君がためにと ()る花は 〈八〉

 どうにか敏次の誤解をといた昌浩は、ぐったりしながら大内裏を退出した。
 敏次の父親と懇意(こんい)である中宮付きの女房が―――たしか赤染衛門(あかぞめえもん)という名だったか―――どうやら和泉式部の遠縁にあたるらしい。
 その関係から敏次は彼女について色々けしからぬ話を聞き及んでいたようで、以前に夜歩きの前科がある昌浩の口から彼女の名前が出てきたため、疑惑にかられてしまったらしい。―――夜歩き自体が誤解なのだが、この誤解がとける日はおそらくやってこないだろう。
 昌浩が必死で説明し、最初は疑わしげな顔をしていた敏次だったが、やがて納得すると今度は慌てて早とちりと盗み聞きの非礼を詫びてきた。その時点で合流してきた物の怪がいつものごとくぎゃんぎゃん喚いていたのだが、それは割愛する。
 事情を知った敏次は、逆に気遣うような顔で忠告してくれた。
『私が言うのもなんだが………気をつけて立ちまわりたまえ。こんなことで、かしこきあたりのご不興を買うのはつまらないことだ』
『はい。重々気をつけます』
『君も災難なことだ。まったく、親王ともあろうご身分の方がこんな軽々しい振る舞いをなさるから………』
 生真面目な敏次は顔をしかめていた。一夫多妻が許されるご時世だが、あまりに身分をわきまえない関係は眉をひそめられるのである。
「しかし、ものすごい誤解をしてくれたなあ、敏次殿………」
 あれほど誤解をとくのに必死になったのは久方ぶりである。
《………あれは、こちらの言い方が悪かったと思うが》
 六合に言われ、昌浩は唸った。たしかに通うと言えばそういう意味もある。すこんと抜けていた。いやでも、話の流れからして呪詛関係だと思うではないか。昌浩にとって彼女は貴船の祭神の縁者で呪詛返しの依頼人でしかないので、彼女の風評は聞いていても、まさか自分が対象者のひとりとして疑惑を得るとは思いもしなかった。
「俺がどうこういうことじゃないけど、これは宮様も式部殿もいけないよねぇ……」
 昌浩は溜息をついて、まだまだ明るい夏の空を見あげた。最近ずっと雨模様だったので、晴れているのがずいぶんと久しぶりに思える。
「それで、方針は決まったのか」
 傍らを行く物の怪の問いに、昌浩はうなずいた。
「うん、とりあえず式で依頼された術師を突きとめて、念のために依頼人を確認する。向こうが手をひけばそれでいいし、だめなら返すよ」
「その北の方とやらはどうするよ?」
「んー、気持ちはわからないでもないけど、やっぱり呪詛はいけないことだから、少しぐらい反省してもらったほうがいいのかなぁ。これから安易に人を呪ったりしないように。………式部殿もだけど」
 敏次から聞いた彼女の話は、長兄から聞いたものよりかなり派手だった。次々と名をあげられるそうそうたる官位の面々に、昌浩の顔はひきつりっぱなしだった。どうやら貴族の間では評判の歌詠みであると同時に、恋多き女人としても有名らしい。
「もし、東宮妃も一枚噛んでたらそっちはどうするんだ?」
 そう言われて、昌浩は顔をしかめた。
 真面目で曲がったことが嫌いな敏次までもが、うまく立ちまわれと忠告をしてくるのは、今回の件に東宮妃がからんでいるかもしれないからだ。
「それは………。うーん、陰陽生風情が何を言っても無駄っぽいよねぇ……。そのときはじい様か父上に相談してみる。ちょっと俺の手に負えないかも」
 昌浩は何度目かの溜息をついた。
「高淤の神からの頼みじゃなかったら、絶対かかわらなかっただろうなあ……」
 だろうな、と傍らを歩きながら物の怪は思った。
 昌浩の周囲の大人たちは、世の風潮に反するかのようにただ一人の(ひと)しか伴侶としていない。祖父も父も年の離れた兄たちも皆そうだから、そういう環境で育った昌浩は、ごく自然にそれを当たり前のことととしている。
