香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――黒方の巻〈一〉
「更衣をすると、なんだか途端に寒いような気になるから不思議だわ」
神無月はじめの更衣を終えて、華奈は飛香舎の勾欄に寄りかかりながら扇の影であくびを噛み殺した。
飛香舎―――藤壺と呼ばれる。当然ながら内裏の後宮の一角だ。
人目を避けて北面に出てきているので、藤壺の名の由来の藤ではなく、渡殿と塀の隙間から北隣りの凝花舎―――梅壺の梅が目に入る。どっちにしろ、この季節では枝ばかりの淋しい風情なのだが。
勾欄の縁に扇を押しつけて閉じたり、また開いたりしながら華奈はひとりごちた。
「桐壺女御さまもお宿下がりなさったし、なんだか後宮全体がぱっとしないわねぇ」
残菊の宴も終わり、いちばん大きなイベントである五節までの間、内裏は行事のエアポケットだった。それに向けての準備で朝廷はばたばたしているのかもしれなかったが、女房の彼女にとっては関係のないことだから、暇には違いない。
帝や中宮が思いつきで管弦の宴でも催すかもしれなかったが、なにぶん突発的なことなので予測がつかなかった。
「千早の君」
「はぁい」
呼ばれて、華奈は勾欄から身を離した。
千早という候名は慣例を全部無視した完全なるあだ名だった。最初はきちんとした女房名があったのだが、華奈の気性が周囲に知れ渡るにつれ、自然と今の名で呼ばれるようになってしまい、元の女房名などもはや誰も使わない。
千早とは「ちはやぶる」の「千早」で、勇ましい、激しい、勢いがある、などの意味の言葉だ。
権大納言(当時の内大臣の官位がそうだった)の一の姫という肩書きに惹かれて和歌などを詠みかけて手痛い目にあった公達連中がこっそり呼び出したのが始まりだったのだが、ある時その自分の呼び名を耳にした華奈が「まあ、『をかし』くも『ゆかしき』名ですこと」などと平然と笑ったものだから、とうとう主の藤壺中宮までその名で呼ぶようになったのだった。
それはともかく、内大臣の姫―――しかも総領姫が女房として働いているなどあまり前例がない。というより、むちゃくちゃだった。公家の娘が宮仕えに出る場合、それはすべて父親が亡くなってから―――つまり家が没落してからの話で、まっとうな姫君は絶対にそんなことはしない。
華奈の父親である内大臣にとって、藤壺中宮が華奈の母親の姉―――つまり内大臣にとっては義姉にあたる。
その身内としての気安さもあり、内大臣は中宮への目通りと内裏の雰囲気の下見を兼ねて、当時十三歳だった華奈を参内させた。参内させて、さあ帰ろうかという段になって華奈がごねたのが宮仕えの始まりだ。
渋々折れ、短期間だけと目論んでいたその華奈の宮仕えはかれこれ四年になり、いまは一の女房である小宰相に次いで中宮から頼りにされ、娘のように可愛がられている。言ってしまえば、華奈の扱いは女房と客人の間ようなものだった。藤壺でもっとも格上なのは中宮だから、その中宮の用向きは勤めるが、それ以外ではむしろ華奈は丁重に扱われる側になる。
その華奈も年が明ければ十八になる。いいかげん婿を取らないと嫁き遅れも近い。
最近では毎日のように父親から宿下がりをしろと文が届く。
(んなこと言ったってねぇ。宮仕えが楽しいんだもの。中宮さまはいい御方だし)
華奈とて婚期を逃したいわけではなかったが、内裏で結婚相手と目される公達を見るにつけ、どうもいまいち好みのタイプがいないのだから仕方ないではないか。
出世頭とおぼしき、将来性のある公達を婿に迎えるのが世の習いなのだが、あいにく抜きん出て優秀なのは実の兄なのだった。
華奈の背後の孫庇の間から、中納言という候名をいただいている女房が姿を現した。
