君がためにと ()る花は 〈五〉

 安倍邸に帥宮(そちのみや)の使いと名告る雑色(ぞうしき)がやって来たのは、一夜明けた翌日の昼のことだった。
 対面したのは晴明だったが、話を聞いた彼は即座に退出してきた孫へとその依頼をまわした。
 衣をあらためる暇もない。ただいま帰りましたと言いながら沓を脱ごうとしたら、廊にいつも出迎える彰子ではなく晴明が立っていたのである。これで帰宅したと言えるのだろうか。いや、言えまい。
「これはお前が頼まれたことじゃからな」
 わけがわからぬまま、昌浩は差し向けられた牛車に乗って帥宮とやらの邸へ向かった。物の怪も当然それに従い、無言で六合が後に続く。
「宮………ってことは、皇族だよね?」
「太宰府の長官職は皇族が就くのが慣例だからな。まあそうだろう」
「その宮様が、俺に何の用なんだろう? 忌み月だからお祓いでもしてほしいっていうのかな」
 首を傾げていた昌浩だが、やがて牛車の向かう先を知って仰天した。
「っ、ここって、院の御所じゃないの……… !?」
「あー、何て名前だっけか」
「もっくん何を呑気な! えっ、帥宮って人、院の御所に住んでるの? えええ?」
 一条大路から堀川小路に入り、そのまま二条大路に出ると、通りに面した南門から築地塀のなかへと入る。昌浩が慌てているあいだに、車はさっさと彼を降ろしてどこかへ行ってしまった。
 内裏の清涼殿や院の御所、東宮御所などは、それぞれ昇殿の許しがないと殿舎(でんしゃ)に上がることができない。
 哀しいかな所詮(しょせん)、八位の陰陽生である。昌浩はどの御所の昇殿勅許(しょうでんちょっきょ)ももらったことはない。土御門に宿下がりをしていた中宮のもとに伺候(しこう)したときぐらいだ。晴明はときおり臨時で勅許が下るが、あれだってかなりの特例なのである。
「………あの俺、じゃない、私は、昇殿の許しを得ておりませんが」
 案内役の女房におそるおそるそう言うと、無表情に答えが返ってくる。
「あちらの院がお住まいの本殿にお許しなく上がることはなりませんが、こちらの南院に院のお許しは不要です」
 ついてこいとばかりにきびすを返し、何やらぶつぶつと呟いている。
「でなければ、あんな女がお側にあがれるものですか」
 何のことかさっぱりわからない。あまり女房の質が良くないなと、昌浩はちょっと顔をしかめた。東三条殿や行成邸の女房たちは監督が行き届いていて、もっと上品なのに。
「もっくん、帥宮ってどんな人か知ってる?」
「いや、知らないな。だがここに住んでいるってことは、先々代の帝の息子か何かだろ。それで思いだした、ここは冷泉院(れいぜいいん)だ」
 神泉苑の東隣。四町ぶちぬきというとんでもない大きさの、帝位を退いた上皇が住まう累代(るいだい)の後院だ。道長の東三条殿ですら南北二町なのだから、どれだけ大きいかわかろうというものである。
「あれ………?」
 女房の後に続いて歩きながら、昌浩はふと眉をひそめた。
 肩に乗る物の怪に、小声で話しかける。
「もっくん、あの庭の植えこみのあたり………」
「………ああ、呪詛の気配が残ってるな。お前が呼ばれた理由じゃないか?」
 これから向かう先にも、不穏な気配が(もや)のように漂っていた。
「気をつけて立ちまわれよ」
「わかってる」
 貴族間の足の引っ張り合いに下手に巻きこまれると、こちらの社会的な立場すら危うくなることがある。昌浩は神妙な顔でうなずいた。
