香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――鴨頭草の巻〈四〉
桐壺女御懐妊の報は、すぐに貴族たちの間に広まった。
女御の父親である右大臣など泣いて喜んだという。
めでたいことであるというのが、人が集まってその話をするたびに口にされる大方の見解だったが、それにはこの懐妊によりいままで硬直していた政治的な動きが再び流れ出すだろうという予測も含まれていた。
もし生まれてくるのが男皇子なら、帝はその孫を次の東宮に据え、今の東宮に譲位し院となるだろう。現在の帝は不惑の年頃。そろそろ新しい御代が始まってもおかしくない。
桐壺女御の慶事が知れ渡ってから数日が過ぎた、ある日。
「咲ちゃん、後宮のお話はあれから出た?」
あまりにさらっと桔梗がそう口にしたため、貝合わせの貝を手にしたまま咲姫の動きが固まった。
彼女の出家騒動の一件以来、二人は頻繁に文を交わすようになっている。今日は咲姫が桔梗のところに遊びに来て、二人仲良く貝合わせ(神経衰弱)をしている最中だった。
硬直から脱すると、咲姫は小さくかぶりをふる。
「いえ」
「そう。ならいいの。ちょっとそういう流行りが来そうだから気をつけてね―――貝はそれでいいの?」
問われて、咲は慌てて手にしていた貝を中央にひとつ置かれた親の貝に合わせた。合いそうで合わない。
「ダメです………」
「じゃあ、あたしの番ね」
桔梗が伏せられた貝に視線を落とす。
その集中の妨げになるとは思いながらも、咲はそっと桔梗に声をかけた。
「あの、桔梗姫さま?」
「なあに?」
「さっきのお話なんですけど………そういう流行りとはどういうことですか? まさかどこか他の姫君にそういうお話があるんですか?」
「まだそういう話は聞いてないよ」
貝の模様に視線を固定したまま顔もあげずに桔梗が答えた。傍らでは柚葉が同じ様に貝に目を凝らしている。ちょっとした仕草のひとつひとつがよく似た主従だった。
「ああ、これかな」
桔梗が白い指で貝のひとつを取りあげ、中央の貝に合わせる。今度は寸分の狂いなくぴたりと貝は合わさった。
それを見て、咲はほうっと溜息をついて脇息にもたれかかった。
「桔梗姫さまはお強いです。私、全然貝がとれてません」
「よく見ればすぐにわかるよ」
とった貝を脇に置いてから、桔梗も同じように脇息にもたれかかって、おっとりと笑った。
「よく見てるつもりなんですけれど」
このおっとりの笑顔にだまされてはいけないと思いつつも、見るたびになんて可愛らしいんだろうなどと、咲は思ってしまう。
「それで、話の続きだけど」
「あ、はい」
桔梗が扇を鳴らした。
部屋の端近や簀子縁に気配のあった女房たちが衣擦れの音と共に遠ざかっていく。
咲も自分のおともとして共に邸に来ていた女房の小野をふり返った。
「お前もお下がり」
「はい」
不服そうな顔をしたものの、小野は柚葉に伴われてゆるゆると部屋から下がっていった。
廂の間には、散らばった貝をはさんで向かい合っている桔梗と咲姫の二人だけになる。
外は少々風が強く、高欄近くに植えられた前栽がざわざわと音を立てていて、ときおり御簾とその手前に置いてある几帳の裾がかすかに揺れた。
視界にかすかにその様子をとらえながら、咲は桔梗へと注意を戻した。
蘇芳色の細長の上をすべっていく、淡い色の髪を見るたびに、
(自分の見せ方を知っている方だわ)
と、咲はつくづく思う。
白や紅などの黒髪に映える色を一番上に絶対に持ってこないのである。落ち着いた、どちらかというと濃くて暗い、渋めの色を選んで着ているのだ。