「千早の君、そんなところで何をなさっているの。寒くはなくて?」
「どうかしたの? 中宮さまがお呼びでいらっしゃるのかしら」
「いいえ、そういうわけではなくてよ。ただ暗くなってからこんなところに一人でいるから、どうしたのかと思って」
中納言は華奈が簀子縁に放り出してある文を見つけて、自身も簀子縁に座りこんだ。
「なあに? 殿方からの恋文?」
「まさか。こんな色気のない結び方をした文があって? 父上からよ」
香も何も薫きしめていない無骨な立て文を扇で手元に引き寄せながら、華奈は仏頂面で答えた。
「このところ毎日のように内の大臣からのお文がきてらっしゃるわね」
「そうよ。帰ってこい帰ってこいってうるさいのよ」
「千早の君は帰りたくないの?」
「そういうわけじゃないけど。いまはまだ、ここで中宮さまにお仕えしていたいのよね」
顔をしかめた華奈に、中納言が真面目な表情でささやいた。
「でも、そろそろ帰ったほうがいいのではなくて?」
「あなたまでそんなことを言うの?」
げんなりして華奈は中納言を睨みつけた。
その表情に怯え、やや身を引きながらも中納言は話し続ける。
「中宮さまがお気に病まれていらっしゃるのよ」
「…………」
華奈は目で中納言に先を促した。
彼女は扇を開くと、それを衝立にするようにしてささやく。
「あなた、来年で十八になるでしょう? 内大臣家の姫君をいつまでもここに留め置くのも申し訳ないことだとおっしゃられてるの。婿君をお迎えしてからも宮仕えはできることだし、そのうちあなたの宿下がりを口になされるわよ」
「………中宮さまのお気をわずらわせるより、自分から言い出したほうがいいみたいね」
「そういうことよ。私たちも淋しくなるけど、仕方ないわ」
心底残念そうに中納言がそう言うので、本心からの言葉だと知れた。
「教えてくれてありがとう」
華奈がにっこりと笑いかけると、中納言はぽっと顔を赤らめた。
怜悧な顔立ちといい気性といい、華奈はつくづく同性受けする姫なのである。
「い、いいえ。ぼんやりと座りこんで、花が咲いているわけでもない梅を眺めているんだもの、どうしたのかと思ったの」
しゅるっと衣擦れの音をさせて、中納言はそそくさと立ちあがった。
「私はもう戻るわね。あなたもそんな端近にいないで早く中に入ったほうがいいわよ」
あたりはすでに暗く、格子も降ろされ、釣灯籠の柔らかな明かりだけが簀子縁とそこに座る華奈を照らしだしている。艶やかな黒髪が床に渦を巻き、流れていた。
物語絵のようだわと思いながら、中納言は奥へと戻っていった。
華奈は再び一人になった。
灯籠の明かりを眺めながら、勾欄に肘をついて嘆息する。
「あーあ。この分だと年のうちには帰らなくちゃダメかしら。桔梗に好き放題に会いに行けるってのはいいけど、中宮さまにもお仕えできないし、つまんなくなるわ」
宿下がりをすると、やり甲斐のある仕事や役目を仰せつかるわけでもナシ。公達との心利いた啓発されるようなやりとりもナシ。女房たちが大勢で集まって何かおもしろい遊びができるわけでもナシ。
逆に仕事をいいつける立場になり、何でも贅沢に揃う内大臣の一の姫ではいられるが、ただそれだけだ。
あまりにも刺激が少なくてつまらない。
ぶちぶち文句を言いながら、引き寄せた文の返事をどう書くべきか悩んでいたときだった。
人の気配がした。
華奈はすばやく扇を開くと顔を隠し、暗がりに声をかけた。
「そこにいるのは誰?」
なまじ明かりの下にいるだけあって、周囲は暗くて何も見えない。
「誰? 人を呼ぶわよ」
「呼ばれては困ります。―――やれやれ、見つかってしまったよ、宮」
やがて明かりの輪の中に入ってきた人物を見て、華奈は持っていた扇を落としそうになった。
なんでこんなところにこんな人物がいるのだ !?
