香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――香雪こうせつの巻〈一〉

 雪宮は五節ごせちがはじまる十日ほど前に参内さんだいした。
 四日も続く祭を前にして、皆どこかそわそわとして落ち着きがないが、雪宮はそれ以上に落ち着きがなかった。
 その様子に乳母や後見の大納言は首を傾げたが、よほど五節舞が見られるのが嬉しいのだろうと思いなおし、特に気にも留めなかった。
 五節のあいだ内裏は直衣のうしでの参内が許され、いつもと違う色彩が溢れる。下仕えの者たちから帝に傍近く仕える典侍ないしのすけまで、みな浮き浮きとして華やぎ、宮中全体が晴れの空気に覆われていた。
 おかげで雪宮の普段と違う挙動も、それほど目立たずにすんでいる。
 元服が近く、ずっと里邸にいた雪宮は五節の参内をずいぶん前から楽しみにしていたが、もちろん楽しみにしていたのは五節舞そのものではなかった。
(内裏なら、もう一度お会いできるかもしれない………)
 そう思うだけで、胸がどきどきしてくる。
 あまりにそわそわしているので、参内直前に叔父にあたる大納言に叱られたのだが、それも耳に入ってこないほどだった。
 元服の準備を進めている叔父や母女御に、とうとう添臥そいぶしのことを切り出せなかったせいもあって、なおさら今一度、気配なりとでもうかがいたかった。
 しかし、参内したものの藤壺に行く機会があるわけでもなく、また行こうにもその口実も見つからない。子どもの雪宮と東宮はともかく、麗景殿女御れいけいでんのにょうご藤壺中宮ふじつぼのちゅうぐうとでは、それほど頻繁に交流があるわけでもなく、いきなり訪れたりなどしたら不審をかってしまう。
 せめて噂なりと聞こえてこないかとも思ったが、どういうわけか、有名な女房だと聞いていたのに一度も人の口の端にのぼらない。皆、よるとさわると五節の舞姫の品定めばかりやっている。
 兄である東宮は忙しいらしく、文はくれたものの顔を出してくれないし、もう一人の兄がこんな場所に顔を出すはずもない。
 五節が近づくにつれて浮き足立っていく内裏の雰囲気とは逆に、雪宮はだんだん元気がなくなっていった。
 霜月(十一月)の中のうしの日からはじまる五節は、寅、卯、辰と四日間続くなか、卯の日にもっとも大事な行事である新嘗祭にいなめさいが行われ、その翌日の辰の日が五節最終日の豐明とよあかり節会せちえとなる。
 五節の舞姫の舞はこの辰の日が本番なのだが、すでに丑の日には内裏に入り連日、天皇御覧のもとでリハーサルが行われる。
 今日は寅の日。五節はあと二日残っている。
 雪宮は父帝のはからいで二度目の御前の試みリハーサルを見ることを許され、母女御と共に簾中にいた。
「宮、どうしたのです。御前の試みを見られるなど、滅多にないことですよ」
 ぼんやりと視点の定まらない息子の様子に、女御が心配して声をかけた。
 すでに周りの女房や乳母などは、御簾越しに行われている舞に夢中になって、あの舞姫は誰それの、向こうの舞姫はどこのかみのなにがしの………とひっきりなしに噂話に花を咲かせている。
 話しかけられた雪宮は我に返って目をしばたたいた。
「えっと、母上。どうかいたしましたか?」
「どうかいたしておるのはそなたでしょう」
 女御は呆れたが、女房が傍近くまで膝行してきたことに気づき、そちらに注意をやった。
 膝行してきた女房は扇越しに女御にささやきかける。
「女御さま、いま袖をうちふったあの舞姫が藤壺中宮さまのところの舞姫だそうですよ」
「まあ、あの姫君が………」
 いったん女御は雪宮から意識を逸らすと、御簾の向こうに目をやった。
 今年は中宮のところから舞姫が出るというので、何かと人々の話題となっていたのだが、女御が何か感想めいたことを呟く前に、女房の言葉に反応した者がいた。
「中宮さまの………?」
 雪宮は御簾越しに舞姫を見た。
 薄暗い室内で、ほの白い小忌衣おみごろもだけがひらひらと舞っている。
 女房が指し示した舞姫は、五人のなかでも一際美しく、舞のふりも堂々としていた。
 重たい衣裳と慣れない結髪に過度の緊張も加わって、途中で気分を悪くしたりする舞姫も多いというのに、そんな気配もなく見事に舞っている。
(でも、あの方じゃない)
 がっかりしている雪宮をよそに、女御と女房は相変わらず話を続けている。
「中宮さまの姪にあたる姫君だそうで………」
「あら」
 女御が扇の向こうで、ふっくらとした瞼をまばたかせた。
「中宮さまの姪というと………まさか千早の姫君ですか? 他にゆかりの姫君がいらしたとは知りませんでした」
「いえ、何でも参議さんぎ殿のところの姫君とか………」
「ああ、中宮さまの弟にあたる………」
 納得して女御は頷いた。
「さすがに内大臣の姫君を舞姫に献じたりは………」
