さあさあと雨が降りだした。
灯心が揺らめき、その光があたる部分だけ、雨は白い筋のように輝いて落ちていく。
いつものように帰りを待ちながら、彰子は雨の降りしきる庭を眺めた。
「昌浩―――」
呟きは、どこか憂ようにひそやかだった。
「やれやれ、終わった」
どうにか術者に呪詛から手を引かせ、昌浩は一息ついた。
結局、門を破って飛びこんだところで、双方力押しになってしまった。あちらは攻撃、こちらは結界に加えて六合の露払い。まるで播磨での術比べのような状態になってしまい、六合だけでは手が回らなくなって焦れた物の怪が本性に立ち戻ったところで、相手が紅蓮の神気に恐れをなしてあっさりと決着がついてしまった。
何だか拍子抜けてしまったが、穏便に解決できるならそれに越したことはない。直衣への被害も最小限に押さえることができ、昌浩もひと安心である。
術者が吐いた依頼人の名は、予想に違わなかった。やんごとなき方は関与していないらしく、これもまたひと安心だ。
神将の神気に怯えるぐらいなら最初から呪詛などしなければいいものをと、ぶつくさ言う物の怪の胴をぽんと叩いてなだめ、昌浩は苦笑した。
敏次でも紅蓮の神気はきついらしいから、無理もないだろう。だいぶ昔だが意趣返しとばかりに本性をさらした紅蓮を見て絶叫していた。
呪詛をとり止め、術者は這々の体で逃げだしていった。昌浩はぐるりと室内を見まわし、集まった恨みの念や瘴気が凝っているのを見つけては浄化していく。
「どうする、まだほんのちょっと残ってるぞ」
呪詛に使われていた祭壇を壊し、さて帰ろうと立ち去りかけた昌浩を呼びとめて、物の怪が指摘した。
示されたすみのほうには、ごくわずかだが澱みのようなものがわだかまっている。
「ん、もういいよ。あれぐらいなら四散しても問題はないし。北の方のところに行っても、たいした影響はないよ」
術を崩した以上、余波は術者とその術の関係者のところに行く。そこそこできる民間陰陽師だったようなので、おそらく影響を避ける術をほどこしているだろう。となると必然的に行く先は依頼した北の方だ。
浄化する気のないらしい昌浩に、物の怪は澱みを一瞥して、まあいいかと納得した。たしかにあの程度なら体調を崩して二、三日寝こむ程度だろう。呪詛された和泉式部もそれぐらいは寝こんでいるので、喧嘩両成敗というところだろうか。少し意味は違うが。
昌浩は和泉式部も北の方も、どっちも悪いところがあると考えているようだから、これでいいのだろう。物の怪の心情的にも、体面から呪詛をしかけた北の方より、やることがはた迷惑でも昌浩を「陰陽師」と言い切る和泉式部のほうが、まだ印象はいい。
「あー、本格的に降りだして来ちゃったねぇ」
「今度こそ車之輔だろう」
「そうだね。式を飛ばして、ここで待とうか」
降りだしてきた空を見あげ、物の怪とそんな会話を交わす。本当に短い晴れ間だった。
やがて飛ばした式に導かれてやって来た車之輔に礼を言って乗りこみ、昌浩たちは六条を後にした。六合は例によって屋形の上だ。
「何のかんのいって遅くなっちゃったなあ」
夏は夜が短い。いくらもしないうちに夜が明けてしまう。安倍邸につく頃には夜明けだろう。
「彰子、さすがに寝てるよね………」
希望的観測をにじませながら昌浩は呟く。さすがにこの時刻になると、寝ていてほしい。
「どうだろうなぁ。一昨日のこともあるから先に寝ているかもしれんが、彰子だからなぁ」
物の怪の冷静なようでいてかなり大雑把な分析に、思わず笑う。
思いついてふと、直衣の袖に触れてみた。膝の上に布を広げ、針を手にする彰子の姿が鮮やかに思いだせる。これは昌浩の直衣よ、と涼やかに笑って告げた声。
時折がたがたと揺れる車のなか、目を閉じる。
先刻の南院で思いがけず交わした短い会話。たいしたことを話したわけでもないが、それでもそこから感じとった相手の想いは、なりふりかまわず剥きだしだった。おそらくそのひたむきな想いを歌のなかにも感じ、貴船の祭神も彼女に興を覚えたのだろう。歌は言霊でもある。半端な出来では目には見えない鬼や神の心は動かない。そして、かの神は気まぐれのようでいて、昌浩の真剣な想いにはいつも応えてくれたのだ。
穏やかな日常のなかに眠っていたものを、彼女とのやりとりのなかで思いだしていた。ゆるやかな時の流れに埋もれかけていた、最奥にある激情を。
誓いも教えも命さえも。彼女を失わないためなら、何もかもを投げだせる。そのどれもが、彼女が居てこそ成り立つものだから。
ただひとつの帰る場所だと知っていた。彼女が無事だから、自分は戦える。
