呪詛を解呪した翌々日。昌浩は再び南院におもむいた。
さすがに昨日は徹夜明けでそのまま出仕したので、その後さらに報告に行くのは体力的にきつかったのである。
帥宮と式部の二人にはとりあえず文で報告をすませてある。呪詛の件に関しては問題なく解決しましたが、解呪によって身に穢れを帯びてしまいましたので、障りのある身でおうかがいして礼を失することがありましては云々と、もっともらしい理由をでっちあげてあるので、向こうも納得するだろう。
と、思ったのだが。
訪れた南院で昌浩を待ち受けていたのは、御簾の向こうの無言の気配だった。
誰かがいる気配はする―――おそらくこの香からして和泉式部だと思うのだが、昌浩が庇の間に足を踏み入れても相手は無言のままだった。
昌浩は当惑して簀子をふり返ったが、最初から不愉快そうな面持ちをしていた先導の女房はすでに立ち去った後である。
置かれてある円座に座って、一礼してもまだ無言。さすがに昌浩は口をへの字に曲げた。
「………もっくん、ちょっと見てきて」
「おうよ」
頼まれた物の怪はするりと御簾の隙間から身舎なかに入りこみ、ややあって出てきた。真紅の瞳が何やら呆れた色を浮かべている。
「もっくん、式部殿はいたの?」
「いるにはいたが………呆けとる」
「は?」
「何か、頬杖をついて心ここにあらずって感じだ。………貴船でもあんなだったんじゃねえの?」
物の怪は肩をすくめた。
「とりあえず、声かけてみろよ。夜の貴船で一刻あまりだからな、昼日中だと二刻はぼんやりしてるかもしれんぞ」
「や、さすがに二刻はお腹すいて無理なんじゃないかなぁ………」
かなり見当違いのことを言いながら、さすがに本当に二刻も放置されてはたまらないので、昌浩はあらたまって御簾向こうに声をかけた。
「―――式部殿、安倍昌浩です」
ふっと気配が揺らいだ。
ややあって、するすると御簾が持ちあがり、相手が直に外に出てきたので昌浩は仰天した。こんなことをするのは彰子ぐらいだと思っていたが、他にもいたらしい。
「ごめんなさい。いらしてたのね」
いらしてたのねと言われても、非常に困る。
来訪を告げた時点で、女房がそれを知らせるために一度奥に引っこんでいるので、式部は昌浩が訪ねてきたことを知っているはずだし、通すように言ったはずである。でなければ出直しを余儀なくされたはずだ。
「そういえば、どなたかいらしていたような気もするかしら………陰陽師殿の訪れを知らせに来てくれたはずなのに、申し訳ないことをしました」
おっとりと、しかしあっさりそう言われ、昌浩は話を切りだす前から頭痛がしてきた。
一昨日の夜、御簾内にいたのはたしなみとしてではなく、単に呪詛が恐かっただけなのかもしれない。目の前で呑気に扇をかまえている相手を見て、昌浩はしみじみとそう思った。
「ごめんなさいね、せっかくいらしてくださったのに。お気を悪くされないでね。わたくしの悪い癖なのです。ひとりでいると、どうしてもつれづれに耐えらなくて。………心がどこかに行ってしまうの」
さびしげな苦笑いを見せて、式部は謝った。
物の怪は謝る彼女をしげしげと観察し、ある意味で納得する。
なるほど、これは男にもてるだろう。
初めて顔を見た和泉式部は、物の怪から見てもそれなりに美人だった。神将から見てそれなりということは、おそらくただの人間が見たらかなりの美女だということだ。例外は一族ほとんどが見鬼である安倍の人間で、彼らは幸か不幸か神将を見慣れているせいで容姿の美醜に対して鈍感なのである。