「おっしゃるとおりでございます。いくら中宮さまのもとに出仕なさっていたとしても、さすがに舞姫はご承知なさらないかと」
「本当に。しかし、参議殿の北の方(正妻)に姫君はいないと聞いていましたのに………。そなたたちは偽り事ばかりわたくしに教えます」
 女御に軽く睨まれ、女房が袖の影で楽しげに笑う。
「まあ。わたくしでさえ、つい先ほど知ったことですのに。女御さまに偽りなど、どうして申しあげられましょう」
「千早の姫君―――?」
 いままで黙りこんでいた雪宮が突然、切羽詰まった声をあげた。
 女御と女房は驚いて話をやめ、雪宮を見た。
「いま、千早の姫君と仰いましたか?」
「ええ―――」
 女御は戸惑いながらも、おっとりとした笑みを浮かべて頷いた。
「宮は内裏によう参っておりますが、さすがに知らずとも無理はありませぬ。中宮さまの藤壺には、先の頃まで内大臣の姫君が長のお住まいだったのですよ」
「それが千早の君なのですか?」
「ええ、なんでも打てば響くような才気がおありの姫君とか。いま舞っている姫君は、その千早の姫君のいとこにあたるようですね」
 のんびりと女御は言って、そのまま五節舞に視線を戻した。
 しかし雪宮はそれどころではない。参内して十日過ぎにしてようやく与えられた情報に必死で飛びついた。
「千早の君という女房は内大臣のところの姫君なのですか」
「まあ、雪宮さま。千早の君をわたくしたちのような女房と一緒と考えては、向こう様に失礼ですよ」
 先ほどから夢中で舞を見ていた乳母が我に返った口調で、雪宮を叱りつけた。
「違うの?」
「たしかに中宮さまにお仕えするような形で長らく内裏に住んでおりましたが、本当の女房のようにあれこれ用向きを言いつけられたりするはずがございませんでしょう。内大臣家の大姫ですよ」
「内大臣家の大姫………?」
 鸚鵡のように呟いて、雪宮は絶句した。
 内大臣家の大姫―――?
 身分が低いどころか、それではやんごとない姫君ではないか?
「一の姫がなぜ、とお思いでしょうが、まったくもって正気のこととはこの乳母にも思えませぬ。内大臣家の姫君が宮仕えにあがるなどど………」
 乳母はなおもぶつぶつと言っていたが、雪宮はまったく聞いていなかった。内大臣家の一の姫。内府殿の姫君。女房ではなく。姫君。姫君。
 身分が低いどころか、姫君。
 そのことばかりが頭の中をぐるぐると廻り、一緒に目も廻りそうだった。
 それでは、千早の君は卑しい身分どころか、京で一、二を争う権門の姫君ということになる。
 姫君なら添臥役も可能ではないか!
 ぱっと目の前が明るくなったようで、一人でどきどきしていた雪宮は、やがて大事なことに気がついた。
「母上!」
 女御が驚いた顔で舞から視線を外し、息子のほうを見た。
「まあ、何事ですか」
「母上。母上は、つい先頃までとおっしゃいましたが、千早の姫君はもう内裏にはいらっしゃらないのですか。五節なのに」
「おや、何かと思えば」
 おかしそうに女御は微笑した。
 女御は藤壺中宮とは正反対のおっとりした柔らかい気性の持ち主で、言い換えてしまえば胆力に欠け、やや鈍いところがある。―――その鈍さが身を助け、藤壺中宮からは敵になり得ないお人柄と好もしく思われて、後宮に波風が立つことなく今に至っているが、まあそれは余談だ。
 そのため、いまも雪宮の目の光には気づくことなく、女御は笑いながら答えた。
「五節だから千早の姫君は退出されたのですよ。人の出入りが多く、騒がしいでしょう? まして今年の藤壺は舞姫を出すと大騒ぎ。殿方も多く出入りして、結婚を控えた姫君にあまりふさわしい空気とは言えませぬ」
「結婚………?」
 雪宮の顔が一気に青ざめた。
「千早の君は結婚されるのですか?」
「いつまでも中宮様にお仕えしているわけにはいきませぬ。その歳になったのに元服しなかったり、婿君をお迎えしなかったりするのはおかしなこと。宮が元服のために内裏から退出したのと同じことですよ」
「どなたと結婚なさるのですか」
「宮………?」
 ここでようやく、母女御は息子の様子がおかしいことに気がついた。
「宮、どうしました。気分でも悪いのですか?」
「いいえ………。それよりも母上、千早の姫君はどなたと結婚されるのですか」
「どなたって………それはしかるべき家の殿方とではないかしら」
 女御は困ってそう答えた。
 内大臣が一の姫を東宮にと望んでいるとの噂が、最近になってまことしやかに流れ始めていたが、本当かどうかわかりもしない噂話を皇子の耳に入れることなど、女御の身としていやしむべきことだった。
 仕方なく当たり障りない答えを返した女御の目の前で、彼女によく似た幼い顔がみるみるうちに暗く沈んでいった。
「そうですか………」
 それきり黙りこくったまま、舞を見ようともしない。
 ここまで隠すのが下手だと否が応でも気づかされる。
 女御は扇の影で、あらまあと目を見張った。



