「帥宮?」
末弟の口から出てきた名前に、成親は軽く眉を動かした。
先年、彼は権助に昇進した。陰陽助を補佐する役職である。最初は歴博士と兼任でと持ちかけられ、笑顔で嫌だと言ったらこうなった。主計寮に異動した伯父から誘われもしたが、計算にまみれるのはもう充分なので、とこれも断った。伯父は苦笑していたようだ。
地位はあがったので責任は増えたが、歴博士だった時の多忙さからは解放され、おかげで家族にかまう時間が増えて非常に助かっている。こうして弟の相談にものってやれる。できれば呪詛返しの相談ではなく、藤の花に関する相談だともっと楽し………いや、嬉しいのだが。
円座に座った弟の脇には、物の怪が常のごとく白い体躯をちんまりと控えさせていた。その背後には神将の気配。彼らが末弟と行動をともにしているのにも、すっかり慣れてしまった。祖父から神将全員を引き継ぐのもそう遠いことではあるまい。
成親は筆を置き、顎に手をあてた。
「何を知りたいんだ? 俺もそう詳しくはないぞ」
「昨日じい様から、だいたいの経歴とかは聞いたんですけど、今現在の交友関係とか噂については参議殿のところに婿に入った兄上のほうが詳しいだろうって」
素直にそう述べる昌浩を見て、成親は思った。
逃げたな、おじい様。
退出間際に昌浩から持ちかけられた相談は、帥宮敦道親王と大江雅致の娘である和泉式部という女人について、何か知らないかということだった。
たしかに知らないわけではないのだが、何と言ったらいいものやら。
どうしたものかと思案しつつ、成親は口を開いた。
「おじい様からお聞きしたと思うが、宮様方ってのはお就きになる官職がだいたい決まっている」
昌浩もうなずいた。
どれも権威はあるが実権のない職ばかりだ。国司として任じられる国も決まっているし、もらう位も自分たち臣下とは別に定められているため、位や官職欲しさに貴族と張り合って足掻くということは少ない。ゆえに、そういった点から恨みをかうということは滅多にない。
帝の皇子というのは、有り体に言えば東宮候補だ。
彼ら自身が政争の駒としての役割を負うが、帥宮に限っていえば、彼が呪詛されるほどの立場にいるとも思えない。たしかに、亡き皇后定子の生んだ敦康親王や、現東宮の皇子たちと並んで、次の東宮位を狙えるやもしれないが、中宮である彰子―――章子が皇子を生んでしまえば、それまでである。
「はい、それは聞きました。お立場をねたんでの呪詛ではないだろうと、じい様も」
「なら、女性関係だろう」
あっさり言った長兄に、昌浩はがっくりと肩を落とした。
「兄上………」
「いや、だってそれ以外にないだろう。宮様方ってのは閑職にお就きだから、たいがい暇なんだよ。上つ方が暇だと、そういうことか、仏道に励むぐらいしかやることがないからなぁ」
《両極端だな………》
六合がぽつりと感想を述べるが、昌浩もまったく同感だった。
「実際、お前が帥宮様と和泉式部殿から依頼を受けたなら、そういうことだろう」
「だから、何がそういうことなのかわからないから兄上に聞いてるんですが」
昌浩は困惑してそう返した。
帥宮についてはだいたいわかったのだが、呪詛されている当の人物のほうは謎のままだった。
貴船の神と縁を結んでいるということぐらいしかわからない。晴明も首を傾げていた。ここ一、二年、晴明は左大臣の用向きさえも昌浩にまかせることが多く、滅多に出歩かなくなったので、最近の人事をよく知らない。まして女人ともなると、公的な立場もないので素性もよくわからないのだ。結局、昨日は大江という姓なら学者の家系だろうということぐらいしかわからなかった。
昌浩がそう言うと、成親は苦笑した。