目の前の相手は、成親の北の方のごとく光り輝くような美貌ではないが、まろやかに磨かれた翡翠の珠のような色気と甘さのにじむ顔立ちをしていた。全体的な雰囲気がさびしげで脆そうに見えるのも、男の庇護欲をそそるに違いない。
おまけに当代一の歌詠みか。暇を持て余している貴族の坊ちゃんどもがそりゃ放っておかないわな。
呑気に物の怪はそんなことを考えた。
相対している昌浩は、おそらく物の怪と同じで「それなりの美人」としか思っていないはずなので、何の感情も抱いていないだろう。―――もしかすると、昨日の明け方から、いままで以上にただ一人しか見えていない状態なので、それなりの美人とすら思っていない可能性もある。
現にいまも、ごく普通に会話をしている。
「帥宮様は今日はおられないのですか」
「宮様はお父上の院から急なお呼びがあり、本殿のほうに上がられました。昨夜は何の変事もなく、宮様も感激しておられました。陰陽師殿に心よりの感謝をと仰せつかっております―――本当にありがとうございました。これで夜は安心して休むことができます」
「いえ、頼まれたことを果たしただけですので」
「いいえ。陰陽師殿は貴船の神様より使わされた御使者ですもの。どれだけ感謝しても罰はあたりません」
式部のこの言葉に憤然としたのは物の怪だった。
「感謝はともかく! 何で昌浩が貴船の神の使者とやらを勤めねばならんのだっ。そもそも、お前があの神の前で呑気に歌なんぞ詠むからこういうことになるんだぞっ!」
発言の前者はともかく後者は事実の一端を指摘していたので、昌浩は物の怪の言に内心苦笑するしかない。
「宮様からお預かりしているものがあります。少々お待ちになって」
そう言って式部は出てきた御簾にいざりより、御簾内から打乱筥と次いで硯蓋を手元に引きよせた。その際に、あら、几帳はこちらにあったのね、などと呑気な呟きが聞こえ、昌浩と物の怪は気づかれないよう溜め息をつく。困った人だ。
彼女はまず打乱筥を両手で捧げ持つと、彼の前へ置いた。それからひとまわり小さな硯蓋を同じようにして、彼の前へと置く。
「―――陰陽師安倍昌浩殿に、これを。宮様とわたくしより、こたびの祓えに対して心ばかりの品でございます。どうぞお受けとりくださいますよう」
あらたまった式部の言上とともに示されたのは、小葵文の織りだされた優美な薄色の袿と、色とりどりの美しい料紙だった。
以前に比べて、依頼を受けて褒美をもらう機会は少しずつ増えつつあったが、祖父の名代としてのものが多く、こうやって昌浩個人に報酬を渡されるといまだに緊張する。
左大臣からのものは例外で、あれは言外に彰子へとの含みがあるから、どれだけ豪華な品だろうと気後れすることなどないのだが、こういう純粋な報酬だと何だか面映ゆい。
だが、もらう度に物の怪がとても嬉しそうな顔をするのと、少しでも稼いで彰子に何か贈りたいこともあって、ありがたく頂戴することにしている。
「過分な物を頂戴致しました。帥宮様にはよろしくお伝えください」
「あら、お礼を言うのはこちらのほうですもの」
一礼した昌浩に屈託なく笑い、式部は硯蓋に入れた数枚の料紙を目で示した。
「こちらは宮様がご用意されたものではなくて、ほんの思いつきですが………。わたくしからもぜひ何かさしあげたかったので。想う方に、これで文でも書いてさしあげてくださいな」
悪戯っぽく言われ、昌浩は顔を真っ赤にした。
すると物の怪が、感心した風情で何度も頷く。
「何て良い時機に良い物をくれるんだ。こんな上等の紙、滅多なことじゃ手に入らないぞ。よかったなあ昌浩や、婚儀のときの後朝の文はこれに書け。いやあ、良いやつだなこいつ!」
