Their Christmas Z&A
右を向いても左を向いてもクリスマスだった。
街を歩けば赤と緑と白に電飾のクリスマスツリーにオーナメント。花屋にはポインセチアとシクラメン。スピーカーからはクリスマスソング。ファーストフードやファミレスの有線は、これでもかとばかりに毎年聞くメロディを流し続けている。
需要と供給で成り立つ経済活動がどこへ行ってもクリスマスを強調しているのは、やはりそれだけの消費者がいるということなのだろう。
いいかげん、ゼルガディスは気分が悪くなってきた。
何でもいいから、赤と緑と白と金色のない、ごく普通の有線放送が流れる場所でメシが食いたい。たまにクリスマスソングを流さない場所があるかと思えば、そこでも結局アーティストが作った今年のクリスマスポップスなどを流しているのだ。
しかしそれも今日明日までの辛抱だった。
明日が終わってしまえばクリスマスのオーナメントは撤去され、ショーウィンドウは早々と正月のディスプレイに変わるだろう。
(さっさと終わりやがれ………)
内心で悪態をつきながら煙草に火をつけたゼルガディスの前を、綺麗なラッピングを施したプレゼントを抱えた女性が通り過ぎていった。濃い緑のラッピングに金色の箔押し。
もうすぐ日が落ちる街角は、カップルも目立つが、それ以上にクリスマスケーキやチキンを抱えた中高年のサラリーマンの姿が多い。
ケーキにチキンのクリスマスなど、ゼルガディスには縁がなかった。
(だいたいあのジジイはクリスマスなんぞ祝う気なぞ毛頭なかったしな)
その大部分を目で見て楽しむクリスマスの祝い方は、盲目の養い親にとっては呪詛の対象だったに違いない。
だいたいそういえば、元は坊主だったか。還俗した後、研究者として名を挙げたせいで世間では忘れられてはいるだろうが。聖人君子と名高かったが、好き勝手やったあげくに要らないと言い続けている人間に遺産を押しつけて―――。
嫌なことまで思いだしかけたゼルガディスは顔をしかめて、くわえていた煙草を離した。
さっさと自宅に帰ろう。テレビをつけさえしなければ、クリスマスの洪水からは無縁でいられるだろう。
もたれていた柱から身を起こし、傍らの灰皿で煙草を揉み消すと、ゼルガディスは夕暮れの街のなかを歩き出した。雨だか雪だかが降りそうな空模様だ。
マフラーに顎を埋めるようにして歩いているゼルガディスの横を、すれ違った女性が肩に軽くぶつかって通り過ぎた。
「すいません」
何気なくそちらのほうに目をやったとき、その向こうにあるショーウィンドウが目に飛び込んできた。
丈の低いクリスマスツリーを囲んで、両側に男と女のマネキンがいる。
てっぺんに星を載せようと、少し身をかがめた恰好の右のマネキン。凹凸だけで顔のない肌色の輪郭はあどけないハイティーン。肩までの黒髪には白いベレー。黒い刺繍の入ったケープ型のコートの下から、紺のシフォンのプリーツスカートが覗いている。黒いタイツにショートブーツ。その足許にはいっぱいのリボンがかかった箱。
―――くすっ。
肩がぶつかった女性が、背後で微かに笑った。
思わず後ろをふり返ったが、その背中はすでに笑い声など聞こえるはずもない雑踏のなかに消えてしまっていた。目につくのはきついソバージュの別の背中だけだ。
(………気のせいか)
そう思って前に向き直ったゼルガディスは唖然とした。
真っ正面から少女が彼を見つめていた。
白いベレーに、艶やかな黒いセミロング。黒いファーに縁取られたケープ型のコートには地布と同じ黒で繊細な刺繍。軽やかな紺色のプリーツスカートに、黒いタイツとショートブーツ。
象牙色の顔からこちらを見上げている、紺色のきらめくような大きな瞳。
パールの入った唇には笑みが。
「……… !? 」
思わずゼルガディスは真横のショーウィンドウに目をやった。