襲ね色目の美の基準から逸脱しているし、世間一般の女房たちが見れば地味だと言って嫌う色合いなのはたしかだが、桔梗の髪の色を考えるとそうしたほうがすっきりと落ち着いて見苦しくないのも、また事実である。
桔梗のそういうところを見つけるたびに、ますます咲は彼女を好きになる。
「咲ちゃん、聞いてる?」
「あっ、はい。聞いてます!」
慌てて咲が返事をすると、桔梗は軽く小首を傾げてから話しはじめた。
「淑景舎さまがご懐妊なされたじゃない?」
「はい。そう聞いています」
使用人は主に似るのか、おっとりした咲の周囲では女房たちもおっとりしていて、巷に流れる噂を主の耳に入れる者は少ないが、さすがにこの話だけは咲も知っていた。
「だから」
「は?」
「だから、気をつけてね」
咲は首を傾げた。
さっきまで入内の話をしていたはずである。
桔梗が入内が『流行り』そうだなどと、変わった言い回しで自分へ注意を促していたのだ。
いまも「気をつけてね」と言われたことから考えると、桐壺女御の懐妊と東宮への入内が『流行る』こと―――ひいては自分の入内には、何か関係があるらしい………。
咲がわかったのはそこまでだった。
「桔梗姫さま、私に入内のお話は出ていませんけれど、淑景舎さまがみごもられたことと、東宮様への新たな入内とのお話にはいったいどういう関係があるんですか?」
桔梗は咲を見て、ひとつまばたきするとあっさりと言った。
「みごもられたから」
「え………?」
「東宮様には現在、右大臣家の紫乃姫さましかおられないでしょう?」
「そうなんですか?」
そのあたりに疎い咲は首を傾げた。たしかに桐壺女御以外の東宮妃の話は、聞いたことがないかもしれない。
「そうなの。それはね、右の大臣が入内を牽制なさっているからだと思うの」
「牽制?」
「つまり邪魔ね」
「邪魔ッ !?」
咲は思わず大きな声を出してしまい、慌てて扇で口元を隠した。
「桔梗姫さま、いきなり何を言い出すんですか」
「多分本当だと思うな。咲ちゃんは東宮さまにお妃がお一人しかいらっしゃらないのを不思議に思わない?」
「え、でも、それはまだ東宮の御位にあられるからで、即位なされば多くの姫君が入内なさるのではありませんか?」
「主上が東宮であられたときには、すでに中宮様と、いまはもう儚くなられたけど弘徽殿女御さまがいらしたって話よ」
「知りませんでした………」
咲は急に胸がどきどきしてきて、思わずそこに手をやった。いま聞いている話の内容が、自分は想像したこともないような次元に達しようとしていることがわかる。
「右の大臣が紫乃姫さま以外の入内に渋い顔をなさっておられるのは、東宮さまにはいままで御子がおられなかったからよ。だから民部卿さまも咲ちゃんを入内させようとしたんじゃない。前言っていたように、もし咲ちゃんが入内して男皇子でも生みまいらせば、先に紫乃姫さまを入内させていた右の大臣は困ってしまうもの」
「それは、右大臣さまも私の父上と同じことを考えておられるからですか」
「そうよ」
「まあ………」
予想もしなかったことに、咲は扇を持つ手がふるえた。
言われれば、自分の父親が考えていることを他の人が考えないはずはないのだ。ただそこまで咲の思考が考え至らなかっただけだ。しかし世にある姫君たちのなかで、いったい何人がそこまで考えが及ぶというのだろう。
「牽制というよりは単に嫌がられているだけなんだと思うけれど、なにせお立場が右大臣であられるから、下の位にいる人たちはみんな、ご不興を買うことを恐れて姫君の入内を見合わせてしまうのね。もし入内させたら、紫乃姫さまと東宮のご寵愛を競うことになるじゃない?
