香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――黒方くろぼうの巻〈二〉

「………綺麗な方ですね」
 色糸を結びつけた竹の枝を持ったまま、ぼうっとそう口にした弟宮に、東宮は苦笑した。
 夜風に舞い上がった足許の落ち葉が、指貫にまとわりついて後ろの方へ流れていく。
 どうやら竹の枝をもらったことで本当に怖くなくなったらしく、三の宮はごく普通に異腹の兄宮の隣りを歩いていた。
「綺麗ではあるが………なにせ千早の君だ、ヘタに歌を詠みかけてこてんぱんにやられた公達がいったい何人いることか」
「あの方の女房名はそんなところからつけられているのですか?」
「だと思うが………」
 先程の遭遇以来、どこか『ぼんやり』したままの三の宮をからかうつもりで、東宮は意地悪く問いかけた。
「どうした、侑仁ゆきひと。千早の君を添臥そいぶしにでもしたいのか?」
「できましょうか?」
 予想外の強い返事に、東宮は目を見張った。
「おいおいおい、冗談だぞ」
「でも、添臥の姫君はまだ決まってないと母上がおっしゃってました」
 頬を紅潮させながらの三の宮のセリフに、東宮は小さく唸った。
 帝や東宮、親王の元服の夜に、貴族の姫が添い寝をつとめる習わしがある。
 添臥をつとめた姫君とは、そのまま結婚の運びになることが多い。源氏物語の葵の上がそのパターンだ。もちろんそうならないこともあるが、東宮の妃である紫乃姫は彼の添臥をつとめてそのまま入内し、女御となっていた。
 現在、雪宮が父親である帝をはじめとした皆から愛でられているのは、後見の力が弱く、皇太弟として次代の東宮に擁立される可能性がないからだ。言ってしまえば、無害だから父帝の寵愛を黙認されているのだ。
 雪宮が、先ほどの千早の君が内大臣の姫だと知っているかどうかはわからないが、内大臣の姫なら添臥としては申し分ない。………が、これが実現すると宮廷勢力に大きな変動が生じることになる。
 いまのところ東宮の後見をしている右大臣に遠慮して、何も表だったことはしていないが、していないだけで、やらないわけではない。
 現に右大臣の一の姫―――東宮妃紫乃姫が懐妊して以来、東宮の周囲は何やら騒がしい。
 東宮は弟宮に気づかれないように、こっそりと溜息をついた。
(このぶんだと、私に華奈姫入内の話がきていることは黙っておいたほうがいいな)
 もちろん内々の打診で、まだ噂にすらなっていない。
 内大臣が、そうしたがっているというだけの話である。
 華奈姫が東宮に入内するにしろ、雪宮の添臥に立つにしろ、宮廷の勢力変動は免れないだろう。ただし、後者が実現する可能性は低く、実現した場合の変動は大きい。
 三の宮は年明けには元服を執り行う予定で、母親の麗景殿の女御とその後見役である兄たちが加冠役の貴族と添臥役の姫君を捜しているはずだ。
 無難なところを探してきてくれるといいのだが………。
 東宮はつとめて笑みを作った。
「春には元服するのだから、夜の御所など怖がっていては話にならないぞ」
 笑み含みにそう言われた三の宮は、ムッとして手に持った呉竹をザッとふった。色糸がひらひらと闇に流れる。
「怖がってなどおりません!」
「そうか。ならためしに襲芳舎の方にまで行ってみよう。鬼が出ると千早の君が言っていたからな」
「兄上―――!」
 戯れながら、東宮は三の宮と共に夜の御所をそぞろ歩いた。



