香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――黒方くろぼうの巻〈三〉

 神無月の十三夜。そろそろ寒さも厳しくなってきた折、四条にある香澄の邸の、東対の廂の間では、桔梗がとある文を前に唸っていた。
 花も何も添えていない素っ気ない結び文だが、趣味は悪くない。重ねてあるはなだ色と薄縹色の薄様は極上のものだし、書かれてある墨痕鮮やかな手蹟も見事なものだ。
 手蹟というものは、見ただけである程度書いた人物の人となりが推測できてしまうぐらい、大事な情報源である。
 墨痕鮮やかに堂々とした筆運びの、何とも伸びやかな手蹟だった。
 一見するだけで、身分卑しからぬ若い男のものだとわかる。従兄の雅人よりも磊落な性質。けれど粗野というわけでも我流というわけでもなく、しっかりとゆえある書き方を踏まえている。
 パッと見るだけで、すぐにあの市で出逢った青年のことが思い浮かぶくらいに、人となりが顕れた手蹟だった。
 もっとも、あからさまに縹と薄縹を重ねた鴨頭草つきくさの色目の薄様で文を寄越されれば、すぐに相手の見当ぐらいはつくが。


     かりそめの君に伝なむ つきくさの
              消ぬべき色はいまだせじと

                        ―――ゆえに、いましばし


「当たり前でしょ。藍で染めたんだもの。そう簡単に色落ちしてたまるもんですか」
 身も蓋もないことを言って、桔梗は再び目の前の文を睨みつけて唸った。
 歌はある意味、究極のシャレだから、表の意味だけではなく大抵は裏の意味がついてくる。
 鴨頭草とは露草のことだ。染料にもなり、露草で染めた布はきれいな縹色になる―――だから縹と薄縹の重ねの色目を月草というのだが。
 しかしこの露草、水溶性だから簡単に染まるが、それだけに簡単に色落ちする。
 だから最近は鴨頭草重ねの縹色でも、藍で染めて色を出すのが普通なのだ。
 その縹色がまだ褪せていませんので、もうしばらく狩衣をお借りしますと、いけしゃあしゃあと言っているのである、相手は。
 つまり色が褪せたら返すわけだから、当分返す気はない、と。
(ほんのひとときお会いした貴女にお伝えしましょう。露草の消えるべき色は、まだ色褪せておりません)
「ので、これからもお付き合いをしてください、とそーゆー文でしょ、コレ」
 桔梗の素性を向こうが承知している以上、からかい混じりにふざけて詠んで寄越されたれ歌だった。
 半眼で料紙を睨み、桔梗は返事をするべきか否か迷った。
 かりそめ―――狩衣が露草を使った仮の染めではないと返歌をしようものなら、OKを出したことになってしまう。無論そのような気は毛頭ない。
 かといって、ここで知らんぷりをするのも気が引けた。
 ここで返歌をしなければ、あの市で出逢った謎の青年との縁はこれっきり。相手の素性を突き止めることもできなくなる。
 香澄に訊いてもよかったのだが、そうすると市にいったのがバレるので、それは最終手段にとっておこうと思う。
 筆を手に少し考えこんで、桔梗は下に重ねられた薄縹の紙の端に返歌を書いた。