ご不興を買うのを恐れない立場にいるのは同じ大臣の左の大臣と内の大臣だけれど、左の大臣は藤壺中宮さまのお父上であられるぐらいだから入内させる年頃の姫君なんていらっしゃらないし、そのお孫さんのなかにも、内大臣家の姫であるあたしの従姉の華奈ちゃんしかいないのよ。だけど華奈ちゃんはいまは中宮さまのところに出仕してるし。
だから東宮さまのもとには、本当はたくさんの姫君が入内なさっていても不思議はないはずだけれど、いままで妃がおひとりしかいなかったの」
「でも、淑景舎さまはご懐妊なされました。来年には若宮、もしくは姫宮がお生まれになるはずです」
咲の言葉に桔梗はにっこり笑った。
「だから右大臣さまも一安心されてるわ。姫宮さまだと残念がるでしょうけど、まずは淑景舎さまが一の皇子をお生みになられるわけだし、他の人が姫君を東宮さまのもとに入内させても嫌がらなくなるだろうから、いままで不興を買うことを恐れて入内を見合わせていた人とかも姫君を入内させるだろうなって思うの」
「だから入内が『流行り』そうなんですね」
「そういうこと。でも多分、殿方にとってはこれくらい常識かもね」
笑って目を伏せた桔梗の色の薄い睫毛を見つめながら、咲は溜息をついた。
生まれてこのかた考えつきもしなかったことを教えられて、何やら思考が飽和気味だ。
ついさっきまでは桐壺女御が懐妊したという事実は知っていても、それにともなって入内の動きがあることなど青天の霹靂だったのだが、こうして教えられてしまえば父親が自分の入内の話を蒸し返しそうなのがよくわかる。
自分の思考レベルが一段階引き上げられたような気分だ。
しかもそれをやったのは内裏に出仕して政にかかわっている殿方ではなく、目の前に座っている小柄な姫。風になびく秋の枯れ野のように薄く淡い色の髪が、畳の縁を越えて床の上に渦を巻いている。
咲は再びほうっと息を吐いた。
「桔梗姫さまはすごいです。私、そんなこと全然考えつきませんでした」
「………そう?」
「はい。私なんか噂をただ聞き流すだけで、そこまで考えが及びませんでしたわ」
どういえば、この高みに引きあげられたような視野の広がる感覚を伝えられるだろうか。
懸命に自分の言いたいことを伝えようとした咲は、桔梗の視線とかち合ってどきりとした。
まるで一対の琥珀のような瞳。
こんな眸で見つめられたことは、ついぞない。
「やっぱり、あたしは、おかしい?」
「………桔梗姫さま」
視線に呑まれそうになって、咲は息を飲んだ。
桔梗は、真白だ。
髪も睫毛も双眸も、何もかもが淡い色をして、肌も白粉を塗る必要がないほど白い。
優しいとか、頭がいいとか、そんな言葉では表せない、彼女だけにしか持ち得ない『何か』の存在を、これまでのやりとりから咲は感じとっている。
何とか自分の思っていることが桔梗に伝わってほしくて、咲は重ねた袿の袖のなかで、我知らず扇をきつく握りしめていた。
「姫さまは、たしかに変わった方です。でも、私は桔梗姫さまのそんなところが大好きです。ですから、全然おかしくありません。もっと私に話してください」
「…………」
桔梗が次にまばたきしたときには、琥珀の双眸は一瞬前の透き通るような表情が嘘のように濃くなり、落ち着いた光を浮かべていた。
ふうわりと笑うと、桔梗は小首を傾げて咲を見た。
「あたしも、咲ちゃんが好きよ?」
蘇芳の濃い薄い。紫苑、淡い黄色、青などの、溢れる色のなかに埋もれてしまいそうな桔梗は、とても綺麗だった。
〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)
※貝合わせ……壁紙がいちばんの参考になるかと。本来はハマグリの貝の優劣を競う遊びで、貝の内側に絵が描かれ、神経衰弱の遊び方になり、なおかつ嫁入り道具の必須アイテムになるのは鎌倉以降となります。が、やはりここは絵が描いてあったほうが雅なので見逃してください(笑)
※弘徽殿……こきでん。藤壺の右隣にあった建物で、やはり後宮の女御がすまう場所でした。ちなみに藤壺中宮も弘徽殿女御も最初からここに住んでいたわけではなく、天皇が即位したときにお引っ越ししてきてこう呼ばれるようになりました。
※淑景舎……しげいさ。桐壺の正しい名称。
※女御たちについて……ここらへん女御がたくさんでてきて、何やらややこしそうですが、作中での天皇や東宮の妃を紹介しておきます。
まず、淑景舎(桐壺)に住む桐壺女御。こちらは東宮の奥さんで、桐耶のお姉さんである紫乃姫です。
そして東宮のパパである天皇の正式の奥さんが、藤壺(飛香舎)に住む中宮。こちらは華奈の仕える主で、東宮のママさんです。
藤壺中宮以外の他の天皇の奥さんは故・弘徽殿女御と、あとは文中に出していませんが麗景殿女御(こちらは存命)がいます。
天皇のキサキの位は、最高位の三后と呼ばれるのが太皇太后・皇太后・皇后(中宮)で、その後は女御、更衣、と続きます。また、子どもを生んだ女御や更衣は御息所と呼ばれるようになります。