「案の定というか、やっぱりお前、知らんのか」
「は?」
昌浩が目をしばたたくと、成親は困った風情でこめかみをかいた。
左右を見回し、声を落とす。
「帥宮様はすでに結婚していらっしゃる」
「ええと………式部殿と、じゃないですよね」
そういえば式部は裳をまとっていた。主に仕える女房の格好だ。大江氏なら中流貴族だから、宮家へ女房として出仕していてもおかしな話ではないが、そのわりには、帥宮への態度はどう考えても恋人に対するもので………。
だんだんどういう話なのかが読めてきて、昌浩はげんなりした。
「式部殿は俺もよくは知らないが、たしか………木工頭殿の娘じゃなかったか? もともと歌人として名は知られていたんだがな。左大臣様の側近である和泉守殿と結婚したものの、帥宮様の兄である弾正宮様と恋仲になって守殿と別れ、実家からも勘当されたと聞いている」
「貴族の好きそうな話だな………」
物の怪が呆れて言うと、成親は大きくうなずいた。
「だから宮廷雀どもの大きな噂になったんだ。中流貴族の娘が、恋人の親王が亡くなって一年経たないうちにその弟のほうとも恋仲になったからな。おまけに式部殿を溺愛した帥宮様が彼女を自邸に迎えたせいで、正妻の北の方は怒って邸を出ていったらしい。北の方は東宮妃の妹にあたるため、妹の面子を潰された東宮妃もお怒りだとか何とか」
「うわぁ………」
昌浩は頭を抱えてしまった。
想像以上に話が大きいうえに、これでもかというぐらいに泥沼である。
物の怪が真紅の瞳をすがめた。
「何だか話を聞いているうちに、呪っているのはその北の方だという気がものすごくしてきたんだが」
「大きな声では言えないが、その可能性は高いな」
賛同した成親と目を合わせ、昌浩も小さくうなずいた。
呪詛は和泉式部が狙いで、帥宮はそのついでだ。帥宮にも見えるが、男がやって来るのは彼女のところというのが、それを示している。貴船の神だって、呪われているのが帥宮だったとしたら、昌浩に何とかしろとは言ってこないはずだ。
しかし、どう考えても自分向きの話ではない。何だって貴船の神はこんな話を自分にまわしてきたのだ。………言われなくとも理由はわかっている。便利に使える人間の心当たりが自分だったのだろう。わかっている、ああわかっているとも。くそう、これは八つ当たりだ。
「とりあえず、術者を突きとめて、依頼した相手をたしかめて、それから何とかしなくちゃ。呪詛をそのまま返すとまずそうだなあ………」
昌浩は顔をしかめて呟いた。
さすがにないとは思うが、うっかり東宮妃あたりまで呪詛返しで寝こまれたら洒落にならない。
ぶつぶつとこれからの手順を確認している昌浩を眺め、物の怪ははたと気がついた。
「おい、成親。その北の方とやらが実家に帰ったというのはいつ頃の話だ」
「噂になったのが今年の二月頃だったからなあ。一月ぐらいじゃないか?」
「四ヶ月も前に実家に帰ったのに、いまさら呪うのか?」
「ああ、それはあれだろう。このあいだの賀茂祭で思い切り目立ってたからだろう」
いともあっさりと返ってきた答えに、昌浩と物の怪は揃って再度頭を抱えてしまった。
「アレか………」
「なるほど………」
たしかにああいうことをされれば、怒りは再沸騰だろう。東宮妃が出るほどの家柄の姫となれば、気位も人一倍高いに違いない。
何だか、聞けば聞くほど帥宮と和泉式部の自業自得という気がしてならない。もちろん呪詛という行為自体は言語道断なのだが、「呪ってやる!」と思わせてしまうような態度をとるのもいかがなものか。そういえばうっかり忘れかけていたが、かの神と縁を結んだきっかけは和泉式部が貴船まで丑の刻参りをしに来たからである。………いったい誰を呪う気だったのだろうか?