     つきくさのうつし色をば 我知らじ
              はかなき秋の花のみなれば

                        ―――いけず


 そうして文を元通りたたんでしまうと文箱に入れ、それから御簾のすぐ傍までいざり寄って庭を眺めた。
 しかし目当てのものが見つからず、桔梗は直接、庭に降りて探したい欲求にかられた。
 そもそも秋の初めに咲く花だ。暦の上でも冬となってしまった神無月のいま、咲き残っているかどうかも怪しいし、もともと香澄の邸にはあまり多く植えられていない。
 しかし、どうにかすると割としつこく咲き残っている花でもある。もしかするとあるかもしれない。
 柚葉を呼んで探させてもいいが、何に使うか詮索されると困る。萩丸をわざわざ呼ぶのもどうだろう。だいたいその萩丸を呼ぶにしても、柚葉か他の女房を使って呼ばねばならない。
 ―――自分で行くしかないか。
 そう腹を括った桔梗は、着ていたうちぎをいったん肩からすべり落とした。
 それから再度、今度は髪を外に出さずに袿を着直し、御簾みすの外に出る。
 朝夕は冷えこんできたが、それでも陽射しはまだ暖かく感じられる。屋根から落ちる雨だれを受けとめるために植えられている前栽の藤袴や薄が、微かに風にそよいで揺れる。薄もそろそろ白く枯れてきた。薄は咲き始めが艶やかで美しいから、枯れてくると桔梗はあまり好きではない。
 簀子縁から庭に降りるために設けられた段の前で、袿の裾をたくしあげようとしているところで、香澄の声がした。
「桔梗、どこに行ったんだ―――って、わああ何やってんだよ、お前は !? 」
 西の妻戸から庇の間に入った香澄が、御簾越しに桔梗の姿を見とがめて、慌てて外に出てくる。
「何って、お庭に降りようと思っただけだよ」
「思っただけだよってなぁ………お前、そのなりで降りるのかよ」
 長く引きずる袴と袿を見やって、香澄はがっくりと肩を落とした。
 だいたい御簾の外は異世界、ぐらいに考えていてもおかしくないのが貴族の姫君だ。自分もこんな恰好をしていることだし、今更どうこう言う気はないが、もう少しなんとかしてほしい。せめて恰好とか。
「庭に降りてどうするんだよ」
「探しもの」
 香澄はきょとんと首を傾げた。
「なんだ。何か飛ばしたのか? オレが行って取ってくるよ」
「ううん、何も落としてないよ。花を、探しているの」
「花?」
 呼びつけた柚葉に沓を取りにやらせていた香澄は、怪訝な顔で桔梗をふり返った。
「花なんかどうするんだ?」
「文に使うの」
「咲姫か。何の花を採ってくればいい?」
 くつをはいて庭に降りると、香澄は勾欄こうらん(手すり)越しに桔梗を見上げた。立っていた桔梗は簀子縁すのこえんに座りこむ。衣が溢れて、ふわりと香が聞こえた。彼女の普段使いの聞き慣れた香。
 勾欄の横木に両腕をのせて、そこに顎をうずめた桔梗が笑う。
「あたしの花」
「………残ってるかなぁ」
 難しそうに頭をかきつつ、香澄は築山の方へと歩いていった。人少なく、手入れの行き届いていない広い庭は、荒れて好き放題に雑草が生えている。それをかきわけながら行く。
 その狩衣の背を見送りながら、桔梗はうずめた顔をことんと傾けた。髪が肩からすべり落ちてそのまま勾欄を越え、先がいまにも地に触れそうに垂れ下がる。
「やっぱり香澄ちゃんに聞いたほうがいいのかしら」
 市に行ったことがバレても、それほど怒られはしない。呆れられるか、今度行くときはオレもついていくから、ちゃんと言えと懇願されるぐらいだろう。
 ただ、聞くと鴨頭草の相手が困りそうなのが気になるところだった。多少意地悪するぐらいならいいかな、とも思うのだが、それですむのかいまいち判断がつかない。
「でも、あまり内緒事が増えるのもイヤよねぇ………」
 呑気に迷っているうちに、築山の裏までまわりこんでいた香澄が姿を現した。
 勾欄の下まで帰ってくると、垂れ下がっていた桔梗の髪をすくいとって、簀子縁に戻してくれる。
「ほら、一輪だけあったぞ」
「わあ、ありがとう」
「普段は使わないくせに、どういう風の吹き回しなんだ?」
 あからさまに桔梗自身を指し示す花であるため、逆に文や折々の添えものには滅多に使わない。そのことを知っている香澄の問いに、受け取った花を手に桔梗は曖昧に笑ってごまかした。
「ま、いいけどさ」
 さっぱりと笑って、香澄は簀子縁に上がってくる。
「香澄ちゃんっ」
「うおわっ !? 」
 抱きつかれて、危うく香澄はひっくり返りそうになった。
「やっぱり香澄ちゃんと結婚してよかったわぁ〜」
 たっぷり沈黙したあとで同性の親友は答えた。
「………………雅人と華奈の前でソレ言うなよ」
 香澄自身としても、それって間違ってないか?―――などと思ってしまった瞬間だった。



