光の扉 (オープン・ザ・ゲート) 〔5〕
壁の向こうは、たったひとつの部屋と、通路の行き止まりに設けられた両開きの大きな扉とで構成されていた。
同じように埃の溜まった通路を進み、リナとゼルガディスは部屋の中を覗き込む。
「………ここは、ちゃんとしてるわね」
リナが眉をひそめて呟いた。
これまで通過してきた、がらんとして何もない部屋たちと違って、この部屋には家具が置いてあり、生活の匂いが残っていた。
テーブルの上に置かれた、いまは埃の入っているカップをゼルガディスが手に取る。
「この場所が封印されたのと、この施設を破棄した時期とが、完全に同じではないんだろうな」
「でしょうね」
テーブルの他に、書き物机や椅子、棚などが配されている狭い部屋だった。
その部屋の中を見回したリナは、書き物机の上に置かれた小さな箱のようなものに気がついた。
近寄って、指で一部分の埃を拭いとる。どうやら魔法装置のようだった。
平べったい箱のような形をして、その中央が円形にくぼんでいる。
「それは?」
「さあ………」
気づいて近寄ってきたゼルガディスに、リナは首を横にふる。
二人してあちこちいじってみたが、どうにも起動しそうになかった。
「あきらめて、奥の扉に行かない?」
リナの言葉に、ゼルガディスはうなずいた。
しかし、扉はうんともすんともいわなかったのである。
『開けること赦されず』
そう扉の表面にひっかき傷のように刻まれた文字の後ろに付け足された名前に、二人とも覚えがあった。
記憶の棚から引き出されて、鮮やかに甦る光景や名前がある。
この扉、何人たりとも開けること赦されず―――エリシエル。
ゼルガディスもリナも、無意識のうちに深い溜め息をついていた。
「そう言われると開けたくなるのが人情ってもんよ」
リナがこつん、と扉を叩いてそっと呟いた。
なぜ、エリシエルがここを封印しなければならなかったのか。
なぜ、ここを破棄しなければならなかったのか。
それはつまり。
なぜ、赤法師レゾはここを封印し、破棄させたのか?
リナが扉の取っ手を縛めている鎖をがちゃつかせた。
例によって魔法でも切断できなかったのである。今度はゴーレムを作ることもできなかった。
「新しい呪符が使える状態なら、お前に神滅斬でぶった斬ってもらうんだが」
ゼルガディスがとんでもないことをぼそりと言った。
やはり、彼もこの奥がどうしても気になるようである。
新しい呪符はまだ調整中だ。ここには持ってきていない。
リナは嘆息して、天井を仰いだ。
「しゃーない。いったん戻って、今度はあたしの代わりにガウリイを連れてまた来るしかないわ」
ガウリイの斬妖剣でも斬れるかどうかはわからないが、ためさないよりよほどいい。
ゼルガディスは無言で天井まで届くほどの大扉を眺めていたが、やがてリナの言葉に従って来た通路を戻り始めた。
「ちょい待ち」
リナがさっき平べったい魔法装置の置いてあった部屋の入り口を指さす。
「リアのおみやげ、物色してってもいい?」
「あの埃まみれの部屋から何を持ち出す気だお前は…………」
ゼルガディスがうめいて、それでも律儀にリナにつきあう。
さっきは扉のことも気になり、ざっと見ただけだったが、今度は念入りに部屋の中を見て回る。
「うーん。この変なの持って帰って何かマズイ装置だったら困るし………」
「…………やめとけ」
なかば真剣に忠告しながら、ゼルガディスは机の引き出しを開けようとした。
「………?」
開かない。
二段目を引いてみたが、これはあっさり開いた。埃しかなかったが。
三段目もあっさり開いた。
どうやら一段目のみ鍵がかかっているようである。魔法のものか本物の鍵かはともかく。
「リナ。お前、アンロック使えたな?」
「何? 鍵かかってんの?」
リナが手早く呪文を唱える。
唱え終わったのを確認してゼルガディスが再び引っ張る。
今度は手応えが違ったが、やはり開かなかった。
さっきまでぴくりとも動かなかったのだが、今度はガチリと錠が中でぶつかる音がする。
リナが眉をひそめた。
「もしかして、アンロックと本来の鍵の二重掛けなんじゃないの?」
「念が入ってるな」
ゼルガディスが、有無を言わさず鍵の部分にどこからともなく取り出した針金を突っ込んだ。
そうしてあっさりリナに場所を譲る。
「お前の得意分野だろう?」
「………………あんたねぇ」
半眼でじとりと睨みながらも、リナは引き出しの前にしゃがみこんで針金をいじりはじめた。