しかし、いくら自業自得だろうと何だろうと、可及的速やかに二人を呪詛から解放しなければならない。和泉式部は貴船の神の加護を得ている。その神からの依頼である。彼女がどんな人物かというのはこの際関係ない。神という存在は公平ではないのだ。
昌浩は大きく深呼吸をすると、あらたまって兄に一礼した。
「ありがとうございます。とても助かりました。………できれば、このことは他言無用で」
「ああ、わかっている。いつでも相談にのってやるから、どうせなら別の件で来てくれ。そのほうがこちらとしても楽しい」
「はい、ありがとうございま………別件?」
「ま、色々とな」
眉をひそめた末弟を涼しい顔ではぐらかし、長兄はひらひらと手をふった。
怪訝な顔をしながらも昌浩は立ちあがり、一礼してから廊に出た。
物の怪も後に続こうとしたが、いくらもしないうちに廊から昌浩と敏次の声が聞こえてきたため、引き返して成親の前に再び腰を下ろした。無言で六合が、昌浩のもとへと向かう。
成親が不思議そうな顔をした。
「どうしたんだ?」
「その別件とやらだがな。近々、晴明が官をもらうそうだ」
成親は軽く目をみはったが、すぐに相好を崩した。
「ははあ、なるほど。父上の次はおじい様か。さすがに左大臣様もそろそろだな。外堀を埋めてた甲斐があったというものだ」
「二年ほど前から何もやってないだろうが、お前」
「それはわざとだ」
成親はそう言いながら筆を持ちなおし、仕事を再開した。そのまま、のんびりとした口調で続ける。
「あの後、色々と弔事が続いただろう? 祝い事というのは喪があけてからでないとどうにもならんし、女院が亡くなられて気落ちしておられる左大臣様の機嫌を損ねたくなかったんだよな。俺としては、気長に中宮の慶事を待つつもりでいたんだ」
思ってもみなかった言葉に、物の怪は驚いた。
たしかに、彰子が昌浩の許婚だと言われはじめた少し後ぐらいから、左大臣の周りでは弔事が相次いだ。なかでも、実姉であり天皇の生母でもある東三条院の死が大きかった。道長を現在の地位まで引き立ててくれた恩人でもあり、兄弟姉妹のなかで最も仲が良かっただけに、彼は深く悲しんだという。
祝い事というのは喪中を避けるから、成親がそう言うのもわかるが―――
「中宮の慶事だと?」
物の怪の疑問に、成親は苦笑した。
「これは俺の気のまわしすぎなんだがな。餅を食べたら普通その後は、遅かれ早かれ別の祝いだろう? 人ってのは理不尽な生き物だからなぁ。あちらになくて、こちらにあったら………悔やむだろう」
ここが大内裏ということもあり極力言葉を選んで言われた内容に、物の怪は瞠目した。
三日夜餅を食べる―――つまり、結婚したら、その後には当然ながら、遅かれ早かれ別の祝い事が控えている。
いまだ中宮にその気配はない。人智でどうにかなることではないが、左大臣がじりじりしながらその時を待っているのは周知の事実だ。
………もしそこに、本来ならば入内するはずだった娘のほうにその気配があって、しかもそれが男児だったとしたら。
すべて仮定の話だ。だが、左大臣はこう思ってしまうだろう。―――なぜ、この娘が入内することがかなわなかったのか。なぜ、こうなることを防ぎきれなかったのか。安倍晴明は、安倍昌浩は、どうして娘を守りきってくれなかったのだ―――
成親はなぜ彼女の入内がかなわなくなり、安倍邸に居候することになったのか詳しいことは知らない。だがその一件に、祖父と末弟が関わっているのは間違いないだろうし、入内がかなわなくなるほどの瑕をその身に負うたからこそ、あそこにいるのだろう。
いまとなってはもうどうしようもないことだ。だが、それでもそう思ってしまうのが人というものだ。
祖父と末弟はもちろん、藤の花と現中宮のためにも、そうなることは避けたかった。
だから成親は女院の薨去とともに口をつぐんだのだ。いまはまだ、時機ではないと。
「―――まあでも、左大臣様もこちらに目を向ける余裕が出てきたんだろうな。俺のほうとしても、そろそろ何とか形にしないと時機を逃すと思っていたところだったから、向こうがその気になったんなら言うことはない。めでたいめでたい」
物の怪はほとほと呆れた風情で成親を見つめた。まさか、ここまでこの長兄が気をまわしていたとは知らなかった。彼なりに末弟の将来を真剣に心配していたらしい。
「………とんだ深謀遠慮だな」
「伊達に参議の娘婿はやってないからな」
闊達に笑って、成親はふと首をひねった。
「ところで、その当事者たちのほうはどうなんだ?」
「あー………」
思わず遠い目になってしまう物の怪だった。あれを進んでいると言ってしまっていいものかどうか。
あさっての方向を向いてしまった物の怪の様子から何となく察してしまい、成親はこめかみをかいた。
「先輩の敏次殿も結婚したというのになあ………」
―――敏次殿、それは誤解ですっっ!