 千早の君が結婚する―――。
 御前の試みで知ったその事実に、雪宮はしばらくふさぎこんでいた。
 なにぶん幼くて、自分が何に衝撃を受けているのかもわからず、何だってこんなに自分は元気がないのだろうと溜息をついては鬱々としていたため、周囲は病気だ祈祷だ物の怪だと騒ぎ、父帝も体調がすぐれないところに舞を見せたいからといって無理をさせてしまったと早々に退出を許した。母女御は母女御で一人浮かぬ顔をしていたが―――。
 五節はあと二日残っているが、雪宮はすでに祭を楽しむ気分などではなくなっていた。
 女房たちの他愛ないおしゃべりを耳に挟んだのは、牛車に乗るために廊を歩いている最中だった。
「桐壺女御さまがいらっしゃらなくて残念ね。さぞかしお付きの女房がたも五節舞を見たかったでしょうに」
「でも、御子がお生まれになればすぐに戻っていらっしゃるわ。そうなる前に、東宮さまのお隣りに千早の姫君がいらっしゃるかもしれないけれどね」
「そうよ。その噂、本当なの? 内の大臣が千早の君を入内じゅだいさせるって仰ってるのは」
 千早の君が結婚する―――。
 しかも兄上と―――。
 二重に裏切られたような気がして、気がつくと雪宮はぼろぼろ泣き出していた。
 突然泣きだした親王に気分が悪いのかと、周囲が大慌てでどこかで休ませようとするのをふり切り、雪宮は「邸に帰る」と牛車に乗りこんだ。
 いつも一緒に同乗しようとする乳母が乗りこもうとするのを断り、一人で牛車のなかに御簾を降ろして座りこんだ。
 乳母が騒ぎたて、周囲はしばらくおろおろとしていたようだが、やがてゆっくりと牛車が動きだす。
 もうすでに夜も遅い。
 篝火はそこかしこで燃え、頭上で星は降るように光っている。
 御前の試みの後は殿上の淵酔えんずいと称する酒宴がある。誰かが唄っているらしい今様いまようが、風に乗ってここまで届いていた。
 よい夜だ。あのときのように。
 闇のなかで見た千早の君と兄は、親しく言葉を交わしていた。
 あのとき釣灯籠の明かりに照らされた兄上はとても凛々しくて、千早の姫君はとても綺麗で、二人が勾欄こうらん越しに会話を交わしているのはどこか絵巻物の一場面ようで、陶然と自分は見蕩れた。
 これ以上はなく、よく似合っていた。
 たしかに添臥になってほしいとは思ったが、何も結婚したいとか、恋人になってほしいとか、そういうわけではなかった。
 ただ、もう一度会って話がしたくて、添臥として一晩中ずっと色んな話ができたらとても素敵だろうなと思っただけだった。
 どうして、兄上は―――。
 千早の君と別れ、雷壺に向かいながら兄と交わした会話を思いだす。
 千早の君を添臥にしたいのかと冗談を言ってきた兄に、自分は本気でそれができましょうかと問うていた。
 冗談だぞと兄は驚いて、何やらしばらく唸っていた。
 もともと人の心に敏な雪宮は考えはじめてから、すぐに悟った。
(兄上は、そのときすでに話を知っていらした)
 だからすぐには反応を返さなかったのだ。弟の自分に真実を告げるべきかどうかを。
 結局そうしなかったのは、おろかにも本気でそうしたいと口にした弟を傷つけることを恐れてに違いなかった。兄は優しい。もう一人の兄とはまた違った優しさだった。
 ごとり、と一際大きく牛車が揺れた。
 一条にある大納言邸は内裏からは近い。邸内に入った気配をとらえて、雪宮は牛車のなかで顔をこすった。涙で頬がれて気持ちが悪い。
 きっと、千早の君を添臥にしたいと考えたこと自体が間違っているのだ。
 兄の生母である藤壺中宮は千早の君の伯母でもある。中宮をはさんで、二人は親しい。
 頭のなかで己の系譜を遡ってみて、雪宮はげんなりとした。兄上と千早の君は母親同士が姉妹だが、自分と千早の君は四世代ほど遡らないと血縁関係になりそうにない。はっきりきっぱりと赤の他人だった。
 どこかに縁があるならまだしも、仮にも内大臣の姫君が、東宮ではない数ならぬ身の親王のところに来てくれるはずがない。大臣の姫君はすべからく東宮や帝に入内し、皇子を生んで運良くば国母となり、父親や兄弟の栄達を助けるのが当たり前だった。
 兄上の隣りで微笑む千早の君は、きっととても綺麗だろう。よっぽどそのほうがいい。
 まだ噂の段階にしか過ぎない事実に心を痛めた雪宮は、東宮にはすでに桐壺女御がいるということ、その女御が懐妊し里下がりしていることなど、頭の中から綺麗に抜け落ちていた。
 自分が恋をしている―――と、自覚したのはさらに数日後の話となる。
 自覚したと同時に失恋にも気づき、雪宮はまた少し涙ぐんでしまった。