クリスマスツリーのてっぺんに星をのせようと、ツリーの左側にいる男のマネキンが膝立ちになって手を伸ばしている。ツリーをはさんだ反対側には飴色の椅子の上に置かれたいっぱいのプレゼント。
「どうかしましたか?」
不思議そうに少女が首を傾げた。
さらりと黒髪が揺れて、柔らかそうな頬にかかる。
それを見て、ゼルガディスは口をつぐんだ。
どう見ても人間だった。
お前、そこに立っていなかったか? とは絶対に聞けない。
たぶん自分の気のせいだ。ショーウィンドウだって、一瞬しか見ていないから、前に立っていた彼女をマネキンと見間違えたのだろう。気のせいだ、気のせい。
「俺に何か用か?」
「はい」
嬉しそうに少女は頷いた。
「逃亡を手伝ってください」
「は?」
「クリスマスの飾り付けばかりやらされて、ちょうどイヤになってたんです」
ゼルガディスは思わず、再びショーウィンドウを見た。
目の前の少女も彼につられてそこを向く。
「この飾り付けもわたしがやったんですよ」
「お前やっぱり………」
「せっかくのクリスマスに、仕事いれるなんてひどいと思いません? このデパートのチーフ最低なんですよ。これ見よがしにクリスマスディスプレイばっかりやらせるんです」
「あ、ああ………」
(なんだ、ここの店員か)
一瞬でもやっぱりマネキン、と思いかけた自分の思考回路が心配になってきた。
ゼルガディスは気をとりなおして、再び少女に向き直った。
「で、バイトをさぼるのに何だって俺を付き合わせる必要がある」
「たまたま目に入ったからです」
「ひどい理由だなオイ………。だいたい見ず知らずの人間によくこんなことが言えるな」
少女は大きな瞳でゼルガディスを見あげた。
「いけませんか?」
挑むような、真っ直ぐな問いだった。
クリスマスの色と音に溢れた雑踏のなかで、貼りつけられたコラージュのように少女は周囲から浮きあがって見えた。
不意に、少女が何かに思い当たったらしく不安そうな顔をした。
「あ、もしかしてこれから彼女とクリスマスですか? だったらご迷惑ですよね」
「そんなものはいない」
こればかりはほぼ即答だった。
どうやら自分の外見はかなり良い部類に属するらしいので言い寄られはするのだが、如何せん、他人に触れられるのが鳥肌立つほど嫌いときている。そのうえ、交友範囲もおそろしく狭く、知り合いの女性は例外なく他に相手がおり、彼とは気の置けない正しい友人関係を築いていた。―――余談だが、知り合いの男性は例外なくその女性たちの相手である。
「でも、さっきデパートの入り口前で煙草なんか吸ってましたよね。てっきり待ち合わせかと思うじゃないですか」
「成り行きだ」
実際、歩いていたらたまたま煙草が吸いたくなっただけなのである。歩き煙草は嫌いなのだ。
「だいたい何でクリスマスだとデートして祝わにゃならん。俺は別にクリスチャンでもなんでもないぞ」
憮然として言い切った彼に対し、少女は大きな目でひとつ瞬きをしてみせた。
「それは資本主義にのせられてムードと気分を楽しむからですよ」
「………何だって?」
一瞬、聞き間違いかとゼルガディスは思った。
「もはやキリスト教なんかどうでもよくって、単なるアニバーサリーなんですってば」
可愛い顔をして、さらっとドライなことを言うと、少女は手袋をしていない手にハァッと息を吹きかけた。
「浮かれて楽しんだもの勝ちなんです。あなたみたいに辛気くさい顔してたら損なだけですよ」
「辛気くさくて悪かったな………」
顔を引きつらせてそう答えたゼルガディスは、不意に何もかも馬鹿らしくなった。
クリスマスなぞ麻疹にでもかかったと思って、ノっておけばいいのかもしれない。
生きている限り、一年に一度必ずこのイベントはやってくる。おそらく今までもこれからも、自分はクリスマスディスプレイを睨みつけながら過ごすだろう。ならば一度くらいノっておけば、あとあと免疫がつくかもしれない。