 梨壺の御帳台みちょうだいのなかで、脇息に打ち伏して肩をふるわせている人物がいた。
 日継ぎの宮の御所たる梨壺の、その御帳台の主と言えば東宮その人しかいない。小袖に下袴、その上からは単衣ひとえと袿をはおっただけという、就寝前のなんともラフな姿のままで、膝には夜具にしていたらしい大袿おおうちぎを引きかけている。
 その白の大袿の上には、桔梗の花と鴨頭草の重ねの薄様が無造作にのっていた。季節も冬に変わった折、秋の花である桔梗と、それとはまた違う色合わせの鴨頭草の重ねの薄様は、常識を知らぬ取り合わせと人の目に映る。しかしこの場合、当人たちだけに意味が通じていればよかった。
 細く折りたたまれて結ばれていた薄様は、いまは簡単に広げられて、かさかさと音を微かな音を立てている。
 夜も更けて、女房たちもすべて下がり、女御も懐妊によって内裏だいりから退出しているいま、誰も御帳台のなかをうかがう者はいない。
 高坏灯台たかつきとうだいが御帳台のそば近くで明々と灯り、ひとり打ち伏す東宮を照らし出していた。
 ようやくふるえの収まった東宮は脇息から体を起こす。
 目尻の涙を拭いとって、また笑い出しそうになって口元を抑えた。
 なんのことはない。単に笑いすぎて死にそうになっていただけである。深夜に大声で笑うわけにもいかず、こらえるのは大変だった。
 先日、市で偶然であった源侍従げんのじじゅうの君である桔梗へあてた文の返事がきた。
 悪戯半分で出した文だったから、何と返事を書くかと思っていたところ、


     つきくさのうつし色をば 我知らじ
              はかなき秋の花のみなれば

                        ―――いけず


 ―――である。
(鴨頭草の本当の色なんか、あたしが知るわけないでしょ。取るに足りない秋の花だけで染めたものなんですから。―――意地悪)
 東宮の笑いどころを直撃したのが、最後に添えられた一言だった。
「いけず、とはまた………」
 再び笑いの発作が起こって、東宮は脇息に突っ伏した。
 おもしろすぎる。
 おまけに歌自体もおもしろい。うまいわけではないが、おもしろい。
 表の意は、手元にない鴨頭草の本当の衣の色など自分にわかるはずもない。取るに足りない自分が染めたものだから。
 うつし色は、「現し」と「移し」。本当の色と移りゆく色の二つをかけてある。色とはまた、心の意味もある。秋の花は鴨頭草を指してもいいが、ご丁寧にも添えて寄越された花の名前から、何を指すのかは明白だ。
 そういうわけで裏の意が、

