香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――鴨頭草つきくさの巻〈二〉

 それから数日が過ぎ、香澄への問いただし攻撃も下火になった頃。
 香澄が桔梗の部屋に様子を見に行くと、彼女は咲姫からの贈り物である白絹の巻物を周囲にひき散らして、なにやら柚葉と話し合っているところだった。
 白絹は、桔梗が座っている畳の上から飴色の床にこぼれて枯れ木に雪がつもったような色合いを見せている。
 香澄は自分で円座わろうだ脇息きょうそくを持ってくると、白絹をよけて、床の上に座りこんだ。
 それに気づいた桔梗が、邪魔になっている絹を手元に引き寄せる。
「ねえ、香澄ちゃん。これみんな咲ちゃんのおうちからなんだよね?」
 台に積まれた絹の巻物を見て、桔梗が困ったように尋ねた。
「こんなにもらっていいのかな」
「んなこといわれてもな………」
 香澄も困ったように扇で肩を叩いた。
 民部卿邸からの使いが来て、この度、咲姫が世話になった御礼ですといって、色々なろくを置いていったのは昨日のことだ。
 向こうにとって桔梗は、溺愛している一人っ子の命の恩人だから感謝してもしたりないらしく、実にさまざまなものをこちらに寄越してきた。
 おそらく、邸に戻った咲姫が口添えしたのだろう。
 床にひき散らされている染められていない白絹の他には、合香の原料やら、特別きれいに漉かせた料紙やらが東北の対に置かれている。
「まあ、民部卿どのはえらい感謝のしようだったからな」
 どうやら咲姫が、脚色混じりに臨場感たっぷりにそのときの出来事を話し、助けてくれた桔梗姫への感謝の念を多大に植え付けてくれたらしい。
 まさか主上おかみの御前で泣いて手を取られて感謝されるとは思ってもみなかった。
 そのときのことを思い出して、香澄はわずかに顔をひきつらせた。
 白絹をまきとりながら、桔梗が首を傾げた。
「雅人兄さんに頼んで、荘園の方に染めに出させようと思うんだけど、どんな色がいい?」
「お前の好きにしろよ」
 染色や、縫い物、合香といった姫君の教養ごとに、香澄はいっさい興味がなかった。桔梗が上手なので完全にまかせっきりにしている。
 乳母めのと羽常はつねあたりはそれを嘆くのだが、興味がないのだから仕方がないではないか。女に戻ったときは困るだろうなとチラリと思ったりするが、あえてどうにかしようとも思っていない。
「そうだ。兄貴のほうに文を出すから、ついでにそれもいくつか送ろうか?」
靖名やすなさん? でも、そろそろ帰ってくるんじゃない?」
「あ、そうか。今年が四年目だからな。じゃあ送らなくてもいいか。年明けにはどうせ帰ってくるよな」
 香澄の兄の靖名は、国司の任期である四年を終えて、そろそろ京へと帰ってくる予定だった。
 任国に下らないで京に残る国司もいるというのに、マメというか真面目な性格ではある。政治的駆け引きの渦巻く宮中では間違いなく損な性分だ。おかげでいまだに通う姫もない。
 柚葉がほどけた白絹をまきなおそうとして自分にまとわりつかせてしまい、顔をしかめて桔梗を見た。
「桔梗、柚葉を助けて」
「はいはい」
「ほっとけ。自力で脱出させろよ」
 それを聞いて、桔梗に白絹をとってもらっている柚葉が無言で頬をふくらませる。
「靖名さんや御方さまが帰ってくるなら、いまからお邸内を整えておかないといけないね。北の対に御方さまで、寝殿に靖名さんとして………あたしたちどうしようか」
 広げていた絹を片づけながら桔梗が問うてくる。
「どうするっていわれてもな……。寝殿を空けてどうこうするしかないだろ」
 香澄は内大臣家に婿入りした形になるので、本来なら雅人たちの邸にいる桔梗のもとへこの邸から通う形を取らねばならないところなのだ。
