香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――鴨頭草つきくさの巻〈三〉

 女性が市に行くというのは、準備だけでも結構時間がかかる。
 まずぞろぞろと長い裾を引いたうちき姿を壺装束に改めねばならない。
 裾を引きずる長袴を短い切袴に変え、髪は童のように根本できっちりとまとめて小袖のなかに着込める。袿の裾を腰帯にはさんで、最後に被衣かづきで顔を隠した。市女笠の垂衣たれぎぬでは髪の色が透けて見えてしまうのだ。
 その点、被衣ならば、髪をきっちりまとめて小袖のなかに着込めていればまず見えない。前髪も、深めに衣をかづけば隠れてしまう。
 柚葉がぞうりをぱたぱた鳴らしながら、小走りに先を急いでいる。
「柚葉、市は逃げないよ」
「いや、逃げる」
 めちゃくちゃなことを言いながら、柚葉が桔梗の元に戻ってきて、その手を握った。
「迷子防ぐ」
「うん。柚葉はすぐにどこか行っちゃうからね」
 そう言ってうなずいた桔梗に、ぷうっと柚葉がふくれた。
「違う。迷子は、桔梗」
 柚葉が迷子になって、離ればなれになるのか。それとも桔梗が柚葉を見失って、はぐれてしまうのか。
 こればかりはどっちの言い分が正しいのかは永遠の謎だ。
 どちらが迷子になるのかで特に言い争いをすることもなく、桔梗と柚葉は仲良く市を歩き回った。
 人形を節回しの面白い唄に合わせて操る傀儡師くぐつやら、他の芸をする遊芸人がいて、説法する僧がいて、桔梗たちの他にもお忍びらしい壺装束の女性や公達きんだちがいる。
 そこに市本来の呼びこみの声まで重なるのだから、やかましいことこの上ない。
 柚葉が市女から柿や柑子こうじをいくつか買い(なぜなら桔梗は財布なぞ持ち歩かないからである)あちこち見て回っているうちに案の定というべきか、
「はぐれたわね」
 柚葉の姿を探して、桔梗は辺りを見回した。
 同じ年頃で似た背格好の女童めのわらわはあちこちにいて、どれがどれやら皆目見当もつかない。
 牛車の方に戻れば行き違いもなく落ち合えることは間違いないので、桔梗は特に慌ててはいなかった。
「どうして柚葉とどこか出かけるたびにはぐれちゃうんだろう」
 軽く首を傾げて考えこんでいると、行く先でわっと声があがって人の流れが乱れ、やがて人垣ができた。
 喧嘩だ、という声も聞こえる。
 かっぱらいも出没する市では喧嘩など日常茶飯事だが、桔梗にとっては珍しい。
 しかしわざわざ見に行くほど好奇心旺盛ではない。
 ふぅんと思いながら、人だかりの脇をすり抜けて先に行こうとしたときだった。
 突然、人だかりのなかの一人が周囲に押されたらしく、桔梗の方に倒れかかってきた。
 とっさに避けられるほど桔梗はすぐれた反射神経の持ち主ではない。どちらかというと鈍くさい部類に入る。
 当然ながら倒れてきた相手に巻きこまれ、一緒に転倒した。
「えぇ?」
 被衣がずれかかるのを押さえ、道に座りこんだまま、まばたきしていると、倒れかかってきた相手はすぐに、謝りながら桔梗が立ち上がるのに手を貸した。
「失礼。怪我はありませんか?」
「平気だけど………」
 不意に相手が驚いたように桔梗を見たが、彼女の方も同じくらいびっくりして相手を―――正確には相手の着ている狩衣を見ていた。
 鴨頭草つきくさの狩衣だった。色の具合も昨日香澄に手渡したものに間違いがない。衣というのは各自が家で染めて仕立てるものだから、見間違うはずがないのだ。
 着ている相手は見覚えのない人物だった。―――もっとも、貴族の姫君の顔見知りなどたかが知れているが。
「あなた、誰?」
 相手の男は驚いたように目を見張ったが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「あなたこそどこの姫君ですか。とてもよい薫りがする」
 市には辻取りナンパ目当ての男も多いが、桔梗は目の前の相手がそういう手合いではないことを見抜いていた。
 だいたい、香澄に渡した狩衣を着ているというのが解せない。
「あなたの着ている狩衣からも、同じ薫りがするはずよ。頼まれて薫りを飛ばしはしたけれど、完全には消えてない」
 男は軽く眉をひそめた。
「―――では、あなたが内大臣家の桔梗姫ですね」
 今度は桔梗が、軽く眉をひそめる番だった。
「あなたは、誰? どうしてあたしが香澄ちゃんに預けた狩衣を着ているの? 桐ちゃんの知り合いなの?」
「桐………桐………?」
 口の中でくり返して首を傾げていた男は、心当たりを思いついたらしく肩をふるわせて笑い始めた。
「もしや衛門佐えもんのすけのことですか?」
「………ああ、そういえば去年の除目じもくで衛門佐になったって言ってたっけ」
 桔梗の言い様に、男はさらに吹き出した。
 あたりは喧嘩の野次馬でやかましく、桔梗と男のやり取りに注意を払う者はいない。
「これは失礼。言い換えましょう。きりとは右大臣家の藤原桐耶とうやのことですか」
「そうよ。香澄ちゃんはわかるでしょ?」