そこまで考えて、ゼルガディスはますます馬鹿らしくなった。それでは本当に麻疹ではないか。
軽く息を吐いて、彼はポケットに入れていた手を出した。
「ま、いいか」
「え?」
きょとんとした少女の腕をつかんで、ゼルガディスはおもしろそうに言い切った。
「オーケイ。資本主義にのせられて、バイトをサボタージュしたお前さんを楽しませてやるよ」
控え目にドアベルがなった。ベルにしては低めのくぐもった音だったが、静かすぎる店内には大きく響く。
カウンターの向こうでカクテルを作っていたマスターが小さくこちらの方を見た。ゼルガディスが指を二本立ててみせると、奥のテーブルを目で示す。
店内は暗かった。客のいるテーブルだけキャンドルが灯って、柔らかくオレンジ色の光投げかける。
壁際の椅子に座ってコートを脱いだ少女は、ゼルガディスに向かって出会って何度目かの首を傾げて見せた。
「よく来るんですか?」
「いや。初めてだ」
「え、でもさっき場所知ってましたよね」
「知り合いから場所を教えてもらってただけだ。あれだけ入り口が変わっていればすぐわかる」
さっき通ったばかりのバーへの入り口は洞窟に似せてあって、岩肌めいた壁のところどころに埋めこんだ、真紅と透明な硝子の塊が光を弾いていた。
テーブルに置かれている木目の美しい板には、店の名前と柘榴の絵が焼きつけてある。
漢字ばかりを四つ連ねたその名前をしばらく睨みつけて、アメリアは言った。
「………読めません」
「安心しろ、俺も読めん」
先刻、アメリアと名乗ったばかりの少女は吹きだした。
「なんだ」
「そ、そんな自信たっぷりに言うことじゃないじゃないですか」
笑いながら、アメリアはゼルガディスを見た。
「よかった」
「何がだ?」
店員からメニューを受け取りながらゼルガディスが聞き返すと、アメリアは困ったように言った。
「わたしばっかり楽しんでたら悪いじゃないですか。ゼルガディスさんにも楽しんでほしいです」
二人のテーブルにもキャンドルが灯された。
光の輪のなかに、アメリアの笑顔が浮かびあがる。
思わず目を奪われて、慌ててゼルガディスは我に返った。
「安心しろ、俺も結構この災難を楽しんでいる」
「災難って何ですか」
「家に帰ろうとした俺に、いきなり逃げるのにつきあえと言ってきたヤツをもてなす災難だ」
ぷーっと正面のアメリアの頬がふくれたが、ゼルガディスを見てすぐに笑み崩れた。
「だから、よかったぁ、です」
実際、自分でも意外なほどゼルガディスはこの情況を楽しんでいた。
初っ端からとんでもないシチュエーションで始まったため、自分でも予測がつかない事態が楽しい。その予測のつかない事態を引き起こしているアメリアはといえば、彼の周りにはあまりいなかったタイプの人間にもかかわらず、いっこうに彼の警戒心を刺激しない。
一緒にいるのが苦痛ではないという人物は、彼にとって非常に稀少な存在だった。
「だいたい何だって俺なんだ―――」
「え?」
木目の美しい焼板にベージュの紙をはって品書きを記してあるメニューを見て難しい顔をしていたアメリアが、きょとんと顔をあげた。
コートの内ポケットから煙草を出しながらゼルガディスはもう一度繰り返した。
「何だって俺なんぞを誘ったんだ。クリスマスのバイトが嫌だというのは一緒に過ごす誰かが言うべきことだろう。相手がいないならいないでバイトでもして金を稼いでりゃいい」
キャンドルの灯りの向こうで、アメリアが心持ちムッとした顔をした。
「相手がいなくてもクリスマスをきちんと楽しく過ごしたいじゃないですか!」
それに、と続けて、アメリアは笑った。
「たまたまあなたが目の前にいたからっていうのも本当です。あんまり不機嫌そうな顔をしているから、きっとクリスマスが嫌いなんだと思いました」
「嫌いだな」
「さみしい人」
