Their Christmas R&I
クリスマスなんて大嫌いだ。
街中を飾りたてているクリスマスの色と音を親の仇のように睨みつけながらイルニーフェは歩いていた。
ぐるぐると首に巻き付けた紺のマフラーに埋もれるようにして歩く彼女の背中では、きつい癖のかかった髪がコートのフードに収まりきらずに奔放に溢れだしている。
どこに行ってもクリスマスだ。
もし仮にこの国を出て外国に行ったとしても、キリスト教のない国に行かない限り、やっぱりクリスマスだ。この国よりは派手派手しくないかもしれないけれど。
何に腹を立てているのかもわからないまま、イルニーフェは怒りながら歩いていた。
よっぽど険しい顔をしているのか、声をかけようとしたキャッチの青年がギョッとした表情で後ずさる。
それをよそ目にどんどんとイルニーフェは先に進んだ。
早く家に帰ろう。誰もいない、さみしくて寒い部屋だけど、クリスマスとは無縁でいられる。
遠くから、綺麗なラッピングをした箱を抱えた女性が歩いてくるのが見えた。濃い緑の包装紙に金色の箔押し、かけられた真紅のリボンが歩みに合わせて揺れる。
夕暮れの街はきらびやかに電飾で飾られ、どこに行くのかべったりと腕を組んだカップルの他に、ケーキの箱を吊したサラリーマンが足早に通り過ぎる。
世間一般のクリスマスの過ごし方がどういうものか、イルニーフェにはよくわからなかった。
(ほら、イルニーフェ。綺麗でしょう?)
街に溢れるクリスマス製品をほとんど使わない質素なオーナメントを毎年、姉は手作りしていた。
クリスマスの四週間前にはキャンドルを四本植えこんだ待降節リースを作り、一週間ごとにひとつずつつけていく。聖夜には四本全部に灯りがともり、主の降誕を祝ってミサをあげる。
今年、彼女の周囲にそれを用意してくれる者はだれもいなかった。彼女自身も自分からすすんでそれを用意しようとは思わなかった。
顔を歪めてイルニーフェは足を速めた。
とにかく帰ろう。明るすぎるクリスマス童謡やポップスに混じって、ときおり有名なクリスマス賛美歌が聞こえてくる。それが耐えられない。
うつむきがちに歩いていたせいで、すれ違った女性と軽く肩がぶつかった。
「すいません」
互いに謝ると、その女性は急いでいるのか足早に去っていく。
何気なくその動きを目で追ううちに、デパートのショーウィンドウにたどり着いた。
イルニーフェの胸ぐらいの高さのクリスマスツリーを囲んで、男と女のマネキンがいる。
左側に男のマネキン。飴色のアンティークな椅子に腰掛け、足を組んで頬杖をついている。顔はツリーの方を向いていた。顔には凹凸がないタイプのマネキンだが、ツリーに星をのせようとしている女のマネキンを見守っている格好になる。
脱いだ鳩羽色のコートを腕に抱え、アラン模様の黒いハイネックセーターを着ている。スラックスの色は赤みがかった黒だった。椅子の周囲には足の踏み場がないほどのプレゼントの箱。
―――くすっ。
耳元で不意に誰かが笑った。
空耳かと思いつつ、ふり向いてはみたが、そこには笑い声の主とおぼしき人物は誰もいなかった。とても女性の笑い声を出すとは思えない、紺の男物のコートの不機嫌そうな背中があるだけだ。
(何なのよ、もう)
気を取り直して家路を急ごうと前に向きなおったイルニーフェは、危うく目の前の人物と衝突しかけてつんのめった。
何でこんなところにマネキンが―――と最初は思った。
鳩羽色のコートはボタンを留めずに前が開きっぱなしになっていて、そこからアラン模様のざっくりした黒のセーターがのぞいている。スラックスの色も黒。裾から焦げ茶の革靴が見えていた。
色の白い端正な顔のなか、琥珀色の双眸がこちらを見下ろしていた。
