香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――鴨頭草の巻〈一〉
右大臣邸―――
「ああああっ、腹が立つったら!」
西の対屋では、その主があたりをはばかることなくヒステリーを起こしている最中だった。
部屋の隅で、ヒステリーの原因となった噂を主の耳に入れた女房たちが小さくなって畏まっている。
それとは別の隅のほうでは、飼われている唐猫がヒステリーにめげず円座の上で丸くなっていた。
「香澄の君もあんな人並み以下の姫のどこが良いのよ !? 民部卿の姫を助けたですって !? あああああああッ、もうっ!」
扇であたりかまわずベシバシ叩き散らしているのは、いうまでもなく由紀姫だった。
香澄に求婚を断られてからというもの、桔梗をくそみそにけなしているのだが、ここに来てその桔梗が民部卿家の姫を助けたと聞いて、さらに頭に血が昇ってしまったのだ。
うっすらと色づいた頬に多少癖のある横髪がかかったその容貌は、文句なしに美人の部類に入る。
華やかな雰囲気の姫だが、それゆえに怒り出すと得も言われぬ迫力があった。
癖のある横髪は、削いで下がり端にしたあかつきにはふんわりと頬にかかって容貌にさぞ華を添えるだろうと言われていたが、現在その髪はいまだ長いままだった。
鬢を削いだ髪は既婚のしるし。
あの一件以来、いまだ香澄に執着ばりばりで、その北の方である桔梗の悪口を言い立てているので、結婚相手が寄りつかないでいる。
姉の紫乃姫が東宮のもとに女御として入内している以上、姉妹で寵を争わせるわけにもいかず、適当な公達と娶せるしかないのだが、いまだ本人がブツクサ言っているためそれもなかなか実現しない。
いくら男の価値は妻の家柄で決まるとはいえ、誰だって結婚する前から夫婦仲が上手くいきそうにないとわかっている姫のところに婿として通いたくはない。おまけに桔梗をあしざまにののしっていることで性格の悪さが露呈してしまい、公達は由紀姫を敬遠気味だ。
「姉貴、またヒステリーかよ」
げんなりした表情で、出仕から帰ってきた桐耶が部屋に顔を出した。
帰宅してのんびりくつろいでいたところを、由紀姫付きの女房に泣きつかれてわざわざやってきたのだが、桐耶としても扱いに困る。
なにせ桐耶は、弟のくせに実の姉より桔梗姫の味方だと認識されてしまっているのだ。事実なので反論しようもないが。
「桐耶 !!」
由紀姫が御簾越しにぎろっと桐耶を睨みつけた。
「民部卿の姫が桔梗姫に助けられたっていうのはホントなの !?」
(今日の原因はそれかよ………)
うんざりしながらも、桐耶はうなずいた。
「そうだよ」
「なんでッ !?」
「いや、なんでって言われても」
「民部卿のところの姫さまも姫さまよ! もう少し助けられる相手を選べばいいんだわっ、なんだって鬼の姫なんかに助けを求めるの!」
(んな無茶な………。人を選んでいられる状況なわけがないだろうに)
相変わらずのめちゃくちゃな言い様に、桐耶は嘆息して答えた。
「姉貴、もういいかげんあきらめて他の婿がね(婿候補)を捜せよ。香澄は小さい頃から桔梗が好きだったんだから、しかたないだろ。桔梗だって鬼でもなんでもなくて、普通の人間だよ」
言った途端、由紀姫の形相がますます恐ろしくなった。
人間、正論を吐かれたほうが腹が立つ。
さらに機嫌が悪化したことに気づいて、慌てて桐耶は立ち上がった。
「悪い。オレもう帰るよ。東宮さま直々に御用を言いつかったんだ。その準備をしなきゃ………」
二人を隔てていた御簾が大きくたわんだ。由紀姫が傍にあった高坏を桐耶に向かってぶん投げたのだ。幸い上にのっていた唐菓子は全部食べられていたので二次災害はまぬがれた。
「呪ってやるわ! 尼になってあんたと桔梗姫を呪ってやるからッ!」
めちゃくちゃなことを言い出した由紀姫に背を向けて、早々に桐耶は退散した。
残された由紀姫はイライラと扇で座っている畳のへりを叩いた。
(桐耶はわかってないのよ!)