 あなたのアテにならない本心なんか知るわけないでしょ、どうせあたしに教える気なんかないくせに。いーじーわーるー。

 と、なる。
 拗ねている。名乗らなかったことを根に持っている。
 と同時に、戯れに詠みかけた東宮の誘いも断っている。余人の目に留まるとまずかろうと、遣わした文自体に返事を書いて持たせてくる。
 あらゆる意味で楽しい文だった。
「おもしろすぎる………」
 呟いて、東宮は身を起こした。
 初めて見る桔梗の手蹟は、彼女らしい人となりの顕れた、なんとも柔らかな筆遣いのものだった。洗練されれば名筆と呼べそうな素養が見えるが、そこまでは到達していない。
 彼女は幼くして、風流人と世に知られた両親を同時に喪っている。先中納言さきのちゅうなごんだった父親の方は、現代の三蹟と呼ばれるほどの能筆家だったから、彼の手ほどきを最後まで受けられれば、素晴らしい字を書くようになっただろうに。
 そう思って、東宮はふと痛ましげな顔をした。
 桔梗の両親が結ばれたいきさつは、当時では有名な話だったらしい。
 彼女の父親は、現内大臣にとって同腹の弟で藤原貴峰たかみねといい、亡くなるまで中納言の地位にあった。
 家柄は悪くないので、本人に野心と才覚があれば大臣にもなれたはずなのだが、本人はおっとりしたところのある風雅人で、出世にも興味がなかったらしい。
 官位などのそっち方面は兄の貴惟にまかせ、本人は出世コースからもイマイチ外れたところに収まり、管弦の宴や歌合うたあわせなどの行事のとき以外は注目を浴びることもなく、笛を吹いたりなどしてのんびりと暮らしていた。
 ただし、笛や琵琶などの管弦、和歌や漢詩などの文才、加えて能筆に、舞の名手でも知られ、万事に趣味の良さを誇っていたから、「光源氏もかくあらん」などとちやほやされて、女房たちの人気も高かった。女房たちは、彼の官界での出世の見込みなど気にする必要はないから、無邪気に騒いでいられたが、他の公卿くぎょうたちからすると、娘の婿としては今ひとつ頼りがいにかけた。彼を婿に迎えるよりは、その兄を婿にしたほうが婿の栄達を望む婚家側としては断然いい。
 そんなわけで適当にふらふら遊んでいた風流人の公達きんだちだったのだが、先の帝が内裏で催した歌合わせに出席し、そこで帝の姪―――今の帝からすると従妹にあたる暁宮と出逢った。恋の題で詠んだ二人の歌が左右方で優劣を争い、勝敗が付かず引き分けとなり、その後の宴で言葉を交わし、再び歌を合わせ―――そして恋に落ちた。
 どちらがどちらに惚れたとも言い難い。双方共に一目惚れだったらしい。
 まるで物語のようだと世間に騒がれ、当時の姫君や女房たちに恰好の話題を提供したという。
 桔梗が生まれる前から何かと話題に事欠かない夫婦だったため、桔梗が生まれてからの不幸ぶりが、彼女に対するかまびすしい噂の原動力となってしまっているのだ。
 ―――可哀想な姫だ。
 そう思ったが、夫である源侍従は心から桔梗を大切に思っているようだし、従兄妹であり、義理の兄姉にもなる左近少将と千早の君も、桔梗に対して好意を寄せているところをみると、周囲から何かと愛されてはいるようではある。
 咲姫の件もある。
 そして市での遭遇も。
 そこまで思い至って、東宮は再び笑った。
 どうやら型破りな姫君らしい。
 そこもまた香澄の君をとらえて離さぬ魅力なのかもしれない。
 香澄自体もなかなか楽しい人物だが、その妻である桔梗もおもしろい。源侍従は、そつがないようでいて、実はからかうと桐耶より面白いのだ。もっとも、面白い反応が返ってくるまで突っ込むのが大変なのだが。
 楽しい夫婦だ。
 桔梗の迷惑を省みず、東宮はもう少し文通し続けるつもりだった。

〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)

神無月……10月ですが、平安時代は旧暦なので、気候的には11月の気温となります。それなりに寒いです(笑)

薄様……うすよう。うすーい和紙。現在の紙でいちばんイメージが近いものはあぶらとり紙だったり(爆)

縹色薄縹。

下袴……したばかま。指貫や上袴の下にはいていた袴。どんなにラフな恰好でもこれだけははいていたらしい……(笑)

単衣……ひとえ。一番下に着た衣。下着です。上に重ねる服が汚れない様に、これを一番大きく仕立てて、袖や裾からはみ出させてました。

高坏灯台……たかつきとうだい。普通の灯台は一メートルぐらいの高さがありましたが、手元を照らしたいときに、お菓子などを盛る高坏をひっくり返して、底の丸い部分に油皿をのせて明かりとしました。火事の危険性大(爆)

歌合……うたあわせ。なんとも平安時代らしいイベント。宮廷人達が左右チームに分かれて、それぞれ右方、左方の用意してきた和歌の優劣を競い合う催しです。左右チームのメンバー自体は歌を詠みません。それぞれ決められた歌題に添って、歌のうまい者たちに歌を詠んでくれるようあらかじめ依頼をし、当日それが勝ったり負けたりするのを楽しみました。宴あり、管弦の演奏あり、酒に唄に舞ありの、派手やかなイベントでした。村上天皇のもとで行われた天徳内裏歌合わせがもっとも有名です。桔梗のパパさんとママさんは、方人ではなくそれぞれ右と左の歌人として参加したようです。