心持ち、困ったような表情だ。
愕然としてイルニーフェは真横のショーウィンドウを見た。
ツリーの左側、飴色のアンティークな椅子の上にも下にも、山と積まれたクリスマスプレゼント。
「どうかしたの?」
怪訝そうに青年がそう尋ねてきた。
顎の所まであるハイネックタイプの襟に、長めの髪がかかっている。イルミネーションの加減で赤っぽく見えた。
人間だ、人間。どう考えてもマネキンには見えない。
もう一度ショーウィンドウを見、青年を見て、イルニーフェは見間違いだときつく己に言い聞かせ、疑惑をむりやり片づけた。
辻褄の合わないことと理屈や筋の通らないことが彼女は大嫌いだった。
マネキンでない。とすると人間だ。誰かが自分を見ているということは、自分に用があるということになる。
「何かご用?」
嫌そうな顔でそう訊いたイルニーフェに怯むことなく、青年は頷いた。
「うん、まあ」
頷いたわりには、返事がはっきりしない。
「何かしら」
「うーん………」
青年は困ったように頭に手をやった。
キャッチセールスかと思ったが、それにしてはあまりにも雰囲気が違う。キャッチの青年はこんなおたついた様子はしない。だいたい彼らはイルニーフェが睨みつければ退いていく。
「用がないなら、あたし帰らせてもらうけれど」
「ああ、いや。ちょっと待って。いま君ヒマだよね」
「はあッ !? 」
何だそれは。新手のナンパか何かだろうか。言うに事欠いて「ヒマだよね」とは何事だ。
「家に帰るってことは、外での用事はもう全部すんだってことだよね。なら、少し僕につきあってほしいんだけど」
「何それ、あなたもしかしてあたしをナンパしているの?」
相手は首を傾げた。
「そうなるのかなぁ………?」
「なんなのよ、もう………」
全然わけがわからなくなって、イルニーフェはぼやいた。ナンパにしてもあまりに要領が悪いし、下手だし、会話のテンポが合わなさすぎる。
「ええと、これからクリスマスを誰か一緒に過ごしたりするの?」
ぶしつけな質問にイルニーフェは腹を立てたが、嘘をつくのは嫌だったので正直に答えた。
「しないわよ。だからといってあなたにつきあう理由にはならないと思うんだけど」
「うん。それはそうだね」
頷いて、彼は続けた。
「君はクリスマスだからってお祝いしたりしないのかい?」
「………しないわよ」
相手は軽く眉根を寄せた。
「もったいない。楽しんだ者勝ちなのに」
「ほっといてちょうだい」
カッとなったイルニーフェがきつい口調でそう言うと、青年はしばらく沈黙していたが、一向に堪えていない様子で再びイルニーフェを誘った。
イルニーフェはだんだんと頭痛がしてきた。言葉は通じているのに会話が成立している気がしない。
「要するに、これから行くところに一緒に行ってくれる人を探してるんだ。一人で行くにはさみしいところだからね。君がそれにつきあってくれると、嬉しいし、助かる」
さみしいと平気で口にする相手にイルニーフェは腹が立った。
何だってそんなことを平気で口にすることができるんだろう。
「別の相手を探してちょうだい。あたしじゃなくてもいいじゃないの」
「でも声をかけたのは実際、君にだし」
淡々と穏やかに、しかし割にしつこく話してくる青年にいいかげんイルニーフェは疲れてきた。会話そのものをさっさと打ち切ってしまいたい。
「何か条件があるなら呑むよ。それでこちらのお願いも聞いてくれないかな。どうしても行きたいところなんだ」
唐突に、イルニーフェは他愛もない悪戯を思いついた。
「名前を聞かないのなら」
「………え?」
「あたしの名前を聞かないのなら、つきあってあげてもいいわ」
あたしのほうからは、あなたの名前を聞くけれど―――。