「雪宮さま、この叔父めの話を聞いておられますか」
 渋い顔で大納言が雪宮に注意を促した。
「―――え?」
「ですから、元服の式次第についてお話申しあげているのですが、聞いておられましたか」
「あ、ああ。ごめんなさい」
 うなだれた雪宮に一条大納言は深々と嘆息した。
 二枚格子の向こう側では、冬の色をした空がいっぱいに広がって寒々しい。
 大納言の姉が今上のもとに入内して生みまいらせたのが雪宮で、大納言にとっては甥になる。
 その雪宮はひと月ほど前から心ここに在らずといった様子で、外を見ては溜息ばかりついていた。五節を終えて内裏から退出してきて以来、それがより一層ひどい。
 年明けに元服を控えているにもかかわらず、いまだに準備でばたばたしているということ自体が聞き苦しいことだというのに、このうえその本人が見えない蝶を目で追っているようでは、ますますいらぬ評判が立ってしまう。
 嘆息したばかりの大納言の口から、また溜息がもれた。
 現在の雪宮の立場と元服の時機タイミングはもう微妙すぎて、大納言としては頭を抱えて逃げ出したい気分だった。
 ひとくちにどう微妙なのか説明することさえ難しい。
 こうなるなら去年にでも元服をすませておけばよかった。
 そろそろ三の宮も元服よのう、と帝に言われ、畏まって準備を始めたのはいいものの、途中で桐壺女御の懐妊が発覚し、そのあたりから微妙な雰囲気がただよいだした。
 もし帝が譲位し今の東宮が即位をすれば、当然ながら東宮の位が空く。そして東宮の位というものは長らく空けておいていいものではない。
 帝は譲位間近。東宮女御は懐妊中。男皇子か女皇子かはまだわからない。もし姫宮が生まれた場合、東宮以外の男皇子は素行の悪い第一親王をのぞけば、雪宮ただ一人である。
 たしかに雪宮は後見の力は弱いが、父帝に可愛がられてもいる。このまま東宮に男皇子が生まれなければ、東宮に立坊されることもあり得るのだ。
 もしかしたら次の東宮。かもしれない。縁故を申し出ておくなら今のうち。
 しかし、もし生まれた東宮の御子が男皇子だった場合、雪宮は完全に政治の流れからは外れる。雪宮側に擦り寄って東宮側から爪弾きにされてはたまらない。
 いま雪宮はその二つの均衡のちょうど真ん中に立っている。東宮の御子が生まれてくるまで、雪宮も海の物とも山の物ともはっきりしないのである。
 この微妙すぎる趨勢のせいで、添臥役をかってでてくれる者がいない。だれも皆、確率五分の雪宮よりは東宮に姫をあげたいのだ。仮に雪宮が次に東宮に立ったとしても、雪宮に姫を入内させるよりは、後見のしっかりした今東宮に姫を入内させて男皇子を生ませ、雪宮の次の東宮に立てることこそを目論むだろう。
 大納言とて野心はある。雪宮にはぜひ東宮に立っていただき、自分は帝の外戚として頂点に君臨したい。それは今に生きる貴族の最大の夢だ。
 ―――しかし、それが適わねば、自分とて東宮に娘を入内させたいのである。
 もともとこの夢は父親の先の内大臣のものであり、先の内大臣が夢半ばにして死んでしまった以上、自分が負うには少々身に余る夢だった。現在の宮中で自分の力が弱いことはよく自覚している。
 よって、こんなどっちつかずの状況での雪宮の元服は、非常に気が進まない。
 八年前の疫病で雪宮の祖父にあたる内大臣がぽっくり逝かなければ、今日のこんな事態にはなっていないのだが。
 甥に負けじと大納言が溜息ばかりついてると、畳の上に座った雪宮が気遣うように叔父を見た。
「あのう、ごめんなさい。元服のお話でしたよね。ちゃんと聞きます」