 おまけに超がつくほど奥手で鈍感だから、和泉式部と帥宮の行動は彼にとって理解しがたいものなのだろう。
 何とも相性の悪い依頼だ。成親ならもっとうまくさばいただろうに。
 ………まさか、これでけしかけているつもじゃなかろうな、貴船の神よ。
 物の怪は思わず半眼になった。
 気にしているのかいないのか。昌浩は触れはしないが、先刻の敏次は思い切り痛いところをついてきた。
 ―――何年も前に邸に迎えておきながら、婚儀もせず。
 そのような意味合いのことを口論のなかでさんざん言っていた。
 たしかに傍目から見るとその通りなので、不審をかうのもむべなるかな。昌浩の年齢からすると多少早いかもしれないが、邸に迎えてすでに数年が経ち、官位のほうも順調だから、婚儀の話が出てこないことが逆に不自然なのだ。敏次は彰子に遭遇したこともあるため、二人の歳にさほど開きがないことも知っている。
 成親の言うように、そろそろ潮時なのかもしれない。
 少し前を行くその背を眺め、物の怪はこれは本当にどうにかせねばとあらためて決意した。


 露樹や彰子には、今日は遅くなると出仕前に伝えてある。
 昌浩は退出したその足で南院を訪れた。
「おお、安倍殿。よう参られた」
 形代に呪詛を移したおかげで、昨夜は何事もなかったようだ。帥宮(そちのみや)は機嫌良く昌浩を出迎えた。今日は式部の姿は見あたらない。昌浩は少しほっとした。まだ一度しか対面してないが、すでにもう苦手意識が生じてしまっている。何より、背後にどこぞの神様が見えるような見えないような。
「おかげで昨夜は何事もなく、久しぶりにゆっくりと休むことができた。礼を言う」
「………もったいないお言葉です。ですが、まだ完全に呪詛を返してはおりませんので、充分お気をつけ下さい」
 少々複雑な表情で昌浩は一礼したが、機嫌の良い帥宮は気づかなかったようだった。
 式に呪詛の気配を追わせるには、実際に呪詛が発動している時に居合わせる必要がある。昌浩が宿直(とのい)の許可を求めると、帥宮は二つ返事で快諾した。
「今宵、私はどうしても顔を出さねばならぬ宴があって邸にいないのだ。彼女を一人で残していくのは心配だったのだが、安倍殿が邸にいるなら心強い」
「呑気なものだなぁ………。よっぽど愛されてる自信があるのかね。一応、こいつも男の端くれなんだが」
「もっくん、何を言い出すんだ何をっ!」
 呆れた口調の物の怪に、親王の手前大声で叱れない昌浩がそれでも目を()いて怒ってくる。
 気にせず物の怪は後を続けた。
「ま、おそらく眼中にすら入っていないんだろうな」
 安倍家は晴明のおかげで息子二人もそこそこの位にいるためそんなことはないが、陰陽師の平均的な位階からすると、殿上人(てんじょうびと)たちから地下(じげ)と呼ばれる受領(ずりょう)階級の姫とすら身分的に釣りあわないことがある。親王からすると、本当に視界に入らない位置にいるのだろう。
「眼中外だろうとなんだろうと、近寄らないってば」
 苦虫を噛み潰した顔で言い、昌浩は許可を得て庭に降り立った。
 結界は有効に働いているようだ。
 池のほとりまで行き、昨日そこに埋めた形代を掘りだす。あと一日ぐらいなら形代を新しくしなくても持ちこたえられそうだった。
 形代を手に意識を凝らし、それが受け止めた呪詛の気配を探る。
「呪詛の手応えからして、命を狙って………わけじゃなさそうなんだよね。ちょっと脅してやれ、みたいな感じなんだけど」
「色恋沙汰とはいえ、東宮候補をあんまり追いつめるのもどうかと思ってるんだろ。もともと北の方とやらも親王と不仲だったというから、殺したいほど憎いというより、面子(めんつ)の問題じゃねえの?」
「普通、面子で呪う?」
「呪詛なんてたいがいそんなもんだろ」
 さらりと言い放った物の怪は、続く昌浩の言葉に軽く意表をつかれた。