つんと顎をあげてそう言われ、青年はしばらく目を丸くしていたが、やがて穏やかに苦笑した。
「いいよ。それで」
一瞬でもその笑みに目を奪われたのは、たぶん不覚だった。一生の。
連れてこられた場所は小綺麗な白い建物だった。灰色のビル群のなかで、二階ほどの高さしかないその建物は、その瀟洒な雰囲気と相まって、おそろしく周囲から浮いている。
「ここは?」
「知り合いから教えてもらった喫茶店。………何もそんな顔しなくても」
「よけいなお世話よ」
憮然としてイルニーフェはそっぽを向いた。
やっぱり安易に引き受けてしまったのはまずかっただろうかと今更のように思ってみるが、すでに遅い。
ドアを開けると、柔らかな照明に照らされた白い廊下だった。喫茶店のなかを想像していたイルニーフェは、両側にかかった絵と観葉植物以外は何もない廊下を意外に思う。
廊下の突き当たりに再び扉があった。落ち着いた飴色の扉の横にレジの置かれたカウンターがあり、癖のある髪をアップにした女性が二人を出迎えた。
「お二人様ですか?」
リーデットが頷くと、女性は銀のトレイに二人分のメニューをのせ、先に立って扉を開けた。その動きにしたがって、ふわりと花の香りがした。
なんだろう。しばらく考えて、イルニーフェはその季節はずれの香りに思い至る。
山梔子だ。
開け放たれた扉にかかっている小さな札には、綺麗な飾り文字で店名が。
【香雪庭園 ――Snow Garden――】
一気に流れこんできた冷気に紛れこんで、静かな店員の声がした。
「お好きな席へどうぞ―――」
そこは再び屋外だった。入る前には空にわずかに残っていたはずの残照も、ビルに遮られてここまで届かない。完全な夜だった。まるで廊下を歩いているあいだに外だけ時間が経ってしまったかのようだ。
建物のなかに設けられた広い中庭がそのままオープンカフェになっていた。足下は芝生で、植え込みが多く配されている。壁にはツタが這い、花は少ない。
落ち着いた雰囲気のなかで照明は極限まで落とされ、各テーブルにキャンドルが置かれてオレンジ色の光を揺らめかせていた。アロマキャンドルなのか、柔らかな花の香りがここまで届く。
一瞬、イルニーフェは棒立ちになった。
聖夜のミサの始まりに、あまりにもよく似ていた。暗闇のなかを聖歌が流れ、そこかしこに灯るキャンドルの光のなか、司祭が侍者をともなって入場する。
聖歌の伴奏を弾くのは姉の役目だ。いつもうらやましくてしかたなかった白い繊細な指がオルガンの鍵盤の上を静かに踊る。
「―――どうかしたかい?」
呼ばれて、彼女は我に返った。
見あげた相手は少し気遣わしげな顔をしていて、イルニーフェは慌てて頭のなかの回想を追い払った。
「何でもないわ」
席を決める段階でまたもめた。イルニーフェは隅のほうに座りたかったのだが、リーデットは真ん中のテーブルを主張し、結局それほどこだわりもないイルニーフェのほうが折れた。わざわざ我を張って主張するのも馬鹿らしい。
テーブルの上にはキャンドルが三つ置かれていた。中庭の広さに対して光量が足りないからだろう。
それにしても屋外でロウソクなんて、とイルニーフェは思い、そこでようやく中庭がまったくの無風状態であることに気がついた。
ここに入る直前までビル風がものすごく、煽られてめちゃくちゃに絡まっているだろう己の髪に泣きたくなっていたので、急に風がやんだというわけでもないはずだった。
「周囲のビルとの影響でね、ここだけ風が吹いてこないらしい」
イルニーフェの疑問を察したのか、リーデットがそう言った。
「そう」
内心をさとられたことが癪に障り、彼女は素っ気なく頷くだけにとどめた。