ちょうどその敏次と話しているはずの昌浩の大声が廊から聞こえ、二人は顔を見合わせた。
「何事だ?」
「わからん」
物の怪は立ちあがり、ふいっと身をひるがえした。真紅の瞳が、成親を一瞥する。
「………たぶん今年か来年、だろうな」
そうか、と顔をほころばせ、成親は物の怪の背を見送った。
廊に出た昌浩は、先輩である藤原敏次と行き会い、笑顔で軽く会釈した。
先年、彼は陰陽生から陰陽得業生となっており、それを契機にとある貴族の姫と三日夜餅を食べた。縁談は行成の勧めによるもので、自ら見初めてどうこうというわけではなかったらしいのだが、夫婦仲は円満なようだ。
婚儀の前日、真剣な顔で後朝の歌をどう詠めばいいのか相談にのってほしいと言われたときは、本気で慌てたものである。許婚がいるから自分よりは一日の長があるだろうと見込まれたらしいのだが、とんだ誤解もいいところだった。いまとなっては笑い話である。
昌浩は会釈してそのまま通り過ぎようとしたのだが、自分を見つめる敏次の表情に気づき、立ち止まった。
何だか、以前に歌の相談をしてきたときのような真剣な顔をしている。
「………敏次殿?」
「昌浩殿、非礼は承知なのだが………」
歯切れの悪い口調とともに、敏次は周囲に視線をはしらせた。
退出間際でほとんどの勤務は終わっていることもあり、廊に人影はいない。背後から昌浩に続いて廊に出てきた六合の気配がする。何だかやたら静かだと思ったら、物の怪がいないのだ。兄と話をしているのだろう。
「敏次殿、どうしたんですか?」
「ああ、いや。私は塗籠からの帰りで、さっきもここを通ったのだが―――」
昌浩は首を傾げた。兄と話しはじめた時、後ろの廊を数人行き交っていたが、そのなかに敏次もいたということだろう。だがそれがどうしたのいうのだ。
敏次は険しい顔をしたまま、昌浩に問うた。
「盗み聞きの非礼はいくらでも責めてくれてかまわない。私の聞き違いでなければ………和泉式部殿の名が聞こえたのだが」
「あ、はい」
あっさりと昌浩はうなずいた。
「どんな方なのか少し知りたかったものですから」
聞こえてしまったものは仕方がない。他言無用とは言われたが、呪詛返しを頼まれたとさえ口にしなければいいだろう。忌み月だから祓えを頼まれたとでも言い訳すればいい。敏次は口が固いし、吹聴される危険性もない。
平然とした昌浩の様子に、敏次はますます眉間の皺を深くしただけだった。
「………まさかとは思うが、和泉式部殿のところに通うつもりなのか?」
「はあ………、何日かはそうなると思いますが」
質問の意図がわからず、昌浩は首をひねった。
まさかも何も、呪詛を返さなければいけないので、必然的にあと一日、二日は南院へ行かなければならいのは確かだろう。敏次は何を聞きたいのだろうか。まさか真面目な彼が、下世話な噂話の真相を知りたいと言いだすはずがないだろうし。
《昌浩、その返答では………》
背後から六合の声がした。
何やら困惑した様子だったが、寡黙な神将が何を言いたいのか全部聞きとる前に、昌浩は怒りで顔を真っ赤にした敏次に詰め寄られて、ひっくり返りそうになった。
「見損なったぞ昌浩殿!」
「はっ !?」
怒鳴られて昌浩は唖然とする。
いったい何事かと呆気にとられている彼の前で、敏次はいまにも直衣の頸上あたりをひっつかみそうな勢いで憤激している。
「君は、許婚の姫を邸に迎えておきながら婚儀もせず、いまさら和泉殿のところに通おうというのかね !?」
「…………は?」
何を言われているのか、まったくわからなかった。
「それは許婚殿に対して非道な仕打ちだろう! 何年も前に邸に迎えておきながら、私よりも婚儀が遅いのでいぶかしんでいたのだが、よりにもよってあの和泉殿のところに………!」
唖然として訳もわからず敏次を見つめていた昌浩だったが、段々と事の次第が飲みこめてくるにしたがって、今度は真っ青になった。
「と、敏次殿、それは誤解ですっっ!」
「何が誤解なのだね! 言い訳とは見苦しい。君はいま、通っているとはっきり私に言っただろう !?」
「そういう意味ではありません!」
「ではどういう意味なのかね!」
怒っている敏次と、真っ青になって否定する昌浩。
しばらく無言でそのやりとりと眺めていた六合は、足下にやって来た物の怪に視線を落とした。
「何の騒ぎだ?」
《………口は災いの元という話だ》
「はあ?」
物の怪はまばたきして問い返したが、六合は黙して答えなかった。
先輩を立てる昌浩にしてはめずらしく、敏次に対して必死で食い下がっている様子を眺め、会話の端々から何となく事態を察した物の怪は、沈黙して腕を組んでいる六合を見あげ、ふと問いかけた。
「六合よ、何かお前、呆れてないか?」
《…………》
賢明にも六合は沈黙を守って答えなかった。
結局、昌浩は他言無用といわれたにもかかわらず、祖父と長兄に次いで、敏次にまで呪詛の話をするはめになった。