 それを性別の事情もあって、香澄が早々に桔梗を引き取った形にしているだけの話で、その妻を自邸にを引き取るという話にしても、引き取る夫が自分の邸を持っていることが前提条件になる。
 父親の権大納言が亡くなったとき、母親が兄の靖名と一緒に任国に下って邸が空いたので、香澄は桔梗を引き取ることができたが、本来ならここは香澄の邸宅ではなく靖名の持ち物なのである。
 住まわせてくれと頼めば快く了承してくれるだろうが、妻が夫の家族と同居するのは嫁と姑で家の火が二つあることとされて忌まれている。
 どこか邸を買おうにも、それほど経済的に潤っているわけでもない。
 いっそのこと、羽常はつねに自分の身の回りのことはまかせて、桔梗を内大臣の邸に戻すべきだろうか。そうすれば彼女がこの歳で家政を取り仕切る必要もなくなる。
 香澄が唸っていると、桔梗があっさりと提案した。
「あたしのとこに、いこっか?」
 最初、雅人のところを指しているのかと思ったが、すぐにそうではないことに気がついた。
 桔梗は内大臣邸のことは伯父さまのところとか、雅人兄さんのところと言う。自分の家だとは絶対に言わない。
 彼女にあたしのところと言わしめる場所は、ただひとつ。
「……三条邸さんじょうていは売ったんじゃなかったのか」
 桔梗が両親と住んでいた邸は、彼女が内大臣家に養女にされた時点で処分されたものだと香澄は思っていた。
 桔梗は淡く笑う。
「売れないよ。父さまと母さまが残してくれたお邸だもの。たとえけがれていても、手放せない」
 現代において死はもっとも大きな穢れとされている。家の主とその妻が流行り病で息を引き取った邸では、売ろうにも買い手がだれもつかなかったのだろう。
「ずっとほったらかしにしていたお邸だから、あちこち手を入れなきゃいけないと思うけど、イヤじゃなかったら香澄ちゃんとそこに住みたいな」
「もういいのか?」
 香澄の問いに、桔梗は笑って頷いた。
「うん。もういいの」
 生前の桔梗の両親は、子どもの香澄の目から見ても仲のいい夫婦で、娘を心の底から愛していることが一目でわかった。
 桔梗も両親のことが大好きだっただろう。
 しかし二人とも、その頃京で猛威をふるっていた疱瘡もがさ(天然痘)にかかり、体中に火膨れのようなかさを作ってあっと言う間に死んでしまった。
 桔梗がかからなかったのは奇跡に等しい。
 疫神が愛娘にも襲いかかることを恐れた彼女の両親に命じられ、乳母の瑞葉みずはが引き離すように桔梗を邸の外に連れだした。そうして妹になる香澄の乳母のところに身を寄せて以来、彼女は三条邸には戻っていないはずだった。
 桔梗の耳に入れてはいないが三条邸はそれ以来、住む者もなく荒れ放題で、名家権門が軒を並べる左京にあるにもかかわらず、いまでは鬼の名所と言われる河原院かわらのいんと同じ扱いを受けている。
 しかし香澄にとってもよく遊びに行った場所だ。鬼なぞ出るはずがない。桔梗の鬼子説と疱瘡への恐怖からきた根も葉もない噂に決まっている。
 提案に反対する理由などどこにもなかった。
 桔梗が両親を思い出して哀しくならなければそれでいい。
「香澄ちゃんがそれでいいなら、雅人兄さんに話して、人をやってもらうね」
 白絹を台に全部積み直すと桔梗は立ち上がった。
 桔梗の立ち振る舞いは、いつみても優雅だ。さすが今は亡き両親共に風流人と謳われただけのことはある。
 もっとも挙措にも気性が出るのか、ときどきあまりにおっとりしていて香澄にはまどろっこしく感じることもあるのだが。
「そうだ。香澄ちゃんに頼まれていた狩衣の用意できてるよ。持ってく?」
「ああ」
 きちんとたたまれた鴨頭草つきくさの重ね(表縹、裏薄縹)の狩衣が香澄の前に置かれた。名前通り、露草の色合いに綺麗に染められている。
