香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――黒方くろぼうの巻〈六〉

 突然聞こえてきた声に、うちぎをまとめていた手が思わずゆるんだ。裾は風をはらんで広がり、色とりどりの草の上にふわりとかづく。
 丈高い雑草を踏みしだいて、桔梗は声のしたほうをふり向いた。
 邸。寝殿の東寄りの簀子縁だ。
 すでに格子こうしも倒れてなくなり背後に闇が広がるそこに、男がいた。朽ちて壊れた勾欄こうらんに肘をつき、ついた肘に顎をのせ、おもしろがるような顔で桔梗を見ている。
 あちこち穴の空いている床に瓶子へいじを置き、空いた手には土器かわらけ。明らかに一人で酒宴を開いていたという様子だ。
 風にのり、酒精の匂いがゆるやかに桔梗のもとまで漂ってきた。
「あなた、だれ?」
 桔梗の問いに、男は笑った。
「この邸に出る鬼ならば、ここの主なのだろう。あがりこんでいる身としては黙っているのも礼儀知らずな話だろうな。―――俺は宗真そうまだ。この通りお邪魔している」
 仰々しく、酒の入った盃を桔梗に向けて掲げてみせる。
 掲げられた本人はといえば、ゆるやかにひとつ、まばたいて問い返した。
「………そうま?」
「そうだ」
 頷いて、宗真と名乗った男は目を細めて桔梗を見た。
「さて、俺の名を問うたからには、お前もどういう鬼か名乗ってくれるんだろうな?」
「あたしは―――」
 桔梗が答えかけたとき、風がざわりと立ち枯れた草のあいだを渡って、その手から、かづいていた薄衣をさらっていった。
「あ………!」
 慌てて衣に手を伸ばすが、既に遅い。
 目には見えない風の流れとからみあうように、袿からこぼれた桔梗の髪が一筋、二筋、宙を舞った。
 十六夜の月は明るすぎる。
 色褪せた足下のおぎが背を這い登り、そのまま髪となったような色に、宗真がわずかに息を呑んだ。
 風にさらわれた薄衣の行方を目で追って桔梗は軽く嘆息し、相手に向きなおった。
 年の頃は、雅人よりもやや上だろうか。手に盃を持ったまま固まっているその顔は、涼やかに切れた目つきの鋭い精悍せいかんなものだ。驚きさえ、どこか皮肉めいた印象がある。
「あたしは鬼じゃない」
 やや毒気を抜かれた表情で宗真が言い返した。
「鬼だろうとなかろうと、名乗りに名乗りを返さんのはしからんな」
「………あたしは先の中納言、藤原貴峰ふじわらたかみねむすめ。この邸の正統な主よ。でも、鬼じゃない」
 几帳きちょう野筋のすじのように風に遊んでいる髪を、桔梗は手で押さえた。被衣かづきはもうない。
 黙ってその様子を眺めていた宗真は、不意にニヤリと笑うと、思いだしたように土器に口をつけた。
「生きている姫が一人でこんな場所にいるはずがないな?」
「でもいるの。まだ死んでないから、あたし」
 桔梗の言い様に、宗真が酒を吹きだした。
 笑いながら、彼は瓶子から土器に酒を注ぎ足す。
「そうかそうか。なら生身の姫君が、どうしてこんな夜更けに今までほったらかしておいた自分の邸に?」
「別に―――。見に来たかっただけ」
「今更?」
 その言葉に桔梗は首を傾げた。
 怖い、とは不思議と思わなかった。怪しいのはお互い様だ。いざとなれば声をあげて車まで戻ればいい。
 それよりも―――。
「その言葉からすると、あなた、ずっと前からここに来てるの?」
「何かと便利なんでな」
 言い、宗真は狩衣の肩をすくめた。
「誰も怖がって入ってこないし、一人で酒を飲むにはちょうどいい。それがどうした。まさか立ち退けと言うんじゃないだろうな?」
「そのまさかなんだけど」
「断る」
 即答だった。
 しかし、即答しつつも桔梗がそれにどう反応するかをおもしろがっている節がある。どこまで本気なのかわからない態度だった。
 意外にも桔梗はあっさり「そう」と頷いた。
 軽く目をみはった相手に対し、
「なら、後でさむらいに追い出されることになっちゃうけど、それでもいいよね」
「はァ?」
 ―――沈黙。
 次の瞬間、宗真が爆笑していた。体の両脇に手をついて、のけぞるようにして大笑いしている。右手が腐った床板を押し抜いて、危うくそのままひっくり返りそうになり、慌てて手を引き抜いて体勢をたてなおしたが、そのあいだもずっと笑っていた。
「お前………、面白いな」
「そうかな」
「いや、絶対面白い。俺が保証してやる」
「そう」
 どうでもよさげな桔梗の返答にも、宗真はまだ笑ったままだった。
「俺が退いたら、お前がここに住むのか?」
「そうよ。ここはあたしの邸だもの」
「そうか」
 相手はひとつ頷いた。
「なら退いてやる」
 驚いた桔梗が何かを言う前に、相手は瓶子と盃を手に立ち上がった。
 鋭いその目つきが東門の方を見やり、唇が皮肉げに歪む。
「お前の従者だろう。俺が大笑いしたからな。鬼の高笑いだとでも思ったんだろう。さっさと行ってやれ」
 たしかに東中門のほうから、桔梗を呼ぶ声がする。
 横柄な物言いに怒り出すこともなく、桔梗は少し不思議そうな顔をして宗真を見た。
 しかしすぐに興味をなくして東中門に向けて歩き出す。もうここにいる理由がない。今夜のことは互いに鬼に会ったとでも思っておけばいい。
 月の光を浴びる背に、ふと声がかかったのはそのときだった。
「そういえば、名は何という」
 いみなは親しか知らず、夫にしか明かさぬもの。桔梗の通称とおりなを答えてもよかったが、結局、沈黙したままふり返らなかった。
 すると背に再び声がかかる。
「なら勝手に呼ぶぞ」
 思わず桔梗がふり返ると、瓶子を手にぶら下げた後ろ姿が、破れた御簾をくぐって寝殿の奥へと消えていくところだった。
 勝手に呼ぶということは、これからも会うことがあるという含みに他ならない。立ち退くという約束はどこにいったのだ。
 ここに住むと言ったのはまずかったろうか。
 桔梗の眉間に、思い切り皺が寄った。