さっきまで貴船の神との縁に対して、さんざん文句をつけていたとは思えない上機嫌で式部をほめる物の怪を、昌浩は袖を払うふりをしてぶん殴った。
後ろへ転がっていく物の怪を、さきほどからずっと無言を通している六合が受けとめる。
ぎゃんぎゃん文句を言う物の怪を無視して、昌浩は料紙と袿に交互に目をやった。
たしかに物の怪の言うとおり、昌浩がいままで見たこともないような贅美を尽くした紙だ。雲母を刷り入れたものや、金箔銀箔を散らしたもの。女房たちの衣の重なりのように幾重にも違う色合いの紙を継ぎ重ねた華やかな模様のもの。紙もここまで来ると立派な芸術品である。
官給品の紙は当然ながら白一色で味も素っ気もないし、道長が用向きを伝えてくる文も厚手で上質だがただの白い紙だ。こんな恋文専用のような高価な料紙は、本当に初めてだった。
袿のほうはというと、やわらかな光沢の絹織物で、淡い紫が彰子にとてもよく似合いそうだった。
どれも彰子が喜びそうで、良い物をもらったなあと昌浩も素直に喜びかけたが、先ほどの物の怪の一言を思いだし、ずんと気落ちする。
紙がどれだけ立派でも、いや紙が立派だからこそ、それ相応の内容と手蹟でなければいけないのではないだろうか。紙は立派なのに、書いてある字も歌も下手だとなったら目も当てられない。
顔を赤くしたり青くしたりしている昌浩を不思議そうに眺め、式部が首を傾げた。
「陰陽師殿は、どなたかお好きな方がおいでではないの?」
「えっ、はい、いやっ、あのそのっ………あんまり立派な紙なので、何を書けばいいのか」
狼狽したあげく、観念した昌浩が正直にそう白状すると、式部は目を丸くした。それからころころと笑いだす。
「陰陽師殿は、歌は苦手?」
「………とっても苦手です」
「まあ、正直ね」
式部は笑い、扇の影で目を細める。
「苦手だと思うと、ますます書きづらくなってしまいますものね。………でも、どんなに良い歌ですぐれた手蹟でも、恋文に代詠や代筆をもらうことほどつまらないことはありません」
昌浩が驚いて式部を見ると、彼女は真剣な顔で後を続けた。
「求婚の文は、最初は代筆が当たり前。儀礼やご挨拶でなら、なまじ下手な文より代筆のほうがずっと良いこともあります。けれど、交わしあう恋文だけは本当につまらない。想い想われる方から文をもらって、もしそれが代筆だったら、もうそれだけで白けて悲しくなります」
式部はふっと視線をゆるめ、優しげな目つきで料紙を見て、それから昌浩を見た。
「ですから。陰陽師殿も何も必ず歌でなくてもいいので、想う方にはご自分で文をお書きになってね。代筆だと、きっと泣かれてよ?」
「………………そうします」
なかば悲壮な決意とともに、昌浩は小さくそう返した。
それは少なくとも書くことを当然としての返事であるわけで、ここ数日で彰子に対して本当に進歩したなぁなどと感慨にひたり、物の怪は、はたと気づいた。
………もしかして、本当にけしかけたつもりなのだろうか。貴船の祭神は。
「陰陽師殿に想われる方はお幸せね」
ますます顔を赤くする昌浩に、式部は声をたてて笑う。
「どうぞ、多くの方に愛でられる恋をなさって。わたくしのように、色んな人に迷惑をかけすぎるとたいへん」
冗談にまぎらわせた警句から隠しきれない憂いと本音を感じとり、昌浩は何も言えなくなる。だが何か言う必要もなかったし、何を言われても彼女は自分の想いを手放さないだろう。昌浩よりも圧倒的に、そのあたりの経験と覚悟はあるに違いない。
彼が短く辞去の挨拶を述べると、見送りながら式部は笑ってささやいた。
「その方を大切に愛しんでさしあげてね。………花は、そうして咲くものですから」