 先導の女房が、簀子から御簾内に向かって声をかける。
「宮様、安倍の陰陽師が参りました」
「こちらに通せ」
 御簾が巻きあげられるのを待たず、一足先に物の怪が(ひさし)の間へと入りこんだ。
 遅れて足を踏み入れた昌浩は、色鮮やかな衣の重なりが目に飛びこんできて一瞬どきりとした。宮とおぼしき直衣姿の公達の隣り、視線を遮るように置かれた几帳の奥に、女人がいる。
 出向いた先で女房以外の女人と直接相対することは滅多になかったため、昌浩は少々驚いた。
「まあ、お若い」
 こぼれるような笑い声が几帳の薄い帷子(かたびら)を揺らす。
 昌浩が面食らってそちらを見ると、夏用の薄い帷子とかざした扇の向こう側から、なおも笑いの気配がこぼれでてくる。
「安倍の陰陽師殿はとてもお若くていらっしゃるのね」
 公達がぱらりと扇を開き、その影でわざとらしく嘆息した。
「困った人だ。安倍の陰陽師を呼ぼうと言ったのはそなただろうに、そのように不真面目では」
「あら宮様、妬いてくださるのですか。ふふ」
「やれやれ。これ以上そなたのことで思いわずらうことがないよう此処に迎え入れたというのに、その甲斐もないこと」
「まあ、わたくしが宮様をお悩ませしているのですか」
「ここしばらく、そなた以外のことで悩んだ憶えはないよ」
 もしもーし?
 初っ端から反応に困るやりとりを展開され、平伏した昌浩は半眼になりつつ、傍らの物の怪の尾をそっと押さえた。
「………もっくん、気持ちはわかるけど」
「六合、いますぐこの空気を読めない馬鹿夫婦どもを外の池に放りこめっ」
《………夫婦なのか?》
 物の怪の要求に直接は応えず、六合が別のところで疑問を呈してくる。
 そう言われて、昌浩は初めて気がついた。几帳の端から()が見えている。六合がこれを見て疑問に思ったのかどうかはわからないが、通常、裳は目上の貴人に対して礼装として着けるもので、夫に対して身につけるものではない。
 二人がどういう関係なのか昌浩が把握しかねていると、几帳の影で女人がくすくす笑った。
「ふふ、宮様。安倍のお若き陰陽師殿が困っておられますよ」
「ああ、これは失礼した」
「………いえ。お気遣いなきよう」
 平常心、平常心。天一と朱雀で慣れているだろう、俺。
 念じながら昌浩は努めて平静を装った。
「お召しにより参じました。私を呼ばれましたのは、如何なる理由からでしょう」
「そのことだが、安倍殿」
 帥宮がふと顔を曇らせる。
「できれば、このことは引き受ける、引き受けないにしろ、他言無用に願いたいのだ」
「ほら来たぞ。たいていどの貴族もみんなこう言うんだ」
 物の怪が憮然とするが、昌浩は気にしなかった。
 むしろ、言いふらしても良いというほうが珍しいだろう。呪詛との言うのは、どう逆立ちしても日の当たることのない闇の存在だ。呪詛を受けるほうでさえ、己が呪詛されたことを隠したがる。
 神妙な顔で昌浩がうなずき返そうとしたとき、几帳の奥からおっとりと声がした。
「あら、宮様。安倍のお若き陰陽師殿は、必ずお引き受け下さいます」
 それは何とものんびりとした口調だが、自信に満ちあふれたものだった。
 帥宮が面白そうに微笑し、几帳を見やる。
「おやおや、今日のそなたはまるで託宣を受ける巫女のようだね」
「そうかもしれません。今朝、貴船の神様がこの式部に夢のなかでお約束下さいましたもの」
(いっ………!?)
