車は道を行き―――
大量のクッションに埋もれるように体を預けていたアメリアは、視線を空中に固定させたまま、不意に侍女の名を呼んだ。
「すいません。ちょっと聞きたいんですけど」
「はい」
「―――私は、女王になれると思います?」
侍女は数秒間絶句し、しかしてのち、真面目な顔でうなずいた。
「おなりになれると思います」
「じゃあ、ここはひとつ頑張ってみましょうか」
嵐の前の静けさ。動きそうで動かせない。微妙すぎる第二王女の立ち位置。
道はふたつ。
女王になり、王配に文句をつけさせない。
または、王にならず降嫁もせず、伴侶に文句をつけさせない。
先日までは、どちらかというと後者のほうが楽そうな気がしていたのだが―――気が変わった。
欲しいものは欲しいと言おう。ただ待っているだけでは、きっとダメなのだ。いますぐに本気を出さなければ。
拳を握りしめて叫ぶ。
「少なくとも、ラルティーグのぼんくら王弟を押しつけられるよりはっ」
「姫さま、ここはっ」
「まだセイルーンじゃないんですよね。わかってますよ」
笑って、アメリアは窓越しにどこまでも青い空を見あげた。
この空は彼のもとへと続いている。いつだってそれは変わらない。
願いと問いは預けたまま。いまはまだそれでいい。
時折、ふとたまらなくなるけれど。昨夜のように自分の飢えにすら気づかず、泣きたくなることもあるけれど。
それでもこの胸のうちの熱は、こんなにも温かい。だから―――だいじょうぶ。
自分は自分の道を。彼は彼の道を。
予期せず出逢い、再会を約せず別れ、そしてまた因果は巡る。道は交差し、離れ、また交わり、そしていつか重なる日も来るだろう。
変わらぬ何かと、変わってゆく何か。
いつか、また、どこかで………いつでも。
いつか、きっと。
「―――必ず、また」
アメリアは微笑んで目を閉じた。
〈Fin.〉