「東宮さま! それに雪宮さままで………!」
どこで調達したものやら、黒い袍に指貫という公達の宿直スタイルの東宮の背中に隠れるようにして、まだ童姿の侑仁親王が罰が悪そうに顔を覗かせている。
「お二人ともこんなところで何をなさっておいでです !? 」
「そぞろ歩きだ」
「そぞろ歩き?」
あまりにあっさり言われて華奈が絶句すると、東宮が悪戯が見つかった子どものような表情で言い訳を始めた。
「雪宮が自分がいるところ以外の御所の様子を知らないと言うので、案内がてらに夜の散策をしているところだよ」
「兄上………」
慌てたように雪宮が兄宮の袍の袖を引っ張って口を塞ごうとするが、遅かった。
「それが普通ですッ! だいたい禁中を隅から隅まで知っているなど掃司ぐらいのものです」
実際のところどうなのか華奈にもわからなかったが、とりあえずそう怒鳴っておいた。
「お二人とも、ご身分をお考えになってください。いったいどこの国の東宮さまが宿直姿で御所のなかをうろちょろなさるんですか!」
ぴしりと言われて、東宮は首をすくめた。
「さすが千早の君は容赦がない」
「誰でも申し上げますわ。こんなお二人のご様子を見れば」
「うろちょろだなどという言葉を、あなた以外の者が私に使うとは思えないがね」
そう言って、東宮は明るく笑った。
釣灯籠の明かりに照らされ、黒い袍にさらなる陰影がほどこされる。誰に命じて用意させたものやら知れないが、極上の質のものだった。
その東宮の立ち姿に内心ほれぼれと見とれながらも、華奈は扇で顔を隠したまま、わざとらしく溜息をついた。
「さすがにわたくしも人を呼ぶわけにはまいりません。怪しい者が東宮さまと雪宮さまのお二人では」
雪宮は急に明るいところに出たせいなのか、さっきからずっとばつが悪そうに東宮の陰に隠れている。
東宮は生母である藤壺中宮の元によく足を運ぶため、中宮のお気に入りである華奈は彼とは言葉を交わす機会に恵まれているのだが、東宮とは母親の違う雪宮を間近で見たことはなかった。
侑仁親王の生母は麗景殿女御。先の内大臣の姫だったが、後見役であるその先内大臣が亡くなってからは、ひっそりとした暮らしを送っており、普段から母子共々あまり目立たない存在だった。
それでも遅くに生まれた末の親王ということで今上から可愛がられ、三品の位を贈られており、雪の美しい頃に生まれた若宮という意味で雪宮と周囲からは呼ばれている。
子どもは母方の家で育てられるのが普通で、それは親王や内親王などの帝の子女なども例に洩れないが、この雪宮は内裏に曹司を賜っていて、後見役の叔父の中納言邸と内裏を行ったり来たりして暮らしている。
髪をみずらに結った雪宮は可愛らしい顔立ちをしていたが、兄の東宮とはあまり似ていなかった。母親の麗景殿女御似なのかもしれない。
「雪宮さま―――」
「は、はいっ」
怒られる! と思って顔を兄の背に引っこめそうになった雪宮は、扇越しにクスッと笑われて一気に顔を赤らめた。
「夜のお散歩は楽しいでしょう?」
予想外のことを言われて、雪宮はぽかんと口を開けた。
しかし、すぐに慌ててコクコクと頷いた。
「夜はまた昼とは違った趣があって、知った場所も知らない場所のように見えるものですわ」
「そう………そうなんです。さっき呉竹のほうにこっそり行ったときも昼とは全然違って見えて………」
嬉しそうにそう言った雪宮は、兄の東宮が片手で顔をおおったのを見て、びっくりして口をつぐんだ。
何かまずいことを言っただろうかと思い、今度は華奈のほうをうかがうと、こちらは笑っていた目元が嘘のようにつりあがって扇の影から東宮を睨んでいる。
「呉竹ですって? そんなところまで行かれたのですか。滝口の侍に見つかったら一体どうするおつもりだったんですッ!」
見つからなかったことのほうが奇跡だ。
東宮は悪びれずに答えた。
「だから楽しかったんだ。こそこそ隠れて………そうだろう?」
敬愛している兄に問われて、一も二もなく雪宮はうなずいた。
「はい!」
「…………」
華奈は眩暈を覚えた。
そんな華奈を見て、東宮がくすりと笑って何かを勾欄の彼女に向かって差し出した。
「まあ、これでご機嫌を直してもらいたい。記念にと思ってわざわざ手折ってきたのだから」
「まあ、呆れた………」
差し出された竹の枝を見て、華奈はもはや何を言ってもムダだと悟った。
「せいぜいお気をつけ遊ばしてくださいませ。雷壺には鬼が出るとの噂も聞きおよんでおります。なんなら、わたくしがいまここで、知りうる限りの怪しき話をお聞かせいたしましょうか?」
「雪宮を怖がらせてどうする」
「僕はそんな恐がりじゃありません!」
東宮の袍の袖をしっかりと手でとらえながらのセリフに、残る年長者たちは顔を見合わせて、軽く笑った。
華奈が扇を両手で持って、くすくす笑う。