 思わず目を剥いた昌浩の斜め前。
 几帳のほころびからわずかに顔を覗かせ、式部と名告った女人はゆったりと微笑した。
「安倍のお若き陰陽師殿が必ずやわたくしの憂いを祓ってくださると、貴船の神様は仰っいました」
 突然の展開に硬直している昌浩の背後で、六合がぼそりと呟く。
《なるほど、晴明がこちらにまわしてくるわけか》
「さすがに手がかりなしで探せ、とは向こうも言わないわけだ」
 疲れた顔で物の怪もうなずく。
 素性はわからなくとも、結んだ縁を媒介に夢などで「お告げ」を送ることはできる。―――几帳の影に座すこの女人が、貴船の神と縁を結んだ人物だ。
「申し遅れました」
 笑みを含んだ声が、昌浩に自らの素性を告げる。
「わたくしは大江雅致の娘。皆さまからは、和泉式部と呼ばれております」



 帥宮(そちのみや)敦道親王(あつみちしんのう)
 先々代の帝の第四皇子で、先代の帝と現東宮の弟にあたる。今の帝とは従兄弟同士の関係だ―――そんなことを言ってしまうと、故・定子皇后とも彰子とも従兄妹同士になってしまうのだが。
 しかし血縁はともかく、どうもどこかで見た顔だと昌浩は引っかかっていたのだが、記憶をたどり、行きついた答えに思わず半眼になっていた。
 どこで見たかと思えば、先月の賀茂祭でだった。
 毎年大変な人出の賀茂祭だが、昌浩はその日に休みをとることができた年には必ず見物に出かけている。人からの印象が薄くなるような禁厭をほどこして、昌浩と彰子と物の怪の三人で出かける。
 斎院の行列が通る一条大路は、安倍の邸から路を二つ北に上がっただけだから、邸にいても騒がしいことに変わりはないのだ。それなら出かけたほうがいい。
 それに、目的は行列ではない。
 もちろん華やかな行列も楽しむが、昌浩と彰子は物見の桟敷(さじき)を見に行くのだ。
 本物の邸さながらに豪奢に作られた貴族たちの桟敷。普段は邸の奥から出てこない貴族の北の方や姫君たちも、桟敷や牛車の御簾越しに賀茂祭の行列を眺めて楽しむ。
 ぎっしりと軒を並べる桟敷のなかでも、ひときわ立派に造られているのは藤原の氏の長者のものだ。
 本当に安倍邸のすぐ近く。安倍邸の西を通る西洞院大路から一条大路に出て、左に折れて二町ほど。三条の市に行くよりもずっと近い。
 そこに、彰子の家族が顔を揃える。
 彼女の母親である倫子や妹姫二人は御簾の奥にいて姿を見ることはできないが、今年は昨年元服をすませた鶴君が御簾の傍に控えているのが見えた。
 彰子はいつも、彼らがこちらに気づくことはないとわかっていて桟敷に手をふる。少し目を潤ませて、それでも晴れやかに笑いながら。
 元気ですか、私は元気です。心配しないで。ありがとう。
 それは本当にささやかな儀式だ。
 彰子のその小さな願いをかなえてやりたくて、昌浩は毎年可能な限り休みを作る。
 今年は直後に昌浩が播磨に行くことが決まっていたので、その準備期間も含めて当日と翌日の二日間、贅沢に休みをもらうことができた。
 彰子はとても喜んだ。
 二人で相談し、初日に一条の桟敷に行き、二日目はのんびりと行列を眺めて楽しむことにしたのだが、今年は行列以上に人目を惹くものがあったのだ。
 それを目にしたのは二日目のことだ。
 昌浩は唖然とし、物の怪の目は点になり、彰子は目を見開いて「まあ」と声をあげた。
 ありえない存在感を放っているのは、牛車だった。
 牛車だけ見てとるなら普通の牛車である。牛も普通、車も普通。乗っている若い公達(きんだち)は色が抜けるように白くて典雅で、神将たちのおかげで美形を見慣れている昌浩から見てもまあ整った顔立ちをしていた。