アメリアがぽつんと言った。
明らかに鼻白んだゼルガディスを気にすることなく、アメリアはにっこり笑う。
「自分以外の周りみんなが楽しそうなんですよね。自分だけ置き去りにして世界中の人たちが幸せそうに楽しそうに笑っている。世の中全部がそれを応援しているみたいにあちこちでクリスマスを盛り上げて」
「――――」
金を置いて立ち上がってここで帰ろう。不意の気まぐれにその気になってしまった自分がおそろしく馬鹿だったのだ。今度から絶対成り行きのままに行動するまい。
固くそう決心した彼の耳に、アメリアの言葉が飛び込んできた。
「だから、わたしもこの日が大嫌いなんです」
「………何だと?」
「でも、大嫌いだからって拗ねたままなんて馬鹿みたいじゃないですか。世の中全部に負けたままだなんて絶対イヤです。だから死ぬほど楽しんでやるんです」
ゼルガディスは無言で煙草に火をつけた。
注文を取りに来た店員が目敏く灰皿と燐寸を置いていく。ゼルガディスはウィスキーを頼み、カクテルの名前だけでは味が想像できなかったアメリアは店員に好みを伝えて、適当に作ってもらうことにする。
一瞬、アメリアは未成年ではないのかという思考がゼルガディスの脳裏をかすめたが、本人にまったくその旨の遠慮が見えないので、確かめるのも馬鹿らしくなり黙っていた。
あとは店のおすすめらしいパルフェという菓子をアメリアが頼み、メニューを下げてもらった。
テーブルの上には、煙草の箱と灰皿と燐寸、あとは揺らめくキャンドルだけとなる。
とりあえず席を立つ気はなくなっていた。
「馬鹿みたいに笑ってるカップルを見ると死ぬほど腹が立ってきます。クリスマスの本当の意味も知らないくせに」
顔に似合わない毒舌を吐くと、アメリアがそうっとキャンドルの入った硝子のグラスを手で包みこんだ。
暖かな光が指先を染めて、こぼれた明かりは切り揃えられた黒髪に艶やかに反射する。
「背中を丸めてさみしいだなんて言いません。こうしてあなたとめいっぱい楽しんで、どうですかうらやましいでしょうって胸を張るんです。だからあなたも楽しんでください。嫌いな者同士、クリスマスに喧嘩売ってやるんです」
むちゃくちゃな理屈を真剣に話している彼女に、不意にゼルガディスはおかしみが湧いてきた。可愛いな、などと一瞬にしろ思ってしまった。
ふと彼女が首をかしげた。
「あの? もしかして馬鹿にしていません?」
「いや、聞いている」
「聞いてくれているのはわかってるんですけど。ちゃんと真面目に聞いてます?」
「真面目に聞いてどうするんだ」
「あっ、じゃあやっぱり馬鹿にしているんじゃないですか!」
ゼルガディスは喉の奥で笑いながら煙草を揉み消した。
「楽しんでいるんだ。安心しろ」
「なんか、不本意………」
アメリアがキャンドルを包みこんだまま呟いた。
「二人して楽しんでいるんなら勝ち組だろう。気にするな」
苦笑混じりに言ったゼルガディスの言葉に、アメリアは花開くように笑いながら頷いた。
灯りに縁取られる白い顔が信じられないほど艶やかに見えた。
店の方針なのか、よけいな音楽などいっさい流れていない店内だった。炎だけだゆらゆらと天井と壁に影を作る。うっかり今日が何の日かも忘れてしまいそうだった。
やがて運ばれてきたカナディアンウィスキーも逸品で、ゼルガディスはつくづく店を教えてくれた友人に感謝した。
こんな場所もあるのだ。
おそらく自分は生まれて初めて十二月二十四日を楽しんでいる。
見ず知らずの少女と―――。
その扉を見つけたのはアメリアだった。
生クリームを凍らせたような冷菓子のパルフェを食べていたアメリアが、ふと首を傾げてゼルガディスの背後を見た。
その視線に気づいたゼルガディスが目で問うと、銀色のフォークを置いて、指さす。
「あんなところにドアがありますよ」
桜色の爪の先を追ってふり向いた先は、カウンターからも離れた店の最奥部だった。