「そうじゃなくて、こういう恋愛がらみで面子とか体面で呪うってのが納得いかないんだよね。前の圭子様みたいに、本当に好きだったからどうしても納得いかなくて呪うっていうなら、まだわかるけど、不仲だったのに自分の体面が傷ついたからって呪うの? それって本気で呪いたいほど心が傷ついている人に対して失礼じゃないかなぁ」
「………何か、怒りどころが違う気がするぞ」
「そう?」
 まだ納得いかない顔で呟いている昌浩に、物の怪は苦笑した。隠形している六合からも同じ気配が伝わってくる。
「ちょっと、もっくん。何で笑うのさ?」
「いいや、何でもない。気にするな」
 帥宮と和泉式部の態度に顔をしかめつつ、相手の北の方にも嫌悪を示している昌浩の潔癖さが本当に若く思えただけである。実に昌浩らしい怒りかただ。
 この存在は、いつもとても真っ直ぐだ。
 何年経っても昌浩が昌浩である限り、こういう依頼はいつもこういう風に困った顔で引き受けるのだろう。
 そのことが簡単に予測できてしまい、物の怪は気づかれぬよう再び苦笑した。


「―――安倍のお若き陰陽師殿?」
 すぐ庭に降りられるようにと(きざはし)に座っていた昌浩は、背後から声をかけられ無言で顔をひきつらせた。物の怪にこづかれ一呼吸して表情を作り、それからふり向く。
 すでに日も落ち、戌の刻(19〜21時)になっている。御簾越しということもあり、やって来た相手の顔はまったくわからなかった。
「ごめんなさいね、直接お声かけして。女房方はわたくしの言うことをあまり聞いてくださらないの」
 屈託なく笑い、式部は御簾を隔てて腰を下ろした。聞き慣れない香の匂いに、昌浩は居心地が悪くなる。
「夜も更けてまいりました。式部殿はどうぞ何の心配もなさらずにお寝みになってください。ここにいらしては怖い思いをなさるかもしれません」
 頼むから、自分にかまわず寝てほしい。
 傍らの物の怪が何を思ったか、跳んだり跳ねたり手をふったりしている。いっこうに気づいた様子がないので見鬼ではないのだろう。昌浩が横目で睨むと、涼しい顔で目をそらした。
 御簾の向こうから、おっとりと笑う気配がする。
「安倍のお若き陰陽師殿はお優しくていらっしゃるのね」
 向こう側の灯りが乏しく暗いため、中の様子はわからないが、逆にそれがありがたかった。うっかり顔など見た日には、後でどんな噂がたてられることか。
「お心遣いありがとうございます。ですが、わたくしはもとより宮様がお帰りになるまで起きているつもりでしたから、どうぞお気になさらないで」
「そうですか」
 としか言えない。昌浩がこっそり溜息をついていると、偶然だろうが式部も御簾を隔てて溜息をついた。
「それに、お話ししておきたいこともありましたから」
「………何でしょうか?」
 まさか、いきなり歌を詠みかけられたりはしないよなと、昌浩は見当違いの心配をした。
「宮様の手前では何も申しあげられませんでしたけれど、わたくしを呪詛する心当たりについてです」
 彼女は再び溜息をついた。
「安倍のお若き陰陽師殿も、わたくしに対する風評をご存じでしょう」
 昌浩は返答に(きゅう)した。
 先刻聞いたばかりでまだ記憶に新しいが、だからといって、はい知っていますとは言えない。
 その反応で答えを悟ったらしく、式部はひっそり笑った。
「お聞き及びの通り、わたくしの身分をわきまえない振る舞いに宮様の北の方はお怒りになって、ここを出て行かれてしまいました」
「………それで、式部殿を恨んでの呪詛だと?」
「賀茂祭はご覧になって?」
 唐突に問われ昌浩は面食らったが、すぐにあの牛車を思いだして何とも言えない顔になる。
 灯籠(とうろう)に明かりが入っているせいで、向こうからこちらは見えるらしい。昌浩の表情に式部が苦笑した。