 極力薫りをつけないようにという香澄の注文に答えて、風にあてたあとは唐櫃のなかにしまわれていたらしく、香は微かに薫るだけだった。
「ありがと」
「でも、狩衣なんか御所に持っていってどうするの? 御所ではこんなもの着れないでしょ?」
「桐耶に頼まれたんだよ。オレも知らないよ」
 そう言って香澄はごまかした。
 まさか東宮がお忍びするのに狩衣が必要だから、などとは言えない。いくら相手が親友でも言えない。
 東宮も狩衣を持っていないわけではないが、如何せん仕立てが良すぎて、貴賤が入り乱れる市とはいえ浮いてしまう。
 桐耶はこれまでに何度も狩衣を用立てているせいで、すっかり家の不審―――というか東宮のお目付役である東宮大夫の兄の不審を買ってしまっているらしく、香澄にお鉢が回ってきたのだ。
「桐ちゃんに? 変ねぇ」
 不審がったものの特に桔梗は追求することなく狩衣を香澄に渡した。
 東の対の薫き物の香が狩衣にしみてしまう前に、香澄は寝殿に戻っていった。
 それを見送ってから、桔梗は何やらちまちまと手作業をしている柚葉をふり返る。
「柚葉?」
 見れば、何やら薬玉くすだまからせっせと糸やら紐やらを抜いて集めている。
 薬玉は色々な香料を入れた袋を円形にし、よもぎ菖蒲しょうぶ、造花などで飾って五色の糸を垂らした可愛らしい魔除けだ。
 つい先日、端午の節句からいままで柱に飾ってあったこれを、重陽の節句で作った菊の匂い袋と取りかえたのだが、そのお役ご免になった薬玉を構成していた紐やら糸やらがどうなるかといえば、再利用。ものを結わくのに使ったりするのだ。
「桔梗、これもらってもイイ?」
「いいけど、何に使うの?」
「色々。ひな(人形)とか、飾る。ダメ?」
「いいよ」
 嬉しそうに柚葉が紐を綺麗にまとめて、傍にあった紙で包んだ。
 柚葉は桔梗に仕える使用人で、いまは女童めのわらわだが、成長すれば女房になる。仕える立場で雛で遊ぶというのもおかしな話なのだが、これは桔梗が柚葉を甘やかして可愛がっているせいだ。
 桔梗自身はといえば、あまり雛遊びをした記憶はない。何かにつけて香澄に外に引っぱり出されて、藤棚に登ったりしては乳母に怒られていた。
「そうだ、柚葉。明日、久しぶりに市に行ってみようか?」
 柚葉の顔がぱあっと輝いた。
「行く!」
 桔梗はあちこち出かけるのが好きだった。目立つ髪の色をしているので滅多に出歩かないが、よく香澄にせがんで牛車であちこちドライブに連れていってもらう。
 市にも何度かお忍びで行ったことがあった。
 柚葉が嬉しそうに目をきらきらさせながら、桔梗の袖をつかまえた。
「行く。連れてって」
「はいはい」
 今から楽しそうな柚葉の様子を見て、桔梗はくすくす笑ってその頭を撫でた。

〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)

寝殿……しんでん。寝殿造りの寝殿ですね(笑)。邸うちでいちばんエライひとが住むとこでした。普通は邸の持ち主が一番エライんですが、源氏物語では源氏に降嫁した女三宮が寝殿に住んでます。

三条邸……三条大路にあるので三条邸です。詳しくは左京三条二坊十三町。よりにもよってそんなとこ(笑)。ちなみに、ジャパネスクの瑠璃姫の邸も三条邸です。香澄のおうちは四条。

河原院……かわらのいん。六条にある左大臣源融の名邸。しかしそれは九世紀の話で、十世紀過ぎる頃には荒れまくっていたそうな。光源氏の六条院のモデルといわれる四町ブチ抜きの広大なお邸(普通の邸は一町)。

鴨頭草の重ね(表と裏)……鴨頭草とは露草の古名。表、縹。裏、薄縹。

……ひな、ひいな。雛人形と思ってくれてまず間違いないです。マンガ版陰陽師では真葛がこれで呪詛ごっこして遊んでますが何に使うかは人それぞれ(笑)。