彰子は自室で針を動かしていた。
先月朔日に、更衣はすませている。昌浩と吉昌、晴明には新しい衣をすでに仕立てておろしていたが、露樹と彰子は衣はあらためたものの、新調は後まわしにした。
露樹と話しあって、そう決めたのだ。その代わり、ゆっくりと良い物を仕立てましょうねと露樹は笑って言った。
大内裏に出仕して人と立ち交じらねばならない昌浩たちと違って、邸で奥向きの仕事しかしない露樹と彰子は、衣の新調が遅れてもたいして困らない。
冬の衣は傷んだところをつくろい、すでにほとんどのものが次の冬を待って仕舞いこまれている。このひと月、彰子が暇を見ては熱心に縫い物に励んだ成果だった。
「姫、少し休憩をなさいませんか」
傍らで見守っていた天一が、そう言って声をかけてくる。
手元から顔をあげて、彰子は微笑した。
「ありがとう。でも、これが最後の冬物だから、これだけやってしまうわ」
綿の入った袿だが、裾がほころびて中の綿が少し出てきてしまっていた。一昨年の正月に成親と昌親がの二人が、晴明にと贈ったものだ。大きめに仕立ててあって使い勝手がよく、毎年更衣が終わってからも、冷えこんだ折などに肩からそのままかけているのをよく見かけた。
暖かな衣を贈った二人の気持ちがわかるから、ことさら丁寧に彰子は針を使う。
やがて縫い終わり不備がないか点検し、満足のいった彰子は微笑んだ。
天一が手を伸ばして、衣を受けとる。
「私がたたみましょう。どうぞ姫は休憩なさってください。あまり根を詰めては疲れてしまいます」
「そうね、今日はもうお終いにするわ。あとは私の衣だけだから、急がなくてもいいし」
天一の言葉に甘えることにして、彰子は道具類を片づけた。
「姫の衣は、どの色で仕立てるおつもりですか?」
ゆったりと微笑んで天一が尋ねてくる。
彰子は首を傾げて、少し思案した。反物は三月に、数日がかりでまとめて染めてある。露樹が選んだものは、刈安を使った落ち着いた黄色のものだった。
「そうね………。紅のものはそのうち昌浩の直衣の下から着る袿に仕立てたいし………。たしか、残り液で染めた薄紅色があったわよね。あれにしようかしら」
染料を多く使わない淡い色ほど安くすむ。好きな色をと露樹は言ってくれているが、さすがに安倍邸に来て数年も経つと、懐事情もわかってくる。折々に父が禄などの形で晴明や昌浩を通して届けてくれることもあり、居候の身で贅沢を言おうとは思わなかった。
「姫のお好きな色ではないのですか?」
「どの色も好きよ」
彰子は笑って首をふる。実際、美しい衣は好きだが、それほどこだわりもないのだ。人目をひくような派手な色は避けねばならないし、自然と落ちついた色になってくる。
昌浩はもっと華やかな色合いをのものをと言うが、そんなに気をつかわなくてもいいのにと思う。
東三条殿にいたころは本当に贅沢な衣を身にまとっていたが、いまほど楽に呼吸をしていたとは思えない。綺麗な衣は、優美さとひきかえのように彰子の肩には重かった。
もうしばらくしたら夕餉の手伝いに行かねばならない。
今日は昌浩が遅くなると伝えていたから、一緒に夕餉をとることはできない。どこかの貴族から依頼を受けたといっていた。
そういえば、貴船の神様からの用事はいったい何だったのだろうか。彼が何も言ってこないところをみると、彰子が知る必要のないことなのだろう。無理に聞きだそうとは思わないが、そうではなくて単に話す機会の少なさから口に出せないだけなのかもしれない。
夕べのことを思いだして、彰子の気分は重くなる。
昌浩は謝ってくれたのに、どこか逃げだすように場を後にしてしまった。彼と話すということは、こんなにも言葉をさがさなければならない行為だっただろうか。
まっすぐな視線が向く先が自分だということを必要以上に意識してしまい、どこかに身を隠したくなる。
ここ二、三日で交わした会話は、驚くほど少ない。そういう時だってある。寮が忙しい時期や正月などは特にそうだ。
わかっているとはいえ、それでも気が沈んでくるのは止められない。
そうして、それはふっと浮上するのだ。
―――ここにいてもいいのだろうか。
時々、揺り返す波のように不安に襲われる。
包丁の扱いかたも縫い物の腕もずいぶん巧くなり、できることの少なさに身の置きどころなく感じることも減った。いまでは多少なりとも皆の役に立てていると思う。安倍邸で暮らしていけることは楽しくて嬉しいし、無理せず笑っていられる。