たしかにアメリアの言うとおり、そこには扉があった。床から二段ほど高い位置にある。店内の雰囲気に合わせた落ち着いた色の木の扉だ。
カウンターからも離れているということはスタッフルームでもないだろう。それに従業員専用というにはあまりにも凝った装飾の扉だった。
扉の奥が何かを示す木の札がかかっていたが、暗くて読み取れない。
ゼルガディスはその扉の横の壁にかかっている黒板を見て、あれはメニュー表じゃないのかと思った。
やがて、会計をすませる段階になって、ゼルガディスは扉のことを店員に問うた。
彼の読み通り、あの扉から登って地上に出たところはガーデンカフェになっているという。
「この寒いなか、客はいるのか?」
「ええ。周囲のビルとの関係で風もないですし、雪とかも降っても上には吹き込まないんですよ」
突然、アメリアがゼルガディスの腕をとった。
「いってみませんか? あ、上から外に出てもだいじょうぶですか?」
「はい、どうぞ」
店員はおだやかに頷いた。
ゼルガディスはアメリアに引きずられるまま、来たところを逆戻りして店の最奥へと向かった。
階段を二段上ると、そこには鉢植えの花と緑に囲まれて凝った装飾の扉がある。シックなプレートがピンで止められていた。
『Cafe香雪庭園』
「………やっぱり読めません」
アメリアが憮然とした口調でそう言った。
その頭をぽんと叩き、ゼルガディスは指をさす。
「よく見ろ、英語でも書いてあるだろうが」
「スノウガーデン………? 夏は営業しないんですか」
「俺が知るか」
言いながらゼルガディスは扉を開けた。
細く急な階段が地上へと続いてる。白熱灯の暖かく弱い灯りが照らすなか、すり抜けるようにしてアメリアが先に進んだ。
その後を続いて階段を昇りながら、ゼルガディスは少し落ち着かなかった。
ここを出て、それから―――?
時刻は九時を少し過ぎている。
本音を言ってしまえば、もう少し彼女と一緒にいたい。自分でも信じられないが。
ただ他愛なく喋りながら歩くだけでもいい。
このまま駅まで送って別れるというのは、寂しかった。
寂しいか。
ゼルガディスは苦笑する。なるほど、自覚はなかったがアメリアの言う通り、自分は寂しい人間だったらしい。
不意にアメリアが最後の数段で立ち止まった。
暗がりのなか、ふわりとふり返ると、ちょうどよい位置にあるゼルガディスの頭の上にひょいと何かをのせる。
「はい。クリスマスプレゼントです」
「のせるな」
言いながらゼルガディスが頭に手をやると、硬く尖ったものに触れた。
つかんで確認すると、星だった。
金色に塗られた、輝くような。
「おい、これは………」
「ふふっ」
アメリアは笑うと、ほんのわずか身をかがめた。
二、三段低い位置にいるゼルガディスはいまはアメリアよりもわずかに目線が下になる。
止める間もない。
あっと思ったときには唇を塞がれていた。羽のように軽いキス。
ゼルガディスが絶句しているあいだに、アメリアは最後の数段を跳ねるようにして駆けあがっていた。
一気に扉が引き開けられる。
途端に冷気がどっと流れこんできて、ゼルガディスは思わず首をすくめた。
急勾配の階段の上を見あげると、閉まりかけたドアの向こうからアメリアの歓声が聞こえた。
「すごい! 雪が………ゼルガディスさん、雪ですよ!」
嬉しそうなその声が途中で急に小さくなる。慌ててゼルガディスは閉まりかけていたドアを手で押しとどめた。
「待て、アメリア―――」
置いていくんじゃない。
扉を開いたゼルガディスの耳元で、微かな声がした。
―――くすっ。
「…………ッ !? 」
たたらを踏んで、ゼルガディスは雑踏のなかあたりを見回した。
溢れるイルミネーションとクリスマスディスプレイ。とっくに日は沈み、暗い空の下、華やかに、雪が。
Merry Christmas!
