君がためにと ()る花は 〈六〉

 ………あのとき、憶えておけばよかったのかもしれない。
 だが、憶えていたところでどうにかなったとも思えないあたりが悲しい。何せ神直々の頼みなので拒否権がない。
 関わり合いにならないに越したことはないという物の怪の言に、大きくうなずいてしまったいつかの自分をかえりみて、思わず遠くを見てしまう昌浩だった。
 まさか、賀茂祭からひと月も経たないうちにこういうことになろうとは、誰が思おうか。
「―――安倍殿?」
 呼びかけられ、昌浩は慌てて平静を装った。
「失礼致しました。呪詛の気配を探っておりましたので」
「おお、このように座しているだけでわかるのか。さすが晴明殿のお孫殿」
 お孫殿、と久々に呼ばれ、昌浩のこめかみが一瞬ひきつったが、黙って一礼する。
 敦道親王と和泉式部の頼みは、呪詛らしきものを受けているので何とかしてくれないかというものだった。
 呪詛らしきも何も、昨夜貴船の神から話を聞いた限りでは紛うことなく呪詛なのだが、陰陽師でない以上断定は避けるべきだろう。正しい判断ではある。
 聞けば、七日ほど前から夜な夜な彼女のもとに血塗れの男がやって来るのだという。
 最初は、ふと気づくと御簾の向こう、夜の庭に立っていた。翌日もやはり立っていたが、前日より少し邸のほうへと近づいていた。その翌日も、やはり距離を詰めてきた。
 一人で居ても、敦道親王と二人で居ても、その男はやって来る。奇妙なことに、二人にしかその男の姿は見えない。女房や警護の者を傍において宿直(とのい)させても、その者たちは男に気づくことなく、怯える二人を見て奇妙な顔をする。
 たまりかねて、親王は民間の陰陽師を召しだした。昌浩を呼びだす三日ほど前のことである。
 召しだされた陰陽師はもっともらしく祈祷をし、邸内にあちこち禁厭(まじない)をほどこし、これでだいじょうぶだと自信たっぷりに請け合ったので、報酬を与えて帰したのだが、だいじょうぶどころか事態はますます悪化した。その夜、血塗れの男は一足飛びに簀子までやって来たのである。
 式部は体調を崩して寝こんでしまい、親王は怒り狂ってその陰陽師のところに人をやったのだが、すでにもぬけの殻だった。
 親王は言葉を濁していたが、どうやら式部は家人たちと折り合いが悪いらしく、男が二人にしか見えないこともあり、家人たちはこの騒ぎを彼女の狂言に親王がだまされていると思っているらしい。人間、怖がれば枯芒も化け物に見える。
 困り果てていたところに式部が夢で貴船の神からお告げを受け、いまここに昌浩がいるというわけである。
「今宵もまた男がやって来るだろう。安倍殿、早々に何とかしてくれぬか」
「承知致しました。………失礼ながら、非礼を承知でお二方にお訪ねしたいのですが、このような恨みを受けるお心当たりはおありでしょうか」
 心当たりがあるのとないのとでは、こちらがとれる対応の幅が違ってくることを説明したが、帥宮は首を横にふり、式部は几帳の影で黙りこんでしまう。
(………どうも怪しいな)
 物の怪の呟きに内心うなずきながらも、仕方なく昌浩は今晩は形代で呪詛をしのぐことにした。貴船のあたりからさっさと解決しろと無言の圧力が飛んできそうだが、呪詛を行っている相手が誰かも調べずに、いきなり呪詛を返してしまうことはできない。今回のように、裏がありそうな場合は特にだ。
 結界を施すために邸内と周囲の庭を歩きまわる許可を得て、昌浩はひとまず庭に降りた。
「まさか冷泉院の庭を歩く日が来るとは思わなかったなあ」
 さくさくと白砂を踏みながら、なかば溜息混じりにひとりごちる。
 東三条殿も相当なものだったが、あそこの倍の大きさである。ここにある池と比べたら、安倍邸の池は水たまりのようなものだ。はるか西側には何やら倉の建ち並ぶ一画もあり、すべてが桁違いである。