いてもいいのだと、頭ではきちんと理解している。だがそれでも時々その不安は彰子を悩ませた。まるで、聞き慣れて何とも思わなくなっていた香の薫りが、時々はっとするほど強く感じられたりするように。
口にしたら、優しくたしなめられるだろう。昌浩を悩ませるだろうし、神将たちにも気を遣わせてしまう。だから、いつも気づかれないようにやり過ごす。瘧病のようなもので、やり過ごしてしまえば、あとは平気だと自分でもわかっている。
吉昌と露樹は気さくで穏やかに、晴明は祖父のように接してくれる。神将はいつも自分を気遣ってくれて、時々会う成親たちは彰子を本当に昌浩の許婚のように扱ってくれる。
昌浩は出迎える彰子にただいまと言ってくれる。彼女の願いを懸命にかなえようとしてくれて、約束を守ろうとしてくれる。
―――誰よりも彼の近くにいたい。
これからもずっと、それがかなうならば。………そう望んで、くれるのならば。
いままで過ごしてきた日々は真綿のように優しくて、その曖昧さが心地よかった。少しずつ降り積もっていく雪のように幸せな日々。
けれど、いつまでもこのままでいられるはずがないと、わかってしまっているから時々不安になる。
「ああ、そうか。私………」
どうしてこんなに胸が騒ぐのか、彰子はその理由に気づいてしまった。
貝を手にしたあの夜。彰子の名前を呼んだあの声に、はっきりと心が震えた。何かが変わる予感に。
真綿がゆるゆると剥ぎとられていく。季節が巡り、衣を更えていくように。
いままで曖昧だった輪郭がはっきりと浮きあがってくる感覚が、彰子に不安を覚えさせるのだ。
このままでいられるはずがないとわかっていても、あともう少し、と望んでしまう矛盾した自分もいるから。
「姫………?」
気遣わしげに視線を向けてくる天一に、彰子は何でもないのだと微笑んだ。
門のところで帰宅した吉昌の声がする。露樹が出迎える気配がした。
―――ややあって。
晴明が呼んでいると、露樹が彰子を呼びに来た。
固く封をされた文は、直接彰子に宛てられるなど何年ぶりかもわからない父直筆のものだった。
少しでも危険を避けるため、いつも父の言葉は言づてという形で彰子に届く。吉昌を介したとしても、このように直々の文が届くということはなかった。
いったい何事かと晴明に尋ねたが、彼も文の内容は知らないらしく首を横にふられた。晴明は晴明で別の文を手にしている。
ひとまず受けとって自室に戻り、彰子は緊張しながら文を開いた。懐かしい伸びやかで奔放な父の手跡が目に飛びこんでくる。
読み進めていくうちに、彰子は知らずきゅっと唇をひき結んでいた。
黙って読み終えると、少し震える手でそれを折りたたむ。小さく小さく折りたたんでしまうと、彰子はそれを櫛笥のなかにしまいこんだ。
「姫、いかがなさいました………?」
ただならぬ様子に天一が尋ねると、彰子は泣きそうな顔で微笑んだ。
「………お父様が、昌浩と結婚してはどうかって」
思いがけない返答に、天一は絶句してしまった。
文の内容にも驚いたが、その驚きが去ってしまうと、彰子の表情の暗さが気になった。
彰子が昌浩を想っているのは、神将たちにとってはすでに当たり前のことで、その逆もそうだ。昌浩も彰子を大切にしているし、いまはまだ形にならないが、いつか晴明と若菜のように寄り添うのだろうと、ごく自然に考えていた。
神将たちにとって人の身分というのは何の隔てにもならないが、彰子が本来なら帝に入内する宿めだったことは知っている。正式に妻にと請うのは左大臣の手前難しいのだということも、漠然とながら理解していた。
その最大の難関と思われる左大臣のほうから、昌浩と一緒になることを勧めてきているのである。
喜びそうなものなのに、どうしてこんな泣きそうな顔をするのかが天一にはわからない。
「姫は、嬉しくないのですか? 姫のお父上が良いと仰っているのでしょう? どうしてそのようなお顔をされるのです………?」
彰子はうつむいて、首を横にふった。
「………嬉しいの。嬉しいけど、嬉しくないの」
「姫?」
「ずるいわ。お父様も、私もずるい。それが嫌なの」
呟いて、彰子は顔を歪めた。
父の提案は、自分には願ってもない許しだ。
いつか、行きつく先がそうであればいいと願って育んできた、ひそやかな想い。決して消えない咎の記憶に後ろめたさを感じながらも、彼の近くで生きていきたいと望んだ。
望めば、父は許しただろう。
条件は満たされていて、優位はあきらかだった。
わかっていた。だからこそ、いままで口にすることはなかった。
それを望んでしまう己が浅ましく感じられ、卑怯だと思った。