やがて先ほどの店員が湯気のたつカップとおしぼりを持ってきた。カップのなかは何かと思えば微かにハーブか何かで香りづけをした湯で、どうやらお冷やの代わりらしい。
さらにはジェルタイプの湯たんぽまで手渡され、イルニーフェは呆れた。たしかに暖かく嬉しくはあるのだが、この店は冬場の客には全員湯たんぽを渡しているのだろうか。
そもそも、こんな真冬に日が落ちてからオープンカフェに入ろうとすること自体が正気の沙汰とも思えない。
風がないため店の外ほど寒くはないが、現に吐く息は白く煙り、椅子に座りながらも二人ともコートを脱がずにいる。
メニューを開いて、イルニーフェは眉間に皺を寄せた。
「どうしたの」
「名前からじゃ味が想像できないわ」
白木の薄板に紙をはった品書きには、紅茶のバリエーションとおぼしき名前がホットだけでも十近く記されていた。クラレット・ティー、ラムウィンナー・ティー、シャリマ・ティーにシェルパ・ティー。
「説明書きはないのかい?」
「暗くて読めないのよ」
憮然としながらイルニーフェはキャンドルのひとつを手元に引き寄せた。メニューに燃え移りそうで少し怖い。
「あなたこのお店はじめてじゃないんでしょう? 何かお勧めはないの」
そう聞くのも癪だと思いつつ尋ねると、相手は首を傾げた。
「うん、バタースパイス・ティーとか体が暖まるけど」
「じゃあそれでいいわ。誰かさんのおかげでずっと外にいるから寒いのよ」
「それはごめんね。でももうしばらくそうしてもらうから」
さらりと全然悪びれない答えを返されて、イルニーフェのこめかみに青筋が浮かんだが、怒鳴るのはぐっと我慢した。
注文を取りに来たのもさっきの女性だった。そしてやはり、彼女からガーデニアの花の香りがする。
カップの中味や湯たんぽが冷たくなったらお呼びくださいと言い置いて、店員は立ち去っていった。
かじかむ手で湯たんぽを握りしめて、イルニーフェはリーデットを睨みつけた。
「それで、何なの」
「何なのって、何がだい?」
「何だってあたしをこんなところまで引きずり回しているのかってことよ。はっきり言って、あたしあなたに見覚えなんか全然ないんだけど」
「うん、僕もない。お互い初対面だと思うよ」
「ふつう初対面の人間を喫茶店に誘う? しかもこんな日に!」
「………あんまり不機嫌そうな顔をしてるから」
「は?」
イルニーフェはまばたいた。
頭上では星が輝きだしている。ビルの明かりに負けそうになりながらも確かに光っている、冬のシリウスとベテルギウス。
輪郭がかろうじてわかるぐらいの薄闇のなかから、リーデットの困ったような声がした。
「ずっとうつむいたまま眉間に皺寄せて歩いてるから、きっとクリスマスが嫌いなんだと思ったんだ」
「嫌いよ」
イルニーフェは吐き捨てた。
「大嫌いよ。イエスキリストなんか生まれてこなければよかったんだわ」
頬杖をついたリーデットはわずかに苦笑した。
「クリスチャンが聞いたら怒るよ」
「クリスチャンのあたしが言ってるのよ」
相手はわずかに目を見開いた。
イルニーフェはその驚く様が気に入らなくて、小さく鼻を鳴らした。
「何よ。クリスチャンがクリスマス嫌いなのがそんなにおかしいかしら」
「そりゃおかしいよ」
「ほっといてちょうだい。もうクリスチャンなんてやめるの」
イルニーフェはそっぽを向いた。
相手はどこまでも不思議そうだった。
「やめようと思ってやめられるものなのかい?」
「知らないわよ!」
自分につけられた洗礼名はどこまでもついてまわる。教会に行くことをやめても、信仰をやめても、つけられた事実が消えない限り。自分がそれを覚えている限り。
イライラと応えたイルニーフェに対して、彼はどこまでも穏やかだった。なだめて慰撫するような柔らかな声だ。