「北の方はあれでお怒りになったのでしょう。宮様もわたくしも、少しおふざけが過ぎました」
「少しか?」
 呆れた物の怪の呟きに内心激しくうなずきながらも、昌浩は曖昧(あいまい)に笑ってごまかした。
「お話はわかりました。今宵、呪詛を行っている術者を突きとめます。その者に問いただせば、式部殿を呪詛している者の素性もはっきりとわかるでしょう」
「わからなくてもいいのです」
「はっ?」
 昌浩は呆気にとられ、灯火に艶々と光る御簾の表面を眺めた。奥にいる相手がどんな表情をしているのか、こちらからはわからない。
「わからなくても困りません。よそさまからの恨みなんて、いまに始まったことでもありませんもの………。呪詛さえどうにかしていただければ………宮様にさえ、危害がおよばなければ、わたくしは」
 どこかうつろな響きの声に、昌浩と物の怪は思わず顔を見合わせる。
「ではなぜ、私に北の方の話を?」
「あら、それとこれとは話が別です」
 打って変わって今度は不思議そうな声がする。
「最初に安倍のお若き陰陽師殿が仰ったのですよ。呪詛の相手がわかっているのといないのとでは、とれる対応の幅が違うと。そうは仰っても、まさか宮様ご自身の口からご自分の北の方だと思うとはお話にはなれないでしょう。だから、わたくしから申しあげたのです」
「あ、ああ。はい。そうでした」
 たしかにそう言ったのは自分だ。
 ばつが悪く、昌浩は咳払いをしてごまかした。くすくすと御簾内から笑いがこぼれる。
 すっかり相手の呼吸に巻きこまれている昌浩に、物の怪はなかば同情のこもった視線をおくった。いままで昌浩の身近にこんな妙な反応をかえす女人はいなかったので、調子が狂いっぱなしなのだろう。
「そういえば、お聞きしてもいいかしら。安倍のお若き陰陽師殿は、おいくつなの?」
「そのやたらと長い呼び方をやめていただけませんか」
 先日から言おう言おうと思っていた昌浩が憮然として質問をさえぎると、御簾向こうの相手は少し黙りこんだ。
「では。えっと………略して、お孫殿?」
「略せてないです」
 思わず昌浩は間髪を入れずに突っこんだ。物の怪が脱力して簀子に突っ伏している。
「まあ、では何てお呼びしたらよろしいのかしら」
「普通に安倍なり学生(がくしょう)なり、お好きに呼んでください」
「では、お孫殿でもよろしい?」
「………できれば、それは無しでお願いします」
 できれば無しで。なるたけ無しで。可能な限り無い方向で。
 昌浩の切実な祈りが届いたのか、式部がまた少し黙りこんだ。
 やがて香の薫りとともに、ふわりと声が漂う。
「―――では、ただ陰陽師、と」
「陰陽師………ですか」
 昌浩は少々面食らった。
 陰陽の技を使う者を大雑把ひっくるめて陰陽師と呼ぶことはあるが、正式な陰陽師というのは寮で陰陽師の官に就いている者だけを指す。昌浩の場合、有名な家の出ということもあって安倍殿と姓で呼ばれることが多く、いままであらたまって陰陽師と呼ばれたことは少ない。
「貴船の神様が、安倍の若き陰陽師がわたくしの(うれ)いを祓うだろうと仰せられましたもの。ですから、学生殿ではなくて、陰陽師殿です。―――わたくしを助けてくださる陰陽師」
 やんわりとした口調だがはっきり告げられ、昌浩はやや気押されながらうなずいた
「では、そのように」
「それで、陰陽師殿はおいくつなの?」
 あっさり話を戻されて、昌浩は小さく肩を落とした。無言で物の怪が膝のあたりを尾でぽんぽんと叩いてくる。調子が狂うことこのうえない。
「………十八ですが」
「あらまあ、お若い」
 はあ、そうですか。で、それが何でしょうか。
 呪詛と対峙する前にすでに疲労感をおぼえてきた昌浩は、なかばあきらめて式部の会話に付き合うことにした。
「なら、とても嫌でしょうね」
「は?」