そうだ。どうしても手放せなくて、自分は選んだ。
いまよりもずっと幼く未熟で、人ふたりの星宿など背負えるはずもなかった自分に課せられた重すぎる選択。
「結局は、俺がずるいんだよね………」
小さな呟きに、傍らで丸くなっていた物の怪がうっすらと目を開け、昌浩を見た。
昌浩は目を閉じたまま、懐のあたりを手で押さえている。鼻腔をかすかに慣れた香がくすぐった。物の怪はまた目を閉じる。
匂い袋を直衣の上から探りあてて、握りしめていた。
―――違えた星を違えたままに。
それが昌浩の選択だった。
彰子が安倍邸に居続けるということを、あのとき自分は望み、自身の手でそれを定めたのだ。
後悔はしていない。できるはずもない。ただ、怖れたことはあった。
他者を傷つけてまでも己の意志を貫き通せてしまうことに。大切にしていた何もかもを投げださせる存在があることに。―――そうやって、己の有りようが変わっていくことに。
澱んで深みを増し、複雑な綾を成していく自分自身に追いつけず、急くようにただ勁さを望んだことも。
いまは、怖れを否定するのではなく打ち克つのでもなく、受け入れてその上に立つことを知っている。
昌浩は、彰子を望んだ。
行きつく先を明確に描いていたわけではない。ただそれだけを強く望み。そして選んだ。
時を経たいまでは、違えた星の先にあるものが多少は見えている。身勝手な選択をしてしまったという後ろめたさとともに、そうなればいいと漠然と想ってきた願い。
望めば、彰子は応えてくれるだろう。
周りも動いてくれるだろう。
だからこそ、しばらく曖昧でいたかった。少なくとも自分の選択の上に揺るぎなく立つことができるようになるまでは。
彼女は一生その傍らに陰陽師を必要とする。たしかに最初は彼女が呼びかけに応えてしまったためだ。そしてそれにより星宿が動いたためだ。だが、いまは違う。星宿を正す機会を、その身に巣くう呪詛を消す機会を見送ることを、昌浩が決めたのだ。
別に陰陽師は昌浩でなくてもいい。安倍にも賀茂にも優秀な者は多くいる。だが彰子が安倍邸にいるのが現実だ。この状況は今後も続き、余程のことがない限り変わることはないだろう。
そして何より、昌浩は譲れない。
陰陽師だからそばにいるのではない。
自分が彼女のそばにいたいのだ。それこそ、誰よりも近くに。
いつも帰りを待っていてくれる。無条件で信じてくれる心が、昌浩を強くしてくれる。何度も身を呈して救ってくれた。彼女がいなければいまの自分はない。
………手に入れるのに、少しずるい選択をした。
そして後ろめたさをともなうそのずるさが、自分のなかで彼女に対する想いを決定的なものにしたのだ。失う虞におののくほどに、強く。
蛍めいて曖昧な何かは、中心に光を放つ確かな芯がある。集って凝り、手のなかで輝きを増すように、その想いは膨れあがる。
「………彰子」
違えた星が己の手のなかにあるこの幸福。
日々の暮らしの些細なことにも彼女の想いはこめられていて、雑鬼たちですら彼女が縫った衣を汚したくないからと自分に遠慮する。
受けとめなれた部分もあれば、まだどうしようもなく気恥ずかしい部分もあるけれど。
向けられる想いに同じものを返し合わせ、ひとつの確かなものにしたいと思った。
いつまでもこのままでとも思う。だけど、自分も彰子も変わっていくし、周りの人々も、世のなかの動きも変わっていく。―――何より、刻は迫りつつあって。
速度を落とした車之輔ががたりと止まり、到着を知らせてくる。
昌浩は小さく吐息をつくと、目を開けた。
脇息にもたれ、うとうととしていた彰子はふうっと目を覚ました。
顔をあげると、天一が目を細めて彼女を見つめ、それから無言でそっと外を示す。
合点のいった彰子はうなずいて身を起こすと、小さな声で礼を言った。天一は微笑して首を横にふり、いつのまにか肩からずり落ちていた単衣と袿を着せなおしてくれた。
普段は彰子が眠気を覚えると、寝所に行くようすすめてくるのだが、今夜は見逃してくれたようだ。起こしてくれたことに感謝して、彰子は妻戸を開けて外に出た。
雨はさあさあと降り続いている。寝入ってからそれほど時間は経っていないようだった。
格子と御簾を隔て、灯台の明かりが幽かに闇に滲みでている。
夜明けは間近で、東の空がほんのわずかに明るい。
ぱしゃぱしゃと足音がした。
彼女が予想した通り、門から土間に入る物音で吉昌たちを起こしてしまうことを懸念し、軒伝いにまわりこんで来たのだろう。小走りに庭をやってきた影が、彰子に気づいて驚いて立ちどまった。
「彰子………」
名を呼ばれ、彼女は静かに微笑した。
「おかえりなさい、昌浩」