「クリスマスが嫌いだなんて、さびしいことだよ。それは一緒にクリスマスを祝ってくれる誰かも嫌いということになる」
「そんな人、もういないもの………!」
イルニーフェは悲鳴のような声をあげた。
姉はいない。もういない。自分ひとり置き去りにして、意識がもうろうとするのは嫌だからと痛み止めの投薬を拒んだため、全身に激痛が奔っているにもかかわらず、自分には到底できないような満ち足りた顔で天に召されてしまった。教会では姉を福者にするべく教皇庁列聖省に働きかけている。調査に莫大な費用がかかるにもかかわらず、生前暮らしていた修道院と教会をそう動かすだけの崇敬を姉は集めていた。
列聖省が調査を承諾した時点で、姉はもっと遠くへ行ってしまうだろう。自分には手が届かなくなってしまう。もう、そばにはいてくれない。
「神様がほんとにいるのなら、姉さんほど誰からも愛された人をどうして死なせたりなんかするのよ………!」
何の見返りもないのに祈り続ける姉も姉だ。祈り続け、仕え続けた挙げ句に癌が全身に転移して死ぬなんて、報われなさすぎる。
姉が死ぬとわかってから、自分は笑ってしまうほど真剣に神に祈り続けた。本当に姉が奇跡を起こす敬虔な聖女と周囲から称されるに足る人物なら、治る見込みのない癌さえも治っていいはずだった。
結局、奇跡は起こらずに姉は逝ったし、自分は逆に神を呪うようになった。もはやこの神を信じる価値がどこにあるのかもわからなかった。
クリスマスなんか大嫌いだ。去年一緒に祝ってくれた姉は今年はいない。一人でなんか祝う気にはなれない。
「宗教なんか大嫌いよ。信じたって何の特にもならないわ。シスターだって病気で死ぬし、火事にあったり暴漢に襲われたりするのよ」
「………君のお姉さんはもしかして―――?」
「名前は訊かない約束よ」
「そうだったね―――」
リーデットがわずかに後悔した様子で黙りこんだ。
姉は有名人だった。精細な容貌も加わってメディアはこぞって姉のことを取りあげた。いまでもときおりテレビに姉が映ることがあり、イルニーフェは家のテレビを捨ててしまった。
二人が黙りこんだタイミングを見計らったかのように、注文した飲み物が運ばれてきた。
湯気のたつスパイス・ティーには溶けきっていないバターの欠片が浮かんでいる。相手も同じものを頼んでいた。
注文はこれで全部だったはずなのだが、オーダーした覚えのないスコーンのかごがテーブルに置かれ、二人して怪訝な顔で店員を見た。
クロテッドクリームとジャムの入ったココット皿を手に、店員の女性がにっこりと笑う。
「サービスです。クリスマスですから」
「………ありがとうございます」
伝票を置いて店員は去っていった。キャンドルの灯りしかない暗がりのなかを、迷いのない足取りで建物のなかへと消える。
「わりと便利な日だよ」
カップに手を伸ばしながら、リーデットが唐突に言った。
「は?」
「クリスマス。とにかくメリークリスマスって言ってればみんな丸くおさまるし。それなりにご機嫌とれるしね」
「…………」
イルニーフェが呆れて黙っていると、さらに彼は続けた。
「だから、僕はクリスチャンでも何でもないけど、神様は良い日を作ってくれたと思ったんだ。この日をきっかけに仲直りする人たちだっている」
「この日に別れたりするカップルだっているかもしれないでしょ」
「うん、それはまあ。それでもクリスマスに別れるというのは、平日に別れるより嫌な思い出だと思うよ。それってこの日には誰もそんなことをしたがらないからだろう?」
「そういうのを屁理屈って言うのよ」
呆れ果ててイルニーフェはスパイス・ティーを一口すすった。………甘じょっぱいが不味くはない。