「あなたの背の君の源侍従げんのじじゅうでしょう? しかし、あなたは本人に向かってもそう呼んでいるんですか?」
「いけない?」
 桔梗が小首をかしげると、とうとう男は笑いすぎて腹が痛くなったらしく、しゃがみこんだ。笑っていると、鋭い雰囲気が消えて信じられないくらい子どもっぽく見える。
 言ってはなんだが、笑い上戸かもしれないと桔梗は思った。
 それよりも狩衣だ。
 桐耶と香澄のことを知っているならば、桔梗の素性を言い当てたのも納得がいくが、それでもやはり狩衣の謎は残る。
 ようやく笑いの波は過ぎ去ったらしく、男は立ち上がった。立つと、桔梗が小柄なせいもあって、かなり二人の背丈の差が開く。
「あなた、誰。どうしてあたしが香澄ちゃんに渡した狩衣を着ているの」
「衛門佐は私に狩衣を貸すために、源侍従から狩衣を借りたんですよ」
 桔梗は、つと相手の襟元に視線をやると、それから顔をあげてきっぱりと言った。
「あなたが狩衣を持ってないわけないじゃない」
「どうしてそう思われる?」
 桔梗の、色の薄い透けるような瞳が相手を注視する。こうも相手に顔をさらすことといい、視線を据えることといい、姫君にあるまじき振る舞いであるが、このさいそれらのことは考慮しない。
「あなたの狩衣の下に着ているひとえ、とても良いものだもの。身のこなしもそうよ。桐ちゃんの知り合いなら、それ相応の身分のはずだもの。どうして狩衣を持ってないなんてことがあるの」
 桔梗の言葉を黙って聞いていた男の瞳に、面白がるような表情が浮かぶ。
「頭の良い方だ」
「あなた、誰?」
「衛門佐の知り合いですよ」
「ちゃんと名乗ってくれる?」
「困ったな」
 苦笑した男は、不意に桔梗の頭越しに何かを見つけたらしく、急にそわそわと落ち着きをなくした。
「すいません。いまここであなたと話をしていると、私を捜している友人に見つかってしまいます」
「あたしはそれでも困らないわ」
「いえ」
 男は意外な言葉と共に意地悪そうに笑った。
「あなたも困る相手ですよ」
「え………?」
 桔梗がきょとんとしていると、男は桔梗の手を取って足早に歩き出した。
 これではまるで本当に辻取りナンパだ。
「離して」
「そっと後ろを覗いてごらんなさい」
 不機嫌そうに顔をしかめたまま後ろをふり返った桔梗は、危うく声をあげそうになった。
「桐ちゃん………!」
 よく見知った幼なじみが血相を変えた表情であたりを探し回っている。
「どうです。困るでしょう? お互いに困るので、ここで会ったことは侍従や衛門佐には秘密と言うことにしていただけませんか」
 図々しいその言いぐさに桔梗はムッとした。
「いやよ」
「桔梗姫」
「不公平だわ」
「不公平………?」
 相手は唖然とした顔で桔梗を見た。
「何が不公平なのです?」
「あたしの名前だけ知られているなんて不公平だと思うの。黙っていてほしいならあなたの名前を教えて」
「それは勘弁してください。仕事を抜け出して来ているんです」
「ずるい。そういうことを言うんなら、桐ちゃんに聞くからいい」
 狩衣の袖を桔梗にしっかりと捕らえられて、相手は苦り切った顔をしている。
「あまり私を困らせないでください。大方予想はつくでしょう?」
「ええ」
 さらりと言われて、相手は絶句した。
 桔梗は、被衣の奥から相手を見上げる。
「あなた自身から、とてもいい薫りがする。尋常じゃなくいい薫り。だいぶ飛ばしてあるけど、源朝臣みなもとあそんの秘方の流れを汲む百歩香だわ。まず間違いなく、あなた狩衣を借りる必要なんかない。桐ちゃんや香澄ちゃんなんかより、ずっとずっと身分が上よ。だから聞いてるの。わざわざ狩衣を桐ちゃんから借りなくちゃいけない変わった殿方だなんて、さっぱり思い当たらないもの」
 男の目つきと表情が鋭くなった。
「油断のならない姫ですね」
「だから名前を教えてくれる?」
「それだけはダメです」
 桔梗も頑固だったが、相手も頑固だった。
 なおも問いつめようと、桔梗が袖を捕らえなおしたときだった。
「桔梗―――!」
 遠くから聞こえた柚葉の声に、彼女の気がわずかに逸れたのを見計らって、袖が素早く取りかえされる
「あッ」
「失礼。ではこれで」
「ずるい………!」
 さっさと角を曲がって消えてしまった男を桔梗が憮然として見送っていると、そこに柚葉がやってきた。
「桔梗、見つけた。―――桔梗?」
「………柚葉。牛車で待っててもよかったのに」
「どした、桔梗?」
「変な人に出逢ったの」
 柚葉にふわりと笑いかけてから、桔梗は再び視線を男が消えた小路の先へとやった。
 色の薄い目が不思議そうに細められて、ゆるりとまばたいた。
 その一部始終を人混みに紛れて観察していた人物がいた。
「へぇ。面白いもん見たな」
 端正なその顔は笑ってはいるが、目の奥に皮肉っぽい光がある。
「どうしたの?」
 腕のなかの遊びに声をかけられて、男は種類の違う笑顔へと表情を変えると、女のこめかみに口づけを落とした。