「お若い方には………わたくしと宮様の関係はとても嫌なものでしょうね」
 何の含みもなく淡々と言われ、昌浩は驚いて顔をあげた。
「宮様のご身分ともあろう方が、わたくしのような身分の、しかも良い噂のない女に本気になられてしまって、お邸の北の対に迎えられて………。本当に、ひどい醜聞」
 どこか他人事のような口調だった。
 北の対に迎え入れるのは、正妻待遇として扱うことを意味する。しかし式部の身分では、どう足掻いても妻の一人としての待遇は受けられない。現に彼女は()を着け、女房として親王に仕えている。
「何と言われても仕方ありません。宮様も私も、胸に穴があいているのですもの。噂の風も穴を通り抜けていくだけ。埋めようと思っても埋まらない」
「………穴?」
「ええ、穴です。私も宮様も穴を埋めたくてお互い一緒になったのです。宮様は仲の良かった兄宮様のよすがをわたくしに、わたくしも亡き弾正宮(だんじょうのみや)様の面影を弟の宮様に………。今となっては、それだけではありませんけれど」
 最初は(たわむ)れ。それから互いに本気に。踏みとどまろうとしてかなわず、深みにはまった。人の寝静まった深更(しんこう)に同じ月を孤独に眺めていたと知ったとき、共鳴りする心に胸を震わせ(かな)しさを覚え、そして互いの欠落に気づいた………。
 宮様はとてもさびしい御方、と式部はささやいた。
 それは、ぞくりとするほど艶麗(えんれい)な響きを帯びて昌浩の耳に届く。
 返す言葉に困り、昌浩は黙りこんだ。
 穴が埋まらないと言われても理解できない。本当にわからない。昌浩の内側に穴と呼べるような欠落感はないし、それを満たすために彰子が欲しいとは思わない。
 だから、かろうじて理解できたことは、御簾の向こうにいる人は帥宮のことが本当に好きなのだろうなという、他愛もない核心の部分だけだ。
 自嘲(じちょう)するように紡がれる言葉の端々ににじむ甘やかさが、いささか鈍い昌浩にもそのことを気づかせた。
 ………この人、周りのことを一応は気にするけど、最終的には自分と相手以外どうでもいいんだろうな。
 何となくそういうことがわかってしまい、昌浩は思わず苦笑した。それについてはおそらく自分も他人のことをどうこうは言えない。
 ああ、なんだ。そういうことか。
 理解すると、すとんと肩の力が抜けた。自分には不向きな依頼だとばかり考えて、苦手意識だけが先に立っていたが、根は同じなのだ。
 この人と自分は、胸の奥で大切にしている「何か」がきっとよく似ている。
「たしかに仰るように、私にはあまり良いこととは思えませんし、お二方のお心もよくわかりませんが………」
 自分でも思った以上に、やわらかい声が出た。
 物の怪が少し驚いたように首を傾けて昌浩を見やる。
「式部殿がこうなったことを後悔していないということは、わかりました」
 小さく息を呑む気配がした。
 長くゆるやかな沈黙が降り、そろそろと扇がたたまれる音がする。射抜くような強い視線が昌浩へと向けられた。
「ええ、少しも悔やんでおりません。どんな噂を立てられようと、呪詛されるほど恨まれようと、わたくしは宮様のお側にいたいのです」
 ふわふわと漂うような口調で話す相手だが、いまははっきりと強い芯が感じられた。挑発すら感じられるようなびりびりとした響きがある。
 御簾からこぼれでる婉然(えんぜん)とした微笑の気配。
「………わたくしも随分いい加減な女ですけれど。いまは宮様のためだけに咲く花ですから」
 咲くを誇り、散るをいとわぬ大輪の花だ。
 どれだけ周囲をふりまわして傷つけ、迷惑をかけたとしても。周囲の思惑に惑わされ、傷つけられ、敵意を向けられたとしても。なりふりかまわず、この想いだけは貫くと。
 呪詛の気配は、いまだ無い。
「陰陽師殿が、人の心もお読みになるとは知りませんでした。まるで貴船の神様のよう。かの神様も、悩んでいたわたくしに歌を返して慰めてくださいました」