あくまでも穏やかな物腰の彼を相手にしていると、一人で腹を立てているのが馬鹿らしくなってくる。
暖かい飲み物が胃におさまると、自然とふうと溜息がもれた。
「お姉さんはクリスマスは嫌いだったの」
「………大好きだったわよ」
毎年手作りするアドヴェント・クランツ。祭壇前に馬小屋のオーナメントを飾る。全部の扉に柊とリボン。告解をして身を清めて聖夜を待つ。
姉は毎年それは嬉しそうにその準備をしていた。
―――姉がいたから、自分はクリスマスが好きだったのだ。
「お姉さんのぶんも祝ってあげなよ。君が嫌っていたらさみしく思うよ」
「だって………!」
イルニーフェは立ち上がっていた。
「もう誰もあたしと聖夜を過ごしてくれないもの………ッ!」
しん、と空気が一段と冷えこんだような気がした。
イルニーフェを見つめていたリーデットの視線が、不意に彼女から空へと移される。
つられて空を見あげ、イルニーフェは言葉を失った。
―――雪、が。
いつの間にか、空には雪が降り出していた。
気づかなかったのは、その雪が中庭に降りこんでこないからだ。
いかなる風の関係なのか、真っ直ぐここに降ってくるように見えるのに決してここまで雪が舞い降りてテーブルを濡らすことはない。
円形の中庭のから見あげた空は、丸く切り取られている。そこにいっぱいに舞い広がる銀色の粉雪。空で弧を描き、風の流れが見えるようだ。
雪は間違いなく降ってくるというのに、中庭の真上に透明なドームがあるかのように、ここまで届くことなくいつの間にか消えてしまう。
これは、まるで―――。
「雪天球儀みたいだわ………」
硝子の内側の世界で雪が降り続ける。いつまでも。
目を離すことができない。
イルニーフェにとって、雪は何歳になっても世界を白く染める魔法のような存在だった。何時間でも降るのを見あげていられるぐらいに。
雪が降るのは自然現象だ。風に舞う様子も決められた自然の法則によるものだ。人の手など入る余地はない。
人間の介入などいっさい必要としない世界の法則はありのままに美しい。
(神様は世界を綺麗なものとしてお創造りになったのよ)
雪が降るたびに姉は口癖のようにそう言っていた。
呆然と空を見あげているイルニーフェを見ていたリーデットが、ぎょっとしたように頬杖をついていた手を外した。
姉にもこれを見せたかった。
どんなに喜んだだろう。あまりにも綺麗で、自分だけここにいることが耐えられない。
いないことが悲しい。いない聖夜を祝うことがとてつもなくさみしい。
「ああ、泣かせちゃった。僕のせいかな………」
「違うわよッ」
涙目でギッと相手を睨みつけ、イルニーフェは目元をこすった。
相手はそれに気づかないふうで、上を指さした。
「真ん中に座ってよかっただろう?」
最初からこれを見せるつもりで真冬に人をガーデンカフェまで引きずってきたのか。
イルニーフェは憮然とした面持ちで頷いた。
「仕方ないからお礼を言うわ。ありがとう」
「どういたしまして」
リーデットは苦笑した。
神様はいるのかもしれない。
少しだけイルニーフェはそう思った。
その扉に誘ったのはリーデットだった。
既にスパイス・ティーは冷たくなり、スコーンも何度か温めなおしてもらって食べ終わり、そのあいだじゅう、一言も言葉を交わさずに空を見あげていた。
会計をすませると彼が「ここから出ようよ」と来たときとは別の扉を指さした。
「ここは?」
「地下はまた別のお店なんだ。そこもまた装飾が凝ってるから。寒くなってきたし」
訪れたときと同じ艶やかな飴色の扉には、焼板に柘榴の絵と店名とおぼしき漢字が焼き付けられたプレートがかけられている。
眉間に皺を寄せて、弱い灯りのもとイルニーフェはそれを睨みつけた。
「何て読むの?」