 簡易な結界も兼ねて南院をぐるりとひとまわりし、昌浩は困惑した。
「………何か、ものすごく守りが粗雑なんだけど」
「広すぎるのも問題だな。ここは何度も建てなおしされてるから、そのせいもあるんだろう」
 院の御所だから何もされていないはずはないのだが、敷地の広さに加えて再建する度に術を施しなおしているせいなのか、殿舎によって結界の強度がばらばらだった。特に別邸となる南院は丸裸に等しい。
 眉間に皺を寄せ、物の怪が南院の殿舎を見上げる。
「にしても、弱すぎるな。お前の前に来た陰陽師って、呪詛を依頼された術者当人じゃないか?」
「もっくんもそう思う?」
「いきなり男が距離を縮めてきたというのが解せないしな。ああいう呪詛は普通形式を踏むだろ。いつぞやの彰子のときもそうだったし」
「………ああ」
 出逢ったばかりのころの貴船での一件を思いだし、昌浩は目を細めた。
 本当にずいぶん昔のことのようだ。あのころの彰子はまだ裳着もすませていない女の子だった。童結いにした髪がとても可愛くて、あどけなくて。目の輝きはいまと少しも変わっていないけれど。
「…………」
 昨日のことを思いだし、昌浩は思わず立ち止まっていた。
 退出してそのままこちらに来たため、今日はまだ彰子と顔を合わせていない。朝餉の席で、必要最小限の会話を交わしただけだ。
 昨夜の態度は自分でもよくないと思う。きちんと謝らないといけない。昨夜の自分はあれで精一杯だったとしても、あれは待っていてくれた彼女に対してひどい接しかただ。
 ―――でも謝ったあとで、どうすればいいのだろう。普段通りにできる自信がない。半分以上は貴船の祭神のせいだが、そればかりとは言い切れないものが昌浩のうちにある。
 播磨から帰ってきて見た彼女は本当に綺麗で。
 ほんの半月ほど前の賀茂祭で手をつないで歩いたことを思いだすと、今更ながらに赤面したくなる。あのときは二人とも当たり前のように平然としていたのに。
「どうした、昌浩よ」
 わかっているのかいないのか、物の怪が肩に跳びのって顔をのぞきこんでくる。
 昌浩はちらりと物の怪を見やり、溜息をついた。
「何でもない。さっさと見て回って、今日のところは帰ろうか。呪詛している相手のことも調べなくちゃいけないし」
「彰子も待っているだろうしな」
 聞き慣れたその言葉がいつもと違って聞こえ、昌浩は再び小さく溜息をついた。
 ………許婚か。
 対外的には一言で済ませられる二人の関係が、色々複雑すぎるのは間違いなかった。



「おかえりなさい、昌浩」
「ただいま」
 普段より帰宅の遅くなってしまった昌浩を、いつも通り彰子が出迎える。
 昌浩が衣をあらためるのを手伝い、脱いだ直衣を丁寧にたたむ。いつも通りのやりとりに、いつも通りの光景だ。互いの視線が合いそうで合わないことを除けば。
 狩衣に着替え人心地ついた昌浩は、意を決して彰子に話しかけた。これしきで意を決するなよと物の怪は呆れるものの、口ははさまずにそろりと簀子のほうへ移動する。
「彰子、昨日はごめん」
 たたんだ直衣を几帳にかけようとしていた彰子の手が止まり、こちらを向く。昌浩を見るその双眸がわずかに揺れた。
 それがまるで泣いているかのようで、昌浩は袖のなかで知らず拳を握りしめる。
「せっかく彰子が俺のこと待っててくれたのに、ああいう言い方してごめん」
 必死に言い募るが、こんな言い方では足りないと思った。まるで言葉に不慣れな子どものようで、ひどくもどかしい。
 彰子は幾度かゆるりとまばたいた後、微笑して首をふった。
「ううん、私が無理して起きていたんだもの。気にしないで」