 普通は(すだれ)が下りているはずの牛車で、なぜ乗員の顔が確認できるかと言えば、前簾が真ん中から縦半分に切られ、高々と巻きあげられているからである。おかげで左半分だけが丸見えなのだ。
「………もっくん、あれ何?」
「俺に聞くな俺に」
「どうして簾が半分だけなのかしら」
 彰子がもっともな疑問を呟く。
 簾に隠れている右半分はといえば、どうやら女人が乗っているらしく、簾の下から盛大に(うちき)(はかま)がこぼれだしていた。地面に届きそうな緋袴の裾には、何やら同じ色の紙で作った札がくくりつけられて、風にひらひら揺れている。
 札にはこれ見よがしに黒々と何やら書きつけられていた。
「………あれ、物忌み札だよね?」
「物忌みなのかしら?」
「物忌みなんだろうな」
 口々に書かれている文字を読みとっては、眉をひそめ、首を傾げ、口元をひきつらせる。
 物忌みで塗籠などに籠もるときに柱や妻戸に貼りつけ、周囲に物忌み中であることを知らせる物忌み札だ。場合によっては直接本人の烏帽子などにくくりつけたりもするが、うっとうしいうえにあまり見た目が良いとはいえないしろものである。
 物忌みと書いてあるからには、車中の女人は物忌み中なのだろうが、こんな知らせ方は前代未聞だ。見たことも聞いたこともない。 
 賀茂祭の物見では、どの牛車も簾を新調したり、そこから見せる出衣(いだしぎぬ)に気をつかったり、(ながえ)や袖格子に祭りの象徴である葵の葉をからませて飾り立てたりする。従者にも見目良い衣を着せて、我こそはと勇んでやって来るものなのだが、どの牛車もこの車の前ではかすんで見えた。
 真っ二つに切られた簾も青々と、下から覗く美々しい衣に、はっと目を射る紅の袴。風にひらひら揺れる同じ緋色の物忌み札。
 とんでもなく悪目立ちしていた。
 斎院帰還の行列より、こちらを見物する人のほうが多いぐらいである。すでに周囲は黒山の人だかりだ。
「なんつうか、恥ずかしくないのかね………」
 物の怪は呆れて耳をそよがせたが、扇を手にした公達は注目を集めていることにご満悦といった顔で、あたりを見まわしている。
「ちょっと目立ちすぎているわね」
 彰子も苦笑して、そう言った。
「あら?」
 不意に、隠されている右半分の御簾から、女物の扇がすっと顔を覗かせた。そこに公達が自らの扇を重ね、より広い範囲で衆目を遮る。扇の向こうで烏帽子が傾き、公達が相手に向かって顔を寄せた。周囲がどよめく。
「………おーおー、ようやるよ」
 半眼になって物の怪は呟いた。よくもまあこんな白昼堂々。
 ふと傍らを見ると、袂を口元にあてた彰子が被衣(かづき)の奥でほんのり顔を赤くしていた。
 もう一人はと見れば、こちらは完全にわかってない風情で首を傾げている。
「うーん、目立ちたいのはわかるけど、こういう目立ちかたってあんまり良い感じしないよねぇ………もっくん?」
「………あー、うん、そーだな。うん」
「もっくん、どうしたの?」
「いや、ずいぶんふざけた牛車だな、と」
 何となく疲労感を感じてしまい、物の怪ははたはたと尾をふって返答をごまかした。気づいた様子もないあたりが何ともはや。
「たしかにちょっと羽目を外しすぎてるよね。どこの貴族だろう」
「さあな。まあ、あんな貴族とは関わり合いにならないに越したことはない」
「そうだね」
 物の怪の言葉に昌浩はうなずき、彰子の手をひいて、行列がもっとよく見える場所に向かって移動しはじめた。
 歩きながら、あれはどこぞの宮様の牛車で一緒に乗っているのは誰それで云々という噂話が耳に飛びこんできたのだが、そのまま右から左へと流してしまい、記憶にとどめはしなかった。