「いや、僕も知らない」
イルニーフェが無言で睨みつけると、相手は肩をすくめて扉を開けた。
彼の後に続いて中に入った彼女はまたもや目をみはった。
来たときの白い廊下とは対照的に、ここは細く急勾配の下り階段が続き、行き着いた先にまた扉がある。洞窟に似せてあるごつごつした壁には真紅と透明な硝子の塊が埋めこまれ、白熱灯の下、光を弾いていた。
鳩羽色のコートの背中を見ながら、一段ずつ階段を下りながら、イルニーフェはいささか複雑だった。
結局、何だって初対面の自分をここまで引きずり回しているのか答えをもらっていない。うまく誤魔化されてしまったような気がする。
問題は、それでもいいかと、なかばあきらめ混じりに納得しかけていることだった。
突き詰めて問いかければ問いかけるだけ、自分が不利になっていくような気がする。
「クリスマスは嫌いかい?」
不意に前を行くリーデットがふり返ることなく聞いてきた。
「嫌いよ」
イルニーフェは答える。
「でも、姉さんと過ごしたクリスマスは好きだわ。姉さんがクリスマスが好きだったから、あたしも許してあげることにする。今年は―――」
階段を下りきったリーデットがふり向いた。二、三段上にいるイルニーフェとちょうど目線が同じ高さになる。
「今年は?」
「………あなたに免じて許してあげる」
リーデットはふわりと笑った。
「その言葉だけで嬉しいよ」
段差のおかげで目線はほぼ同じ高さだった。小柄でいつも相手を見あげる羽目になるイルニーフェにはあまり経験のない角度だった。
「来年も、そう思えるだけの人と一緒に過ごすといいよ。君のお姉さんの代わりは誰もできないけれど、お姉さん以外にも君とクリスマスを祝いたいと思っている人はいるはずだから」
赤みがかかった髪が揺れた。
気がつけば頬にキスされていた。
あまりのことに反応を返せないでいるうちに、笑いながらリーデットは囁いた。
「僕もそう思っているよ」
そのまま身を離すと、扉を押し開けて先に行ってしまう。落ち着いた照明が細くこぼれた。
しばらく立ちつくしていたイルニーフェは、やがて頬を押さえてぶるぶるとふるえだした。
「ちょっと待ちなさい。いったい何のつも―――!」
階段を駆け下り、顔を真っ赤にしながら怒りにまかせて扉を押し開ける。
―――くすっ。
不意に女の笑い声がした。
勢いのまま二、三歩踏みこんだイルニーフェは、人混みのなか立ちつくした。
視界一面に雪が降っていた。
耳に飛びこんでくるのはクリスマス賛美歌だ。雪に混じってイルミネーションがちかちかと輝く。どこもかしこもクリスマスの街だった。
慌てて周囲を見まわすと、そこはあのショーウィンドウの前だった。
女性と肩がぶつかって、思わずそれを目で追っていると、いつの間にか正面には―――彼が。
「いない………」
呆然とイルニーフェは呟いた。
いままで自分は夢でも見ていたのか。
けれども時間はたしかに経っている。夕暮れだった街は夜へと変わり、雪が降りだしてあたりを白く染めはじめている。
まだ積もりきらない雪を踏んで、傘をさして、人々はイルニーフェの横を通り過ぎていく。傘もささずに立ちつくしている彼女にときどき奇異なものを見るような視線が向けられたが、すぐにそれも逸らされる。
いつまでもそんなことに興味を抱いてはいられない。今日は聖夜なのだから。
きついウェーブを描く髪に、粉砂糖のように雪がまといついていく。
立ちつくすイルニーフェの耳が、重なり合って流れるクリスマスソングのなかから聞き覚えのある一曲を拾いだした。
典礼聖歌655番、ああベツレヘムよ―――
静かに夜露の 降るごとく
恵みの賜物 世に臨みぬ
罪深き世に かかる恵み
天より来べしと 誰かは知る......