 東中門を出ると、松明まつを掲げた従者たちと出くわした。
「お方さま」
「姫さま」
 ついてこなくてもよいと言われたものの、やはりそういうわけにもいかず、車内で柚葉が不安がって急かすものだから、意を決して入ってきたらしい。従者たちは口々にそう言いながら、火を掲げ―――そのまま硬直した。
 その様子に眉をひそめ、後ろに先ほどの男でもいるのかとふり向いたものの、背後は相変わらず朽ちた廊しかない。
 怪訝に思い再び従者たちのほうに向き直った桔梗は、あ、と頭に手をやった。
 かづきの薄衣を、風で飛ばされてしまっていたのだ。
 大半の髪は着込めたうちぎのなかとはいえ、首から上の部分はそのまま月と松明の明かりにさらされている。桔梗の顔が見えてしまっているうえに、ダメ押しとばかりに髪の色が黒ではないこともはっきりとわかる。
 貴族の姫君は従者などに顔をさらさない。牛車に乗るときも、降りるときも、顔は見せない。もちろん完全に隠すというのも無理で、衣は見えるし髪も幾ばくか見えることはあるのだが、扇も何もなしに素をさらすことはありえない。
 桔梗自身はわりとそのあたりはいい加減なのだが、これはさすがにまずい。
(あーあぁ………)
 内心しまったと思いながらも、桔梗は固まっている従者たちの横をすり抜けて、先に歩き出した。
「お、お方さま!」
「遅くなってごめんなさい。帰ろうか」
 下の者たちの狼狽をあっさりと彼女は無視した。さらりと言って、東門を出る。こちらが気にすると逆に向こうもさらに周章する。
 先に行ってしまった主の後を慌てて従者たちが追った。門を出たところで彼女を追い越し、牛車の準備をしだす。
 しじを出され、桔梗は普段は気にしたこともない牛車の床の高さに顔をしかめた。
 苦労して牛車に乗りこむと、据わりをよくする間もなく、柚葉がぎゅうっとしがみついてくる。
「遅し」
「ごめんね」
「平気?」
「何が?」
「桔梗が」
 わけがわからず桔梗は首を傾げたが、柚葉は言分ことわけすることもなく、ますますしがみついてきただけだった。
 乗りこんだばかりの状態で柚葉に抱きつかれた桔梗は動くに動けず、仕方なく空いた手で牛車の外にこぼれ出たままの袿の裾や袖を引き寄せた。そうしながら、何でさっきあれほど牛車に乗るのに難渋したのか思い当たり、ひとり納得する。
「そう言えば、榻から乗ったことなんてなかったっけ」
 普段は牛車を簀子縁のほうまで差し寄せて、直接乗りこんでいたため、榻を使って足を持ちあげて乗ったことなどなかったのだ。
 牛車は榻を使って乗り降りするものと常識で知っているのに、実際やったことがなかったとは。
 自分自身で少し呆れ、桔梗はくすりと笑った。
 ひとりで納得して勝手に笑っている桔梗に、柚葉は心配を通り越して、拗ねて腹を立ててはじめた。
「もう桔梗なんか知らない」
「柚葉―――」
 困ったようにその手が暗い牛車のなかで、柚葉の頭を探りあてて撫でる。
「知らない知らない。桔梗、柚葉のことなぞどーでもよし」
「違うのよ、柚葉」
 桔梗の声が、なだめるような口調からわずかに違う何かを帯びて、次の言葉を迷った。
(あたしがどうでもいいのは―――)
 言いかけて、するりとそう答えようとしている自分自身に少し驚き、やめる。わからない。
 結局、何も言わなかった。
 仕える主が本気で困っていることを察した柚葉が、闇のなかで微かに身じろぎした。
「………桔梗?」
「何でもない」
 気を取り直して、再び柚葉の頭を撫でたときだった。
 不意に牛車が止まった。
 途端に柚葉がまた身を固くして、しがみつく。邸に着くにはまだ早すぎる。着いてもいない道中で車が指示もなく止まるなど、あり得ない。車輪の前に石でもあったか、あるいは夜盗か―――。
 柚葉を抱きしめ、桔梗は懐剣に手をやった。しかし、すぐに雰囲気がそれと違うことに気がついて、手を離して首を傾げる。
 普通、盗賊などに襲われたら、もっと派手派手しい物音と悲鳴が牛車の周りでするものではないだろうか。いま、牛車の周りは静かだ。従者の会話する声が聞こえるので騒がしいといえば騒がしいが、決して必死の口調などではない。牛も興奮していない。
 萩丸を始めとした従者たちの狼狽したやりとりと、そのやりとりの相手であろう、こちらに近づいてくる複数の足音がする。
 さては夜の都を見回る検非違使けびいしか、と思ったその時、牛車の後ろのほうに回りこんだ気配から、ふわりと聞き慣れた香がした。
 該当する人物は、ただひとり。
「………香澄ちゃん?」