 母親のいる麗景殿れいけいでん曹司ぞうし(部屋)のひとつを賜っている雪宮は、冒険を終え、乳母や女房たちに見つからないようにこっそり帰ってきた後も胸が高鳴って眠れず、御帳台のなかで寝返りをうっていた。
 日頃、忙しくてあまり会えない兄の東宮が自分を夜の散策に連れ出してくれたことも嬉しかったが、その途中で起きた思わぬ出逢いには本当に胸がドキドキした。
(綺麗な方だったなぁ………)
 女性は御簾みすの内側にいて顔を見せるべきではないというのが世間の常識であるため、雪宮がいままできちんと顔を見たことのある女性は身の回りの世話をしてくれる乳母以外には、母親とその女房しかいなかった。
 女房は主に仕えて、来客の応対をしたり、言上を取り次いだりするもので、顔を隠すのがたしなみとはいえ、隠してばかりいても勤まらない仕事である。そのあたりが女房は卑しい仕事だと男性から眉をひそめられる原因なのだが、雪宮は立派な仕事だと思っている。
 兄に聞いた話だと、千早の君は藤壺の中宮様にお仕えするの女房であるというから、顔をさらすことにためらいがなくともそうおかしな話ではない。一応、灯りの輪から遠ざかるなどして、たしなみ深いところは見せていた。
 偶然見た華奈の横顔を思い出して、雪宮はうっとりする。
 切れ長の怜悧な目の縁が夕冷えと灯籠の灯りのためか、ほんのりと朱に染まって、何とも言えず艶な風情だった。
(どちらの家から出仕されている方なのだろう。添臥に立てる家の方だといいのになぁ。それともやはり女房方は身分が低くて無理かしら)
 なかば本気でその案を検討しはじめている雪宮だった。
 東宮が千早の君の素性を弟宮に明かさなかったため、かような誤解が成り立っているのだが、華奈も、もうすぐ里下がりだからと油断していたこともある。
 東宮の夜の散策が思わぬところに影響を及ぼしそうだった。
 しばらくふすま(ふとん)のなかでごろごろしていた雪宮だったが、眠れずに起きあがったところで妻戸のところに人影がいるのに気づき、身を強ばらせた。
「―――きちんと掛け金をかけとけ。不用心だな」
 影の声に、雪宮はほっと安堵の息をついた。
「驚かさないでください。賊かと思うところでした」
 ふン、と相手が鼻を鳴らしたらしい様子が、暗闇越しに伝わってくる。
「案外間違ってもいないだろう。無断で忍び入っているのは賊と変わらん」
「そんなことを言うのはやめてください。兄上は仮にも親王ではないですか」
「はッ、オレが親王だというのを皆、何かの間違いだと思いたがっているだろうさ」
 嘲弄した相手は、雪宮が反論しようとするのを手をあげて遮った。
「くだらんことは言うな。だいたいこんなワケのわからん問答をお前とするために来たんじゃないぞ。人がわざわざこんなところまで来てやったというのに」
 相手は雪宮にポンと白い包みを放り投げた。
 慌てて受けとめて、雪宮は目を輝かせる。
 本当に今宵は素敵なことばかり起こる。
「今度はいずこに行ってらしたのですか」
「どこにも行ってないぞ。京の周辺をふらついていただけだ。それは市で買ってきたんだ。食ってみろ」
 雪宮はかずいていた大袿を床に落として、それから相手のいる妻戸のところまでやってきた。御帳台の傍は奥まった場所なので、月初めの今宵は真っ暗なのだ。
 細く開いた妻戸から洩れる明かりを頼りに、雪宮は包みを開いた。
 暗くて、本来の色がよくわからない。小さくて萎びている。どうやら干した果物のようだ。
「これは何ですか」
葡萄蔦えびかづらの実だ」
 おそるおそる口に運んだ雪宮は、しばらく無言で口を動かしていたが、その後も立て続けに四つほど摘んでから、慌てて我に返った。
「おいしいです」
「ならいいさ」
 素っ気なくただそれだけを言って、影は妻戸から出て行きかけた。
 雪宮は空いている片手で、いまにもすり抜けていこうとする狩衣の袖をつかまえる。その袖の布地は、雪宮の感覚には慣れない、何が素材かもわからない粗いものだった。
 自分と相手の暮らしぶりの違いに哀しくなる。
「―――兄上!」