もはや香澄が好きかキライかという問題ではないのだ。
もちろん、いまでも香澄のことは好きだ。しかしもう香澄と結婚できるとは思っていない。純粋に香澄に恋していた時とは違う。
これは女のプライドの問題なのだ。
自分で思うのもなんだが、多少なりとも容姿には自信がある。家柄も摂関家の流れを汲んでいて、姉は東宮妃。
迂闊に下手な身分の殿方を婿に迎えるわけにはいかない姫なのだ。この右大臣家の二の姫である由紀姫は!
それを香澄は断った。
元服前で童殿上もしていなかった無位無冠の香澄を、自分のワガママに折れて父母たちは婿にとあちら方に申し入れてくれたのに、それを香澄は断って、あろうことか内大臣家の養女となっていて鬼の姫とよからぬ噂のある桔梗姫と結婚してしまった。
鬼の姫と呼ばれるのは、髪や目が人とは思えない色をしているからだという。そんな噂をたてられる向こうの容姿がこちらに勝っているとも思えず、まして両親を亡くして後見を失い、内大臣のかかりうどとなっている身では、由紀姫とは端から比べることなどできない。
それなのに断ったのだ。
由紀姫はいたくプライドを傷つけられた。
(この私より、鬼の姫のほうがいいっていうのッ !?)
この由紀姫の内心の絶叫は、後宮で香澄の姿を目にする機会のある女房たちの心情と完全に一致した。
香澄は、正体は女なのでその容姿には男にはない繊細な感じがするし、顔立ちも整っている。ピンと背筋が伸びた立ち居振る舞いも、義兄である左近の少将の雅人とはまた違った趣があって良いと評判なのだ。
香澄を見れば、一度は彼(本当は彼女だが)の恋人になりたいと大半の女房たちが思う。
それなのに香澄は妙な噂のある姫を右大臣家の縁談を蹴っ飛ばしてまで正室にしていて、他に遊び歩く様子を見せない。
鬼の姫との呼び名を知れば、たいていの女房は桔梗の顔を見たこともないのに自分のほうが容色は上だと思いこんで、由紀姫のような心情になる。
げにおそろしきは女のプライド。
由紀姫はもとからかなり気位が高かった。
姉は東宮妃。家は摂関家の流れを汲み、いまをときめく右大臣。しかも美人。上から数えた方が早いくらいに誇り高い。
それなのに、その自分より香澄は桔梗をとったのだ。
おまけにその桔梗姫が、由紀姫がかなわないくらいに宮びを知った合香の名人で、そのおかげで香澄が宮中でもてはやされていると聞けば尚更プライドが傷ついた。ついでに香澄の姿を見ることのできる後宮の女房たちにも嫉妬した。
もともと桔梗はその鬼子だと言われる外見さえ考慮しなければ、祖父母共に皇族であり、死んだ両親は風流人と名高かったことといい、内大臣家が新たな後見となっていることといい、実は結構申し分のない姫君なのである。
多くの者は噂に惑わされて気づいていないが、由紀姫はそのことを的確に見抜いている。
おかげで、ますます腹が立つ。
こうなると初恋の清らかな思いはどこへやら、自分対桔梗姫の女の戦いになってくる。いくら桔梗にその気がなくとも、こちらはやる気満々で桔梗姫の噂が耳に入ってくるたびに一喜一憂する。
―――もっぱら、最近は憂いを通り越して激怒することが多くなっていたが。
(私のどこが、あの姫に劣っているというのよ!)
そして今日、あらたに桔梗姫が民部卿の姫を助けて感謝されていると聞けば、ヒステリーのひとつも起こしたくなる。
悔しい。
悔しいったらない。
おまけに自分は見事に嫁き遅れだ。
「私の人生どこで間違ったのよ――――ッ !!」
大絶叫した由紀姫の横で、猫が眠たそうにあくびをした。
〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)
※童殿上……でんじょうわらわ。元服する前から出仕して、宮中で働くこと。こーやって貴族はコネを作っていくのです(笑)
※円座……わらうだ(わろうだ)。藁を編んで紐にして、それを渦巻き状にぐるぐるっと丸くした座布団。藁編みの鍋敷きがでっかくなったものを想像してもらえばいいです。これは丸いが、褥(しとね)は四角い。
※かかりうど……かかりびと。他人に頼って生活する人。いそうろう。(From広辞苑)