 桔梗が慎重に問い返すと、相手が盛大に頭を抱えたのが簾越しにもよくわかった。しゃがみこんで唸り声をあげたまま、立ち上がる気配がない。
「まさかと思ったけど、何だってこんなところにいるんだよ………!? 」
 これで、互いが互いの正体を確認できたことになる。
 桔梗は抱きしめていた柚葉を見下ろした。
「見つかっちゃった」
「桔梗が悪し」
 ここぞとばかりに柚葉が胸をはる。
 その声を聞きつけ、何やらよろりと香澄が立ち上がった。
「柚葉もいるのか? ………まあ、誰もいないよりマシか」
 深々と嘆息すると、香澄は従者たちに何事か命じ、自分は榻を置かせて桔梗たちの牛車に乗りこんできた。本人より一足先に影と香がなかへと入りこみ、続いて衣擦れの音がする。
 その一連の軽々とした所作に、桔梗は妙に感動した。どう見ても姫の動きではないのだ。
「やっぱり、慣れなのかな」
「………は?」
 思い切り怪訝な口調で問い返され、桔梗は笑いながら衣をまとめると、香澄が座る場所を空けた。
「さっきね、榻で乗るのがとっても大変だったから。香澄ちゃんが軽々と乗るのを見て、ちょっと感心したの」
「はぁ………そうか」
 反応に困ったあげく、香澄は曖昧に頷いた。
 その手に持っていた扇が鳴ると、それを受けて、ゆるりと牛車が動き出す。桔梗たちが乗っている牛車に続く形で、空の牛車が動き出すのが、後簾越しに見えた。
「………で?」
 香澄が閉じた扇を皺の寄った眉間にあてた。
 あっさりと桔梗は白状した。
「三条の、あたしの邸に」
「何で、いま? 手入れさえまだだぞ」
「まだだから行ったの」
 理解できず、香澄が唸る。
「雅人兄さんが手を入れる前にね、お庭を見ておきたかったの」
「庭を?」
「うん。―――忘れないように」
 香澄が深々と嘆息した。
「………時々、お前ってわかんないよな」
「そうだね」
 桔梗は小さく頷いた。
 互いの心の何もかもがわかることなどありえない。仲が良ければ良いほど、隠すことだって増えてくる。
 わからないなら、わからないと。
 ただそう告げてくれればいい。それだけで充分だった。
 しばらく桔梗も香澄も無言だった。がたりごとりと牛車が揺れ、柚葉が居心地が悪そうに身じろぎする。
 牛車が角を曲がった時、ようやっと香澄が口を開いた。
「次からはオレも連れて行けよ。………邪魔じゃなけりゃでいいから。夜中に姫ひとりだなんて襲ってくださいと言っているようなもんだぞ」
「香澄ちゃんも姫よ」
「………ああそうだった」
 うめいて、香澄はずるずると壁にもたれたまま、ずり落ちた。その顔にかざされた開きかけの扇が、月明かりでかろうじて見てとれるはずの表情を隠してしまう。
「だよな。ときどき自分でも忘れたくなるけど一応、姫なんだよな………。オレが一緒でも結局、女だけの夜歩きになるのか」
 危険度はあまり変わらないわけか。いや、香澄がどこから見ても男のなりをしている以上、多少は効きめがあるのかもしれないが。
 溜息に引きずられるように、香澄は目を閉じた。
 ずり落ちたまま、なかば寝転がるような姿勢でいると、不意に横合いから伸びてきた手が香澄をとらえた。頭が強引に引き寄せられて、膝の上にのせられる。
 袿に薫きしめられていた桔梗の香が、触れている袖から直に聞こえた。
「おい?」
 問いかけを兼ねた抗議は闇のなか無視された。まあいいかと香澄は気を取り直す。
「何だか疲れてるね。香澄ちゃん」
「………だな」
「桐ちゃんのところはどうしたの? もっと遅いと思ったのに」
 やんわりとした追求に香澄は黙りこんだ。
 やがて膝は借りたまま、その主に背を向ける形にごろりと姿勢を変える。車内の窮屈さに閉口した柚葉が無言でしとねにされたあこめの裾を取り返し、隅へと逃げた。
「香澄ちゃん………?」
「………雨夜、じゃないか………月夜の品定めになったから、逃げてきた」
「そっか………」
「知ってるか?」
「何を?」
「………いや、やっぱりいいや」
 言えば多分、もっと情けなくなる。自分の背丈はもうこれ以上は伸びない。
 桔梗の手が慰めるように腕をゆっくりと静かに二度叩いた。
 微かに笑って、香澄は目を閉じる。
「どうしてオレは姫なんだろうな………?」
 やがて。
 そっと、囁きがこぼれた。
「どうしてあたしの髪は黒くないんだろうね?」
 車輪の音のなかに微かな舌打ちが混じった。
「………悪かった。もう言わない」
 桔梗はふと、はかなく笑う。
「わかんないね」
「わかんないな」
 射しこむ月ばかり明るく、牛車の床に散った髪が金に輝く。
 従者たちから到着を告げられても、しばらく二人は動かなかった。

〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)

前栽……せんざい。庭に植え込んだ草木。これを軒先に植えて、雨だれ受けにしていたこともあったみたいです(by蜻蛉日記)

月夜の品定め……これから先に注釈をつけたいと思います。本文中では流れ上わざと省いたので。「源氏物語」の帚木の巻で光源氏と頭中将その他大勢の男たちが、雨の夜にやっているのが女性の品評会と暴露大会。これがかの有名な「雨夜の品定め」。作中の月夜に合わせてもじりました。しかし、そりゃ香澄逃げるわ(笑)

格子……こうし。以前も注釈に出しました。内側に板がはってあります。ここは寝殿の南面ですので、上から下まで一枚格子です。上下二つに分かれていて、上だけ上げる格子もありました。

瓶子……へいし、へいじ。お酒をいれる徳利。酒屋の狸が持ってますでしょ(笑)

……いみな。姫君の本名。藤原定子、彰子の〜子というやつです。平安時代は相手の名前を滅多に呼ばずに日々暮らしていたようですが、小説では名前がないと困るのでここらへんはわりといい加減です。

……しじ。牛車の乗り降りに使った踏み台。牛を外した轅(ながえ)を置いておく物でもありました。

……しとね。前にも出てきたような気もしますが、ここでは敷き布団ぐらいに思ってください。要するに寝転がった香澄の体に裾が巻きこまれたわけですな(笑)