「仕方ありません。恐がりの雪宮さまのために魔除けを差し上げましょう」
「怖がってなんかいませんってば!」
「ならば、東宮さまの御ために」
「やれやれ、で、何をいただけるのかな」
華奈は竹の枝を受け取ると、膝でいざって明かりの輪から遠ざかり、顔を隠していた扇を降ろした。そして懐から数本の色糸を取りだし、竹の枝に綺麗に結びつけた。
両手をつかっての作業中だから当然、顔は釣灯籠の明かりにさらされている。
明かりに照らされてゆらゆらと輝く黒髪が肩から滑り落ちるのを、わずらわしそうに華奈は片手で追いやった。
その姿に雪宮が長いあいだ目を奪われていたことにも気づかず、華奈は色糸を形よく結び終えると、勾欄の下の二人に向かって差し出した。
「はい。どうぞこれをお持ちになって冒険をお続けになってくださいませ」
「これは?」
受け取った東宮が不審そうに尋ねると、扇を持ち直した華奈はころころと笑った。
「端午の節句の薬玉を飾っていた糸ですわ。もう効き目がないかもしれませんけれど、そぞろ歩きにはちょうどよろしいでしょう? もし鬼に遭われても、わたくしのせいにはなさらないでくださいませね」
「やれやれ、とんだものをいただいた。ありがたがらないと、逆に鬼に出逢わされそうだ」
「まあ」
軽く憤慨したフリをして、華奈は立ち上がった。
「わたくしはそろそろ中に入らせていただきます。どうぞお気をつけ遊ばして」
「千早の君から魔除けをいただいたから平気だろう」
笑いながら、東宮は雪宮を促して明かりの範囲から出ていった。
それを見送った後、体が冷えたのか急に寒気を感じたので華奈は慌てて中に入った。
自然と苦笑がもれる。
「まったく………異母兄弟のわりに、仲が良いのはよろしいんだけれどね」
その仲の良さの証拠が、夜のお忍びとは困りものだ。
それはともかくとしても、宿下がり前のいい思い出になるだろうと華奈は思った。
〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)
※更衣……ころもがえ。こうい、と読むと帝の奥さんの身分のひとつになりますが、ここでは衣替えと読みます。昔の人は10月1日に、衣から内装まで全部冬用に切り替えました。
※凝花舎……ぎょうかしゃ。梅壺の呼び名で、文中の通り、藤壺の南隣にありました。華奈たちの内裏では女御もおらず、空き部屋になっているはずです。どういうわけか漫画とか小説では梅壺に住む女御は皆、つり目で意地悪で嫉妬深いです(笑)
※残菊の宴……咲き残った菊を愛でる宴。10月5日。
※五節……ごせち。十一月中旬の丑の日から辰の日まで、四日にわたって行われる儀式で、丑の日には帳台の試み、寅の日には御前(おまえ)の試み、卯の日には童女の御覧があり、その夜に新嘗祭が行われ、帝がその年の新穀を神に供え、天地の神々に五穀の実りを感謝する。辰の日には豊明節会があり、五節の舞が舞われる。書いてみると、本当に一大イベントですね。
※孫庇の間……庇の間と簀の子の間に、さらにもうひとつ庇の間をもうけてこう呼びました。曾孫庇の間はあるのかなぁ(笑)
※格子……こうし。庇の周囲の柱間に設ける黒塗りの戸。四角の細い木を縦横(格子状)に組み合わせたもので表と裏のあいだに薄板が張られていました。簀子縁と庇の境であり、外と内との境でした。
※釣灯籠……つりどうろう。このページの壁紙を見たままです(笑)
※指貫……さしぬき。ズボン。たっぷりずっぷりしてまして、裾を紐でつぼめて袋のようにして袍や狩衣の下にはきました。年が行くほど色が薄くなり、模様が大きくなる。
※掃司……かんもりのつかさ。宮中の掃除や修理、会場設営などをする人。お役所は掃部寮。
※三品の位……さんぽんのくらい。親王や内親王などの天皇のお子様たちには、一位、二位、などの香澄たちのような位がない代わりに、一品、二品とありました。何も品をもたない親王を無品親王(むほんしんのう)と呼びます。
※呉竹……くれたけ。帝が暮らす清涼殿の庭にあった竹です。すぐ傍には下記の滝口の侍が控えており、本当に見つからなかったのか見て見ぬふりだったのか微妙なところ。桐生も実際に京都の清涼殿を見てきましたが、あそこは見つからずにだなんて透明人間でもない限りムリです(爆)
※滝口の侍……蔵人所に属し宮中を警護する武士。詰所が清涼殿東庭の御溝水(みかわみず)が落ちて滝となる所を滝口といい、そこにあったのでこの名がついたとか。
※雷壺……かむなりのつぼ。梅壺の南隣、内裏の南西の角に位置する建物。正式名は襲芳舎。どうも庭木に落雷があったからとか、霹靂木が植わっていたかとか名前の由来がはっきりしません。おまけにこの建物がどんなことに使われていたのかもよくわかりません……ここに女御がいたら雷女御と言われるんでしょうかね?(笑)