まぶしそうに見あげてくるその顔に少しだけ彰子の笑顔が重なって見え、昌浩はふっと目元をなごませると無言で一礼した。
南院を辞した昌浩はもらった袿と料紙を大切に抱えながら、物の怪に笑いかける。
「もっくん、帰ろうか。―――彰子が待ってる」
それは物の怪がいままで見てきたなかで、最も幸せそうに笑う昌浩の顔。
そんな顔ができるまでに成長したことを、それを見守ってこられたことを、物の怪が無上の幸福と思えるような。
「………おうよ」
物の怪はふわりと尾を揺らし、隣りに並んだ。
光をくれた、かけがえのない赤子。叶えてやりたいと物の怪が願った淡い想いを、泣きながらそれでも手放すと決意した小さな強い背中。
あの小さかった子どもは、本当に大きくなった。
「来年どころか、冬の更衣より前になるかもしれんな………」
「もっくん、何か言った?」
「………いや」
怪訝な顔をする昌浩に、物の怪は満足げに目を細めて首をふった。
「昌浩が帰ってきたわ」
顕現した太陰の言葉に、自室で髪を梳いていた彰子は顔をあげた。
櫛笥に櫛を片づけ、なかに入っている文に一瞬だけ手がとまるが、すぐに蓋をする。
立ちあがると、何か言うより先に太陰が言った。
「別にどこも変じゃないわよ」
「た、太陰………」
顔を赤くする彰子に、傍らの天一がくすくすと笑う。
少し唇を尖らせたもののすぐに笑い返し、彰子は昌浩を出迎えるために部屋を出ていった。
「どうしてかしら、数日前よりずっと美人な気がするんだけど………?」
「そうですね」
不思議そうな太陰の言葉に天一は微笑するだけにとどめ、沈黙を守る。
「―――昌浩、もっくん、お帰りなさい」
「ただいま、彰子」
いつも通りのやりとりが、くすぐったくて嬉しくて、目を合わせて二人は笑う。
望んだ未来は気づけば、すぐそこまで来ていた。
道長が文台に法華経を広げていると、雨の気配にまぎれて、女房がこちらに渡ってくる衣擦れの音がかすかに耳についた。
やがてやって来た女房は、写経に集中している主がこちらに注意を向けるのを待って、その用件を告げる。
「―――陰陽頭安倍吉昌殿と子息の昌浩殿が、殿にお目通りを願っております」
筆を動かし、硯の墨を含ませていた道長の手が止まった。
「いかが致しましょう」
「ふむ、何か申していたか」
「吉昌殿は、晴明殿の名代として殿に申しあげたき事があるとの由。―――昌浩殿は、文の返事をお持ちした、と」
道長は筆を置き、文台をゆっくり奥へと押しやった。
「―――こちらに通せ」
意を受けた女房は一礼し、案内をするためにやって来た妻戸から再び戻っていった。
道長は庭に目をやった。
雨はここ数日、止むことなく降り続いている。濡れた庭の白砂が、曇天の下で不思議と照り映えて彼の目に映った。
入内より以後、彼の娘が人づてに何かを望んだのはただ一度きり。香を合わせる道具類と、その材料だけだった。自分に似たのか、どこか姫らしかぬ肝の据わったところがあり、鬼を見るという異才ゆえか、物怖じせず真っ直ぐ人の目を見るような娘だった。
吉昌に文を託した日から、数日が過ぎていた。
先導の女房が再びこちらに渡り、来訪を告げて御簾を巻きあげる。御簾に遮られていた微風が客たちよりも一足早く、彼のもとまで届いた。
雨の匂いにまぎれて聞こえたのは、どこか懐かしい伽羅の香。
烏帽子をかけぬよう、身をかがめて御簾をくぐる彼とふと視線が合う。
―――道長は、文の答えを知った。
十四日、丁卯、火戌
天晴、今夜陰陽頭吉昌息婚礼晴明朝臣縁女、装束一襲、以右大弁給之
【御堂関白記 寛弘元年六月 抜粋】
〈了〉