ちかちかとそう瞬く電飾をゼルガディスは呆然と見つめた。
そこはデパートのショーウィンドウの前だった。夕暮れに、ゼルガディスが煙草を吸っていた、あのデパート。
あのとき、女性と肩がぶつかって、不意に笑い声が聞こえた。思わずふり向いて、気のせいかと正面向き直ると、そこには―――。
「アメリア………?」
自分はたった今まで、アメリアと一緒にバーにいたのではなかったか。胸に残るアルコールの熱は嘘のように微かだった。
頬に触れて溶ける雪の冷たさが、どんどん酔いを覚ましていく。
聖夜の雑踏は皆、幸せそうだった。またたくイルミネーション、夜に溢れる音は耳慣れたクリスマスソング。
あまりにも華やかで胸が痛むような夜だ。
吐いた息が白く立ちのぼる。
身じろぎして、不意にゼルガディスは自分の右手が握りしめているものに気づいた。
立ちつくしている彼の周囲をどんどん人は通り過ぎていく。
明るく光るショーウィンドウのなかでは、丈の低いクリスマスツリーを囲んで男と女のマネキンがいる。
左側に男のマネキン。ツリーのできばえを確かめるように、椅子に腰掛けて足を組み、その膝に頬杖をついてツリーの方に顔を向けている。右には少し身をかがめた恰好の女のマネキン。凹凸だけで顔のない肌色の輪郭はあどけないハイティーン。肩までの黒髪には白いベレー。黒い刺繍の入ったケープ型のコートの下から、紺のシフォンのプリーツスカートが覗いている。黒いタイツにショートブーツ。その足許にはいっぱいのリボンがかかった箱。
クリスマスツリーのてっぺんに星をのせようとしているのに、その手はあるべきはずの星がない。
ゼルガディスは手のひらの星をゆっくり握りなおすと、ポケットに入れた。
やがて、ふっと笑うと彼は家路についた。
内ポケットの中で鳴りだした携帯電話に応える彼の声は、不思議なくらい明るい。
「―――俺も? ………いや、いい。リナといてやるんだな。リナが? よけいなお世話だと言っておけ」
笑いながら、ゼルガディスは電話の向こうの友人に言った。
「俺はけっこう悪くない。I wish your a Merry Christmas. せいぜいうまくやれよ」
そしてそのまま電話を切る。
彼は取り出した星を指でクルリとまわした。
「ちょーっとアメリア、何ぼーっとしてんのよ!」
リナの声に我に返ると、親友が呆れたように腰を手に当てて立っていた。
慌てて手にした箱を、山と積まれた段ボールの上に積み上げると、リナがその上にさらに箱を積む。
リナがぱんぱんと手をはたきながら言った。
「あー、これでやっとお仕事終了。さっさと帰れるってもんだわ」
「わたし、残りの片づけもやっておきますよ。リナさんは先にあがってください」
「そういうわけにもいかないでしょ」
「ガウリイさんを、この聖夜にいつまで待たせておくんですか」
アメリアが軽く睨みつけると、リナは気まずげに顔を赤くした。
「あんたもあたしたちと一緒にパーティしようって言ったのに」
デパートの制服姿でアメリアは笑った。
クリスマスのバイトを休もうと思えば休めたはずなのに、アメリアを気にしてつきあってくれたリナの気持ちが嬉しい。
「お邪魔しちゃ悪いじゃないですか」
「だーっ、何を言いたいのあんたはっ」
赤くなったリナが脱いだ制服のジャケットをふりまわした。
「そういえば、何ぼーっとしてたのよ?」
「え、いや………」
アメリアはためらって、それから傍らのショーウィンドウを見あげた。
閉店間近なデパートのショーウィンドウ。紳士服売り場が近いこともあって、男性のマネキンがディスプレイされている。
紺のシンプルなウールのコートに、バーバリーのベージュのマフラーを合わせた青年のマネキンだ。マフラーに顎を埋めるようにして、少し寒そうに立っている。
ブランドのショーウィンドウということもあって、ここはクリスマスディスプレイが控えめだった。
「このマネキンがどうしたの?」
「何か、動いたような………」
「はァ? こんな日に怪談? やめてよもう」
顔をしかめたリナは、アメリアの制服を脱がせにかかった。
「リナさんっ !? 」
「四の五言わずにあんたもバイトあがんなさい。大勢で騒いだほうが楽しいに決まってるでしょ。こんなに日に一人でいたりするんじゃないの!」
リナから逃げ回りながら、アメリアはマネキンに目をやった。
作り物のその手が、なぜだかツリーのてっぺんの星をひとつだけ持っていることに気づいて、アメリアはきょとんとしたが、ふと柔らかに微笑した。
―――I wish your a Merry Christmas !