 がたりごとりと揺れる牛車のなかで、クスクスと笑う声がしている。
 はぐれたことに対しての香澄と桐耶の小言を聞き流しながら、何かを思い出して笑っているのは東宮だった。
「………東宮さま、桐耶の話を聞いておられますか?」
「聞いてはいる。覚えてはいないが」
「…………」
「侍従の君は、北の方が可愛くて仕方ないのだろうね」
「は?」
 いきなり何を言い出すのかと香澄と桐耶が呆気にとられた顔をする。
「可愛いというか………大切ではありますが」
 これは掛け値なし香澄の本心からの言葉だった。
 返しきれない借りがある、大事な親友だ。
 なにせ女の自分と結婚したせいで、桔梗は人生を棒にふっている。彼女自身は気にしてなくても香澄は気にするし、雅人も華奈も気にしている。
「仲がいいのはうらやましいことだ………」
 物見窓から景色を眺めながら、東宮がぽつりと呟いたので、香澄と桐耶は互いに視線を見交わした。
 桐耶の姉である紫乃姫と東宮の仲が良くないのは、周知の事実である。
 狩衣を脱いで、きちんとした装いに着替えて内裏に帰り着いた東宮を待っていたのは、梨壺の簀子縁に仁王立ちになっている東宮大夫とうぐうだいぶの姿だった。
「げっ、兄貴………」
 逃げ腰になる桐耶の直衣のうしの袖を東宮と香澄がしっかりひっつかむと、観念したのか彼は恐る恐る片手をあげた。
「や、やあ、兄貴」
「やあ、じゃない!」
「どうした鷹哉たかや。顔が引きつっているぞ。これでは愛しい姫に嫌われるのではないか?」
 しれっと東宮が言うと、鷹哉は顔を真っ赤にした後で憤然と叫びだした。
「どうしたではありませぬ。わたくしの顔なぞどうでもよいのです。いままでどちらにおいでだったのですッ !?」
「三条の市だ」
「市………!?」
 泡を吹かんばかりの形相に、今度こそ本当に桐耶が逃げようとしたのを香澄がすばやくつかまえる。自分だけ怒られてたまるかという魂胆だ。
 案の定、いち、いち、と呟いていた鷹哉はギロッと桐耶を睨みつけた。
「桐耶―――ッ !!」
「うわっ。オレじゃないって。どうしてもとおっしゃるから………!」
「ええい。こういうのはお前たちさえ頷かなければ未遂ですむのだッ」
 なるほど一理あるかもしれないと思ってしまった香澄である。
「女御さまがそれどころではないというのに、東宮さまはいままで呑気に市など遊び歩かれて………! 梨壺に参れば簾中れんちゅうには女房方しかおられぬし………東宮さまッ」
 噛みつかんばかりに鷹哉が東宮の方を見る。東宮はさっきまでの悪戯小僧のような表情を引っこめて、扇で鷹哉のセリフを遮った。
「まて、小言は後で聞く。女御がどうしたのだ?」
「兄貴。紫乃姉貴―――じゃない。女御さまがどうされたんだ?」
 桐耶も重ねて兄の鷹哉に問いかける。
「ああ。そうだ。わたくしはそれを申し上げに来たのです」
 二人に問われて、やっと鷹哉は本来の目的を思い出したらしく、改まって東宮に平伏すると、言った。
「お喜びください。桐壺女御さま、ご懐妊にあらせられます」

〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)

壺装束……つぼしょうぞく。女性の外出着。百聞は一見に如かず。

切袴……きりばかま。現代でいう普通の袴。昔の普通の袴は足の長さより遙かに長かったのです。

小袖……こそで。現代でいう着物。袖の部分が小さいから小袖(笑)

垂衣……たれぎぬ。市女笠のまわりにぐるっとベールのように垂らした、薄い布。