雨のかからない軒下まで入り、昌浩は彰子のもとへと近寄った。物の怪が滴を落とすつもりなのか、簀子には上がらず、そのままどこかへと歩いていってしまう。
「起きてたんだ」
その声に先日のような尖った気色はない。
「ううん、さっきまで少し休んでいたわ。天一に起こしてもらったの」
言いながら、彰子は簀子に膝をついて座りこんだ。
彼の背後で雨は銀の糸のように降り続き、空がうっすらと雲の色を淡くしている。
昌浩は彰子を見あげたまま、無言だった。
暗がりのなか互いの輪郭はぼんやりと闇に融け、その代わりのように相手の香が雨音とともにそれぞれを包みこんだ。彼と彼女の香はほんのわずかに薫りが違う。少しだけ甘さのあるのは、彰子の香。
「………ただいま。遅くなって、ごめん」
「うん、おかえりなさい。もう、夜が明けてしまうわね」
昌浩の後ろの空を見あげ、彰子は呟いた。
あたりは暗いのにどこかまぶしげに彼女を見あげ、昌浩が淡く笑う。
「何か、こうしていると、まるで初めて会ったときみたいだ」
彰子はちょっと驚いて目をみはり、それから懐かしむように目を細めた。
「そういえばそうね」
「あのときも、こうして簀子に彰子がいてさ」
「………なにをしているの? その生き物は、なぁに? ―――もっくん、いまはどこかに行っちゃったけど」
彰子が後を続け、二人はくすくすと笑いあう。
あの頃、彰子はまだ裳着もすませていない子どもだった。昌浩もいまよりずっと背が低く、首を仰向けて簀子の上にいた彰子と視線を合わせていた。
あれから時は流れ星宿は流転し、運命の重さに立ちすくんだ。叩きつける波濤のような現実に何度もさらわれ見失いそうになって、夢中で手を伸ばした。いま互いがここにいることは必死に足掻いた結果なのだということを、口に出さずともわかっていた。
笑い声はやがて雨に溶け入り、静かに途切れた。
訪れた沈黙に、二人は視線をからませる。ひたひたと押し寄せる畏れにも似た予感を互いの瞳の奥に見いだし、相手に気づかれぬよう胸を震わせた。
「………初めて会ったときみたいって。昌浩は、そう思ったのね」
ためらいがちに笑って、彰子は首を傾げる。
「彰子は違うの?」
「私には何だか、まるで………」
高欄に添えられたその両手に、きゅっと少しだけ力がこもった。
「まるで、後朝の別れみたいだわ」
逢瀬の名残を惜しみ、暁に別れる男君と女君。
慈雨が土に染み入り乾きを潤すように、じわりとその言霊は広がる。
驚きに見開かれた双眸は………やがて、ゆるやかにほころんだ。何とも言えぬやわらかさと切望を帯びて、互いのまなざしは結ばれる。
高欄をつかむ彰子の指に、そっと彼の手が伸ばされた。
癒えぬ傷を負う右手も、丸玉を飾る左手も。等しく愛しむように指が寄り添い、握りあわされる。
「………彰子が許してくれるなら」
雨音にまぎれることなく、そのささやきは耳に届く。
「通うよ。三日、続けて…………」
言葉もなく目を見開いたのは、今度は彰子のほうだった。
からめた指先がかすかに震えた。
東の空が明るさを増していく。
音もなく姿もなく、雨雲の向こう側で進みゆく暁降ち。
彼の両手を己の手のひらに包みこみ、彰子は高欄に打ち伏すようにその手を額に押しあて、うつむいた。こぼれた髪が、高欄を越えてさらさらと昌浩に降りかかる。
「彰子―――」
その髪をすくいとって戻してやりたくて、昌浩が声をかけるが、彰子は嫌々と小さく首をふる。
「………あきこ」
何度目かに優しく呼ばれ、彰子は少しだけ手をゆるめた。そっと外された片手が、地に着きそうな彼女の髪をすくいとり、高欄の内側に戻していく。
「―――りがとう、昌浩」
雨にかき消されそうな己のささやきに、彰子は首をふる。違う、もっとはっきりと伝えたい。
強く手を握りなおして、彰子は顔をあげた。目の前に昌浩の顔がある。薄明のなか増しゆく光にふちどられて、このうえなく大切で愛おしく、胸に迫る。
まばたきをすると、幾つものあたたかさがこぼれ落ちた。頬をつたわり落ちたそれが、重ねた手の上でぽっと跳ねる。
「ありがとう、昌浩」
髪を撫でる彼の指が、今度は彼女の頬へとのばされた。
溢れてくるあたたかい何かは、彰子を満たして、昌浩のぬくもりと融けあっていく。
「―――ずっと、ずっと一緒に居るわ」
誰よりも誰よりも、あなたの近くに。
目の前の顔が幸福そうに微笑う。頬をぬぐう指先の冷たさが、包みこむような手のひらの熱に変わる。
とくとくと高鳴る鼓動。
彰子はそっと目を閉じた。
この花は、あたなのためにしか咲かない。
いついかなる時も、あなたのためだけに―――。