 直衣を几帳の横木にかけると、彰子はそのまま立ちあがった。
 厨で露樹を手伝っていた最中を抜けて、昌浩を出迎えたのだろう。動きやすく結われた髪に爪先の出る切袴。単衣の上から、薄手の袿を一枚だけ重ねている。
「厨を放ってきてしまったわ。私、露樹様のお手伝いに戻らなくちゃ」
 ふわりと微笑まれ、昌浩は次の言葉がうまく出てこなくなった。
 いつもの笑顔なのにどこか違和感を覚えるのは、自分のせいか、彼女のせいか。
 手のひらをすり抜けていかれるような曖昧な感覚に、慌てて言葉を紡ぐ。
「蛍!」
「―――え?」
 妻戸のところで彰子がふりかえる。
 昌浩は自分でもどうしてこんなに焦っているのかわからなかった。
「蛍、まだもう少し先みたい。昨日、貴船の神様から直接そう教えてもらったんだ」
 彰子はしばらく昌浩を見つめていたが、やがてほのぼのと笑う。
「うん、わかったわ。今年は雨が降らないといいわね」
「そうだね」
 去年は帰りに雨に降られてしまい、車之輔に難儀をさせてしまった。というよりも、お二人が濡れてしまうと、気だての良い式神は一人でおろおろと狼狽していた。
 昌浩も彰子もその時のことを思いだして、苦笑を交わした。二人の間の絡まった糸のようなものが幾分かほどけた気がして、昌浩は少しだけ気が楽になる。
 妻戸が閉じられ彰子が去ってから、そっと息をついた。
 当たり前のように露樹の手伝いをしにいってしまったが、彼女は本当は左大臣の姫だ。いまとなっては詮無いことだが、本当ならこんなところにいるはずのない人で。
 風評への対処やら、兄の思惑やら何やらがからまった結果、彰子の表向きの素性は、安倍家の遠縁の姫で、昌浩の許婚。
 この肩書きが一人歩きしてしまってから数年が経つ。
 一時期は道長の耳に入ったらと泡を食っていたのだが、実際はどうあれ、特に何も言ってはこなかった。また、長兄もどういうわけか二年ほど前からぴたりと吹聴することをやめているので、いまでは出仕先でそう問われることもない。
 彰子の存在はすでに安倍家の空間のなかに違和感なく収まり、彼女が居ることを当然として日々の時間はゆるやかに回転していく。
 結果、昌浩と彰子の距離は何も変わらず、曖昧に居心地が良いままだった。お帰りなさいと出迎えてくれて、ただいまと言えるその日常の幸せ。
 いつまでもこのままでいられるはずがないと、わかってはいるけれど。
 あともう少し、と思ってしまう自分もいる。
 昨夜や一昨日のように、衝動的に形にならない何かが溢れてきそうになることはあるけれど、自分はまだ彼女に何も言ってないし、まだ言えない。
 蛍のようにはっきりと胸に灯っているのに、つかまえて確かめようとすると指の間をすり抜けていく感情。手が届かなくなりかけていったんは手放しかけた想いを、胸のうちから逃がすつもりは、もうないけれど。
 先に進もうとすれば自分も彼女も周囲も、色々なことを考えなければならなくなる。
 からまりあった幾つもの事情と裏事情、思惑と感情に、今の自分は足を取られてひっくり返ってしまいそうだ。
 昌浩は大きく深呼吸をすると、とりあえず思考を切り替えた。いつのまにか簀子で涼んでいる物の怪に向かって声をかける。
「もっくん、じい様のところに行こう。帥宮様について色々聞かなくちゃ」
 昌浩は今日初めて、顔と名前と官位を一致させたが、晴明はもっと詳しく為人(ひととなり)を知っているだろう。何せ四代前の天皇の頃から陰陽寮にいる化け狸だ。
 ほてほてとやって来た物の怪は、しばらく床の上からじっと昌浩を見あげた。
「………何、もっくん?」
「いや、何でもない。行くんだろ」
 しっぽを綺麗にひるがえして、物の怪は先に妻戸へと向かう。
 煮え切らないやつめという呟きは、昌浩の耳には届かなかった。