 その言葉で思いだす。そうだこの人、たしか呪詛をしにはるばる貴船まで。
 ………本当に、こんなおっとりした風情でいったい誰を呪いに貴船まで行ったのだろうか。
「あの………。つかぬことをお尋ねしますが、貴船には何の御用で………?」
「ふふ、秘密です」
 おそるおそる尋ねた昌浩に、式部はにっこり笑って答えなかった。



 ―――ふっと琴線に触れた禍々しい気配に、昌浩はすばやく膝立ちになった。
 突然の動きに、御簾越しの相手が息を呑む。そちらを見ることなく昌浩は告げた。
「お静かに。声を出さずに」
 人差し指と中指の間には、蝶の形に切られた紙片。
 時刻は、亥の刻の終わりあたりか。
 口のなかで小さく呪を唱えながら、昌浩は形代を置いた庭先を見つめた。物の怪が臨戦態勢をとり、六合の神気がわずかに強まる。
 生暖かい風が吹き、直衣の(たもと)をはためかせ、御簾を揺らした。
 唐突に湧いた黒い(もや)が、すっと立ちあがり男の姿をとる。烏帽子に直衣。血塗れの死相を浮かべていることを除けば、これといって目立つところのない公達である。
 だが、まとう気はひどく禍々しい。
「………式部殿。念のために、あの顔にお心当たりは」
「いくらわたくしでも、あのように趣味の悪い知り合いはおりません」
 恐怖に声を細らせながらも機知のあるしっかりとした返答に、昌浩は少し笑った。
「わかりました」
 男の形をとった呪詛の念は、形代のもとに降り立つとにたりと(わら)った。
 こちらにおられたか、和泉殿ォ………。
 生暖かい風にのり、声がからみつくように昌浩たちのもとへ届く。背後で式部が悲鳴を押し殺した。
「………奥へ下がっていてください。こちらにいて、万が一気づかれると困ります」
 無言で衣擦(きぬず)れの音がした。おとなしく気配が遠ざかっていくのを感じ、昌浩はほっと息をつく。これでここに残ると言われたら、どうしていいかわからないところだった。自分の名前が書かれた形代に呪詛があれこれしている様子は、あまり見たいものではないだろう。とはいえ、この人物は何を言いだすか予測がつかないところがあった。彰子ほど肝が据わっているわけではなさそうだが、何せ夜の貴船で歌を詠んだ強者(つわもの)である。
 やはり脅すのが目的なのか、呪詛が形代に明確な危害を加えてくることはない。形代に向かって陰鬱(いんうつ)な恨み言をささやき、手を伸ばして迫ってくるだけである。―――それでも相当不快であることに変わりはないだろうが。
 昌浩は目を細め、手のひらに紙片をのせた。
 呪を唱えながら唇でふっと息を吹きかけると、夜目にも白いかりそめの蝶が、ひらひらと手元から飛び立っていく。蝶はそのまま男にまつわりついた。
 約一刻後、呪詛が形を失い帰っていくのとともに、昌浩が放った式もその後を追って闇にひらひらと消えていく。
「よし。もっくん、六合、行こう」
「おうよ」
 昌浩は立ちあがると御簾の奥をうかがい、声をかける。
「すいません。今宵はこれで失礼致します。呪詛を行っている術者を突きとめてまいりますので」
「どうかお気をつけて、陰陽師殿」
 思いがけずしっかりした応えが返り、昌浩は目をみはってうなずいた。
 陰陽師殿、と呼ばれていると、自分が祖父に近づけているようで少しだけ嬉しい。
 気をひきしめ、昌浩は闇に目をこらす。
「もっくん、さっさと終わらせて帰ろう。彰子が待ってる」
 ―――昌浩はすばらしい陰陽師になるわ。
 彼のことを陰陽師と呼んで一人前に扱ってくれたのは、傍らの物の怪をのぞけば彼女が初めてだった。
 その笑顔を、声を。
 思いだして、心が決まる。
 ひそやかに咲き、誰に知られることなく散っていくだろう藤の花は、すでに傍らで蕾をほころばせていた。