「あにうえねぇ………」
 複雑な表情で呟きつつも、相手はちゃんとふり返ってくれた。
「何だ」
「今度はもっとちゃんと遊びにきてください。兄上の顔が見られないのはさみしいです」
「ちゃんとは無理だな」
「なぜです?」
「いまさら唐櫃からカビ臭いほうも冠も引っ張り出す気にはなれん。売ったような気もするし。だいたい無品むほんのオレは何色の袍を着りゃいいんだ? いったいオレがどの面下げてお前のいる内裏に遊びに来るというんだ。女房どもはちゃらちゃらしててお高くとまりやがって、くどく気にもなれん」
 にべもない口調でそう言うと、相手はさらに続けた。
「だからな、そういうセリフは惚れた女にでも言え。男の顔なんぞ見て楽しむようじゃお終いだからな、ユキ」
 雪宮は少しさみしそうに笑った。
「では、いつでもいいので、また来てくださいますか」
 夜に狩衣で遠慮もなく内裏に上がりこんでくるような相手に、雪宮も今更、袍を着ろだの、母女御に挨拶しろだのとは言わない。
 ただまた、こんなふうに人目の間隙をすり抜けるようにして、会いに来てくれればいい。
「気が向けばな。今度の土産は何がいい」
 また来てくれると知った雪宮の弾んだ声が暗闇越しに相手に届く。
「京では見られぬものがいいです」
「また面妖なものを………」
 呆れたように呟いたのを最後に、するりと影は妻戸の外に出て行った。
 妻戸の掛け金をきちんとかけてから、雪宮は葡萄の包みを大切に経箱のなかに隠した。後でこっそりと少しずつ食べるつもりだった。
 干し果物は杏や栗、苺などを食べたことがあるが、葡萄葛は初めてだった。
 いつも兄が持ってくる土産と称する食べ物は、雪宮が見たことも食べたこともないようなものばかりだった。以前、鹿の内臓の塩辛を持ってこられた時には、さすがに食べられなかったが。
「兄上はよい方なのに………」
 どうして皆、あれほどまでに眉をひそめて口さがないことをいうのだろう。
 東宮とは別の、もう一人の異腹の兄の母親は、いまは亡き弘徽殿こきでん女御。母親の女御自身も、兄にとっては祖父にあたる後見役の先の右大臣も既に八年前に死亡してしまっているが、それでも侮られるほどの家の出でもないし、何より今上の皇子のなかで誰よりも―――東宮よりも、年長者だというのに。
 にもかかわらず、位は無品。無品のこれといった後見のない親王は、母方の遺産を食いつぶしながら暮らすうちに、みやこびとからも忘れ去られていく運命にある存在だ。親王で位を得て、そちの宮や弾正尹宮だんじょういんのみやになれたり、内親王で父帝の計らいにより位を与えられたり、臣下に降嫁させられたりなどして、生活を保証してもらえるのはまだいいほうで、父帝から省みられず、かといって位をもらうでも源氏に降下させられるでもなし、とりあえず親王宣下しんのうせんげだけは受けたものの、母方の後見もない―――などと言う場合、その宮はただ零落していく一方だ。
 いまの兄が、まったくそれにあてはまる。
 ただし兄の場合、それがどうしたとばかりに素行が悪いから、宮中での評判が最悪なのだ。地方に行けば、盗賊や山賊の頭領が土着した親王の御子のそのまた御子だったなどという話もあるらしいが、兄は紛れもなく今上帝の第一皇子なのである。
 しかし無道者よと誹りを受け蔑まれても、兄は意にも介さず、むしろ自由で生き生きして見える。
 内裏と二条にある邸を往復しているだけの雪宮は、京より外にでたことなどない。市などに行ったこともない。一人でどこかに行くなどということがまずない。
 だから少しだけうらやましい。
 誰の目にも留まらぬ自分を―――もちろん父帝からも母女御からも愛されているし、雪宮を気にかけてくれる人は多い。けれど、そうしようと思わず、いないものと思えば素通りすることも可能な立場にいるのも、また確かなのだ。そんな自分をしっかりと視線で捉えて話しかけてくれるのは腹違いの兄たちだけだ。
 来年には元服するといえば、喜んでくれるだろうか。
 年が明けぬうちにまた来てくれるといいなと雪宮は思った。

〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)

添臥……そいぶし。文中で説明されている通り、帝、東宮、親王の元服の夜に姫君が添い寝をする儀式です。昔はほんとーに結婚していたそうなんですが、平安時代も下がってくると、ただ並んでおやすみなさい、だったそうです。「花と」は平安時代中期から後期の摂関時代全盛期+桐生的好みリミックスな設定なので、ここではただの添い寝です(^^;)

  【コラム】平安時代の男子の成人……平安時代の男子は、10〜20歳くらいまでの間に、たらしていた髪をあげ、髷を作って冠をかぶる初冠の儀を得て成人しました。ただかぶって成人というわけにもいかず、きちんとかぶせる人も決め、日取りも陰陽師に占ってもらって吉日を決め、同時に位も授かります。
 作中では書かれていませんが、もちろん香澄も桐耶もやりました。身分の高い子息であればあるほど、加冠役の人もそれなりの身分の人になります。光源氏は左大臣でしたね。父親は大変です。加冠役を探し、日取りを決め、コネを奔走して息子に位を与え……(笑)

麗景殿……れいけいでん。梨壺(昭陽舎)の西隣にある後宮の建物のひとつで、やはり天皇の奥さんが住まうところです。源氏物語では花散里のお姉さんにあたる人が住んでいます。雪宮が東宮と仲がいいのは、お互い近くに住んでいるせいもあるんでしょうかね。

妻戸(つまど)……寝殿造り建物の四隅にある、観音開き――外側に開く両開きの板戸です。普通はここから出入りしました。

葡萄葛……えびかづら。読んで時のごとくブドウです(爆)。野生種のヤマブドウだそうです。

師の宮……そちのみや。従三位に相当する官職。役職の名前そのものは「師」。福岡にある太宰府の最高責任者で、代々親王が勤めるのが約束事となっていたため、この役職の親王を師の宮と呼びました。また、任命されても福岡まで出向かないのも慣習となっており、実質的な現地での責任者は権の師か大弐と呼ばれるNO.2の者となります。太宰府に流罪となった菅原道真や源高明は権の師です。師の宮はほとんど名誉職ですが、この時代は位に付いているという事実が重要なのです。

弾正尹宮……だんじょういんのみや。従四位上に相当する官職。弾正台のNO.1の位で、こちらも親王が任ぜられることが多い職でした。弾正台は警察機構のような働きをするところだったんですが、検非違使が登場して以来、仕事を奪われて、こちらも形骸化していきます。だからやはり位に付いているという事実が以下同文。

親王宣下……しんのうせんげ。この子はちゃんと天皇の子どもですよ、っていう手続き。これがないうちは、例え天皇の子どもでも親王・内親王ではありません。嫡出の皇子、または嫡男の嫡出の皇子(=皇孫)、嫡出の皇女、または皇孫女子(=天皇の嫡男の嫡出の娘)のうち、親王・内親王宣下のあった人のことをこう呼びます。
 と書くとややこしいですが、ようするに男子の場合、天皇の息子と、その子ども(天皇の孫)までは親王宣下を受ける資格がありますが、女子の場合、天皇の娘と、天皇の息子が設けた娘の場合のみその資格がありました。同じ天皇の孫でも、天皇の娘が産んだ娘にはその資格がありません。この宣下のない皇族子女は王、女王(にょおう)と呼ばれました。
 咲姫の場合、皇族であるのは母方のほうなので、内親王宣下を受ける資格がなく、普通の姫君ということになります。系図参照。また桔梗の母親の場合は、お父さんが親王ですが、お父さん自身が皇孫という資格で宣下を受けた場合、暁宮はすでに宣下の範囲外という可能性もあります。細かいことは決めてません(爆)