 髪を角髪みづらに結った童姿でしょげかえっている三の宮を見ると、大納言も言い過ぎたかと表情をやわらげて咳払いをした。
「いえ。宮様ご自身に気をしっかりもっていただきたいあまり、私も少々急きすぎました。なにせ、来年には大人におなりあそばすのですから」
「あのう、叔父上」
「はい?」
 何を思ったか雪宮は急に真っ赤になりながら口ごもった。
「私の添臥の姫君はもう決まったのですか」
「う………」
 今度は大納言のほうが口ごもる番だった。
 一応、決まってはいる。というより決めてしまった。年明けに元服を控え、霜月もなかばを過ぎたというのに、決まっていないなどということはあり得ないのである。支度や準備のことも考えて、神無月はじめにはすでに内定していた。気が進まず、まだ何とかなりはしないかと未練がましく考えていたため言わずにいたが、問われたからには答えねばなるまい。
「月姫の支度をととのえております」
 三の宮があっけにとられた顔をした。
「叔母上の?」
「そうです」
 月姫は麗景殿女御の末の妹にあたる。先の内大臣が遅くにもうけた姫で、雪宮より九つ年上。大納言とは娘と親ほどに歳が離れている兄妹になる。月の光のように美しいと評判の姫であるが、如何せん人見知りが激しく、おとなしいほどにおとなしい。
 雪宮は月姫の膝の上で遊んだ記憶がある。
 添臥は年上であることが多いとはいえ、これは少々年上過ぎた。
 現に月姫は恥ずかしがって今でも添臥を渋っている。姫が十二、三歳のころに雪宮は三、四歳。膝の上であやしたり、遊び相手をしてやっていた。
 彼女が渋るのも無理はない。添臥に立つと、結果としてそのまま結婚の運びとなることが多い。膝の上であやした相手を夫にするのはイヤだろう。
 案の定、雪宮はそのことを問うてきた。
「叔母上はそれでよいと?」
「ええ、それはもちろんです」
 渋っているなどと言ったら、この心優しい三の宮は月姫の添臥を断るだろう。大納言の姫を立たせたいのも山々なのだが、如何せんこちらは雪宮よりも年下で裳着もまだである。添臥にふさわしくない。
 雪宮はしばらく黙りこんでいた。
 あまりに静かなので大納言が焦れたころ、雪宮は顔をあげ、きっぱりした口調で告げた。
「添臥はいりません」
「なんですと?」
 仰天した大納言が思わず聞き返したが、答えは同じだった。
「申し訳ありませんが、叔母上にはお断りしてください。私の元服に添臥はいりません」
 ―――大騒ぎになった。
 乳母や女房、大納言が揃って説得にあたったが、雪宮は頑固に首を横にふり続けた。普段はおとなしい彼がここまで頑強に反抗するのは初めてのことで、乳母のほうは物の怪が憑いているに違いないとまで言いだす始末だった。
 終いには、話を聞いた月姫がわざわざ文を届け、自分を気遣う気持ちはありがたいが宮様の添臥とはまた別問題であり、私のことなど気にするには及ばないと説得にあたったが雪宮はそれにも頷かなかった。
「叔母上のお気持ちはありがたいのですが、私は叔母上のためだけに添臥を断ったのではありません」
 もちろん麗景殿にもこの話は耳に入り、大納言は早々に女御に呼び出されることとなった。
 後見の自分の監督不行き届きだと責められたらどうしようと悶々としていた大納言は、姉の話を聞いて、卒倒しそうになった。
 御簾越しでは、とわざわざ几帳きちょう越しに対面した女御は蚊の鳴くような声で、弟にあたる大納言にこう告げたのだ。
「こたびの添臥、内の大臣おとどの華奈姫にお頼みするわけにはゆかぬでしょうか―――」
 大納言は何もかもやめて、寺にでも籠もりたくなってきた。

〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)

五節……ごせち。源氏物語にも枕草子にも記述のある宮中の一大イベント。用語解説は黒方の巻の〈一〉と〈四〉でも触れていますが、ここでまとめを。

 十一月中旬の丑の日から辰の日まで、四日にわたって行われる儀式で、一日目に四人の五節の舞姫が楽屋入り、その夜に天皇の前で一回目のリハーサル。
 二日目には二度目のリハーサルで、その後には殿上の淵酔と呼ばれる宴。雪宮が見たのはこれです。
 三日目の昼には舞姫が連れてきた女童や下仕えの女の子を眺める童女御覧のイベントがあり、その夜に新嘗祭が行われ、帝がその年の新穀を神に供え、天地の神々に五穀の実りを感謝します。
 最終日には豊明節会があり、そのなかで五節の舞が舞われ、舞終わった舞姫は明け方に神事を解くためのお祓いをして退出します。

 五節舞を舞う姫は通常四人。三位以上の上達部クラスから二人、四、五位の受領クラスから二人ずつ出しました。藤壷中宮のところか舞姫を出したというのは、上達部クラスのことです。介添えの女房や女童、下仕えなどが15〜20人ぐらい付きました。何せ女童まで眺めるイベントも用意されているので、出す方は金がかかってしかたがなく、嫌がる人も多かったようです(笑)

典侍……ないしのすけ。後宮十二司、内侍司(ないしづかさ)のNo.2。源氏物語で源氏に色目を使っている心はいつも15歳のお婆ちゃん、源典侍がこのポストですね。本来ならナンバーワンであるはずの尚侍(ないしのかみ)が天皇の奥さん的な役割を兼ねてしまったため、実質的に女官たちを取り仕切るいちばんエライ役職になってしまいました。天皇の髪を結ったり、給仕をしたりと、側近くに仕えました。れっきとした国家公務員。

小忌衣……おみごろも。白の布に山藍の青色で文様を摺り出した衣で、男の人も女の人も同じ者を着ました。形としてはうーん、唐衣とか汗衫に近いのかな?(汗)
 「小忌」とは、不浄を忌む清浄を意味します。えーと、写真はこれ

参議……さんぎ。えーと、これも令外官。つまり最初はなかった役職で、法律には定められていない臨時職。臨時職という建前、必ず他の役職と兼任でつとめた、はずです(笑)←よくわからない。
 定員は8人。「宰相」と呼ばれることも多いです。陣定(じんのさだめ)と呼ばれる閣僚会議に参加するには最低でも参議になっていなければなりません。なるには幾つかの条件を満たしていなければいけませんでした。位は三位。参議院の参議かな?

今様……いまよう。平安時代後期に流行した歌謡。今様とは当世風のという意味。要するに、今はやりの歌というわけです。後白河法皇の今様狂いは有名で、ソングブック「梁塵秘抄」を書きました。日本史で暗記させられた人もいるのでは。ちなみにこの本のなかには身も蓋もない歌も。「女の盛りなるは 十四、五、六歳 二十三、四とか 三十四、五になりぬれば 紅葉の下葉に異ならず」。なんつー歌だ(笑)

角髪……みづら。古事記の時代の男の人がやってた髪型ですね。顔の左右で8の字に髪を結いまとめり、輪っかにしたり、俵のようにまとめたり。平安時代では子どもの髪型でした。