誰かは知る―――
見あげた空から一面の雪が舞い降りてくる。
白い聖夜だ。
イルミネーションが溢れ、街は明るく輝いている。ショーウィンドウのなかには、クリスマスツリーの両側に男と女のマネキン。
右には女のマネキン。イルニーフェより幾分年上とおぼしきそのマネキンは、ツリーのてっぺんに星をのせようと身をかがめ、手を伸ばしている。左には男のマネキン。飴色のアンティークな椅子に腰掛け、足を組んで頬杖をついている。
イルニーフェの記憶がたしかなら、顔はツリーの方を向いて、星をのせようとしている女のマネキンを見守っていたはずなのに、いつのまにかその顔は真っ直ぐ正面を向いて、道行く人を眺めている。
いまはちょうどイルニーフェを。
脱いだ鳩羽色のコートを腕に抱え、アラン模様の黒いハイネックセーターを着ている。スラックスの色は赤みがかった黒だった。椅子の周囲には足の踏み場がないほどのプレゼントの箱。
案外、足を下ろす場所がなくて、仕方なく組んでいるのかもしれない。
そう思い、イルニーフェはおかしくなってきた。
そういうことも、あるかもしれない。
「高くつくわよ」
呟いて、イルニーフェは歩きだした。
相変わらず紺色のマフラーに顔を埋めるように歩く彼女の背中では、フードの上を覆うようにして広がっている髪が飾り粉を散らしたように雪に白く彩られている。
多少顔はしかめられていたが、それほど不機嫌そうでもない。
鞄のなかで、滅多に鳴らない携帯電話が鳴りだしたのはそのときだった。普段は持っていることすら忘れているだけに、最初何が鳴っているのかと思ったほどだった。
さんざん操作に手間取って、ようやくイルニーフェは携帯電話を耳にあてる。
「ああ………え? 今から?」
しばらく会話して、イルニーフェはふと笑った。
「本当に、わりと便利な日なのね………いえ、何でもないわ。そうね………いまから行くわ」
そして彼女は電話を切る。
「世のなか物好きばっかりね………」
舞い降りてくる雪に息を吹きかけると、くるくる踊りながらスッと溶けた。
ふとイルニーフェは頬に手をやってひとり真っ赤になった。
「どうしたの、リーデ」
姉の声にリーデットはふり向いた。
そっくりの顔をした姉のアセルスは、予約した有名店のケーキの箱を手に立っている。
これで聖夜の買い物は終わりだった。己が持たされる予定のベンチの上の荷物を見て、彼は少々げんなりした。
ケーキ以外にシャンパンとリンゴジュースと炭酸水のボトルが入った買い物袋を提げたアセルスはいったんそれをベンチの上に置き、荷物を整理しはじめた。
「あーもうすごい混んでた。ケーキぐらい夕方にはみんな受け取っておけばいいのに」
閉店間際にケーキを受け取りに来た客の一人にもかかわらず、アセルスは勝手なことを言っている。
「………何も、わざわざ有名店のケーキなんか予約しなくてもケーキなんか自分のお店で売ってるのに」
「嫌がるんだよね、売れ残りのクリスマスケーキ。親としても毎年子どもに店で売れ残ったケーキをあげるのも忸怩たるものがあるし、オルも有名店のを食べたがるからね」
「まあ、義兄さんは研究熱心だしね」
「分解してメモとりながら食べるから汚いんだけどね」
「作ったパティシエの人が怒るよ。その食べ方………」
いささか頬をひきつらせた弟の忠告を聞きながし、姉は荷物をまとめおわると立ち上がった。
「さ、帰ろうか。そういえば、さっき何見てたの」
「いや、何だか………」
リーデットは怪訝な顔をしながらも、通路をはさんで向こうにあるショーウィンドウを見た。
クリスマスツリーの傍ら、待ち合わせといった感じで女のマネキンがディスプレイされている。
薄手の綿のロングマフラーをぐるぐると巻きつけて、グレイのダッフルコートを着せられた、典型的なティーンのマネキンだ。マネキンにしては珍しいロングの黒髪はウェーブがかかって裾広がりになっている。
ポケットに片手を入れ、もう片手を頬にやり、少し怒ったように立っている。
店内に向けてのショーウィンドウのため、背後には雪が降る夜の街のパネルがかかっていた。
「マネキンは動かないよ」
「いや、それはわかってるんだけど………」
やれやれとアセルスがベンチから荷物を取りあげた。
「リーデも毎年うちに呼ばれずに、たまには誰かいい人と一緒に過ごしてくれるとおもしろいんだけどなぁ」
「おもしろいって………」
嬉しいとは言わないあたりが、間違いなく本音だった。
釈然としないながらも姉の後に続いて立ち去りかけたリーデットは、もう一度ショーウィンドウをふり返った。
作り物のその顔が、凹凸のないマネキンにしてはいささか赤っぽく着色されているような気がして、リーデットは少し笑った。
―――I wish your a Merry Christmas ......!