自分は一生、陰陽師の庇護なしには生きていけない。陰陽師の傍を離れれば、いくらも経ぬうちにこの身に巣くった呪詛が暴れだす。
別に陰陽師なら賀茂家でもいい。だが、父が事情を知る者をいまさら増やす危険をおかすとは思えなかった。宮中一の権勢を誇る左大臣は娘の守護を安倍家に命じ、安倍家もそれを諾とした。彰子の一生は安倍家の人々と共にある。
彰子が望むなら―――と、文にはあった。
父にとっては、思いもかけない呪詛で日陰の身に追いやってしまった負い目があるのだろう。できうるかぎり自分の意向を尊重してくれようとしていた。
だが同時に父の打算も透けて見えていた。
彰子が安倍の家に入れば、より繋がりは強化される。当代一の力を持つ陰陽師の一族が内密とはいえ姻戚になるのだ。
その考えを否定はできない。父は政を動かす立場にある人間だ。情のない人ではないと知ってはいるが、それとは別にこういう計算ができる人であるとも知っている。
彰子がうなずけば、この家は逃れようもなく藤にからめとられる。自分の身ひとつで安倍家の人々を政の闇に縛りつけたくはなかった。
何より父は知らない。呪詛を発動させてしまったのが、他ならぬ彰子自身であるということを。
護ると誓ってくれた。何度も助けてくれた。いつだって信じている。いくつもの優しい約束とともに。
だからこそ、父のずるさと自分のずるさが鮮やかに浮かびあがる。
泣きたいほど嬉しいのに、泣きたいほどつらい。
あの日の自分の心の弱さが何の想いに起因するものであったか、今でははっきりとわかるからこそ―――。
星を違えたその先にある幸福に立ちすくむ。
「私が望んで、お父様が口にしてしまったら。昌浩は断れなくなるわ………」
唇を噛み、彰子は己の右手をきつく押さえた。消えぬ傷がそこにある。
誰よりも誰よりも近くにと望むけれど。
それを望む同じ己の心にからまって足をとられ、前に進めない。
「姫………」
思い悩む彰子にかける言葉を見つけられず、天一は声を詰まらせた。直後に、はっと気づいて几帳のほうを見やる。遅れて彰子も気づいた。
「―――姫は、もう少し貪欲になるといい」
「勾陳………」
顕現した闘将たちの紅一点は目をすがめ、うっすら微笑した。その視線が櫛笥に向き、それから彰子に戻される。
静謐な漆黒の双眸に見つめられ、きつくつかんだ彰子の手がわずかにゆるんだ。
「昌浩も姫も、もう少し正直になって欲を出すことだ。どうしようもないことで悩んだりするのは時間の無駄だぞ」
「勾陳、そのような………」
あっさりと言ってのけた勾陳に天一が咎めの声をあげるが、同胞は小さく肩をすくめてそれをいなす。
「安心するがいい。安倍の血筋はけっこう強かだ。姫の身ひとつで身動きできなくなるようなことはない」
彰子は息を呑んで勾陳を凝視した。
見返す神将の視線は深沈と光り、焦りや不安とともに、知らずまとっていた鎧のような強ばりをも削ぎ落としていく。
勾陳にはめずらしい、やわらかな微笑が彰子へと向けられた。
「だから姫は、自分と相手の意向だけを気にすることだ。相手の意志をたしかめもせずにひとりで悩むのは、私にはずいぶん無駄なことだと思えるが?」
「昌浩の………」
つかんでいた手の左右が逆になった。右手が、左手首の瑪瑙に触れる。彰子の顔がくしゃりと歪んだ。
いつだって、彼の想いは自分にまっすぐに向けられている。
わかっている。自分の想いは彼に向けられているし、彼の想いは自分に届いている。想うあまり、相手を傷つけることをおそれてすれ違ったこともあるが、想いだけは変わることはなかった。
まなざしは結ばれて、想いは交わされている。
ただそれが、二人のあいだで同じひとつのものとして融けあっているかどうかはわからない。
融けあわせたい―――。彰子のなかの何かが弾けた。
兆しはすでに興っている。予感は現実となってためらいと戸惑いを押し流した。常にない声で「あきこ」と呼ばれたときに、きっと自分は何もかも悟っていた。
勾陳がすっと膝を突き、彰子の顔を覗きこんだ。黙って彼女は背の高い神将を見あげる。
相手は何食わぬ顔をして告げた。
「参考までに教えるが、少なくとも我らの意向は決まっている」
「ええ、その通りです」
天一がこのうえなく優しい顔でうなずく。
「勾陳、天一………」
少し斜に構えるようないつもの微笑を浮かべた神将の指が、彰子の頬を無造作にぬぐった。
「ずるいのは何も、姫だけではないのさ」
問うような目をした彰子に、勾陳は笑うだけで答えなかった。