しばらくそうしていたが、リナは渋面で言い放った。
「錆びてる。ここはぱあっと景気良く壊さない?」
「中味の無事は保証できんぞ、それじゃ」
「うーん。ぱぱぱっと鍵だけ斬ってくれると、とっても助かるんだけど」
「お前の旦那と俺を一緒にするなッ。できるか、ンな非常識な真似が !!」
「やーねー、言ってみただけじゃない。ここは腰を据えましょ。油ある?」
リナは必要な道具を取り出し、ゼルガディスからも足りないものを借りると、マントの上に座りこんで本格的に開錠作業に没頭し始めた。
手の空いたゼルガディスは、部屋の他の部分を物色しはじめる。
しばらくそうしたあとで不意に、リナがゼルガディスを呼んだ。
「ねー、ゼル」
「何だ」
「あんたさー。セイルーンに帰ってくるってアメリアと約束したんだって?」
思いっきり背後で埃が舞う気配がした。
「ちょっと、あんまり埃たてないでっ」
「いきなりお前が妙なことを言うからだ!」
「いや、ちょっと暇だから」
針金から伝わる微妙な手応えに集中しながら、声だけをリナは放って寄越す。
「ちょっと意外だったから、嬉しかったわ」
「…………?」
ゼルガディスがわずかに眉をひそめた。
「あんた、煩わしいの大嫌いでしょう? 表向きの権力も、地位も、肩書きも」
ゼルガディスの返事を待たずにリナは続ける。
「そういうのどうでもいいくらいにアメリアのこと大事に想ってくれてるんだなーって思って、ちょっと嬉しかったのよ」
お互い、相手の表情は見えないままだ。
ゼルガディスは返事をせず、リナの声だけが淡々と響く。
「あたしね、人が幸せかどうかって、その本人がその状況の負の面なんか問題じゃないくらいに満足してるかってことが大事だと思うのよ。どんなことにだって、正と負の両面がついてまわるものだから。あたしにしたってそう。あたしはリアを産んだことでたしかに弱点を増やしたかもしんないけど、それでもいいって心から思えてるの。もちろん、その判断する基準は人それぞれだけどね。
―――あんたもそうなんでしょう?」
(そう思ったからこそ、アメリア=ウィル=テスラ=セイルーンと約束したんでしょう?)
「………………………意外だったのか?」
それは心外、と言外に言われてリナは小さく笑う。
「全然信用してなくて、ごめん。でもあんたならアメリア置いてどっか行きかねないと思ったわ。どうにも読めなかったのよねぇ、あんたの思考回路」
「読まれてたまるか」
声をあげて笑うと、リナは針金を引き抜いた。
「やっと開いたわ」
引き開けた中には、すっかり表面が曇ってしまったオーブがひとつ転がっていた。
それを見た瞬間、リナの思考がめまぐるしく動き出した。ほとんど無意識のうちに、彼女はテーブルに置き直しておいた、あの魔法装置をふり返っていた。
中央の、円形の、くぼみ。
「―――再生装置なんだわ!」
ゼルガディスがすぐさま装置を持ってくる。
綺麗に埃を落とし、オーブの汚れも拭き取ってから、リナは慎重に台座にオーブを収めた。
微かな起動音がして、オーブが淡く発光する。
「やっぱり―――」
「シッ。待て、何か喋ってるぞ」
ゼルガディスが小声でリナを制した。
(レゾさま………)
ほのかな女の声に、リナもゼルガディスも聞き覚えがあった。
「………エリス」
それは、もうこの世には存在しない女の声だった。
(レゾさま。あえて命を破ってこの声を残した私をどうかお赦しください)
声だけが暗い部屋に流れ続けた。
画像はなかった。
当然だった。
これを聞くだろう、聞いてほしかっただろう相手には、エリシエルの姿を見ることはできなかったのだから。
(私には………このエリシエルには、どうしてもレゾさまのお部屋を破壊することができませんでした。あれほど親しんでらしたお部屋と書庫を崩せなど、レゾさまの命は理不尽なものに思えます………)
オーブが声の抑揚に合わせてかすかに明滅を繰り返す。
(封印するにとどめた私の独断はいかようにも罰してくださって結構です。ただ、御体をおいといになってください。あれほど可愛がっていらしたお血筋の方を合成獣になさるなど、レゾさまのなさることとは思えません)
リナは小さく息を呑んだ。
隣りにいるゼルガディスの表情を見ようとは思わなかった。
それができるほどの、無邪気な無神経さを持ち合わせてはいない。
合成獣にされる前の記憶を良く覚えていなくて幸いだと、ついさっき聞いたばかりなのだ。
覚えていない方が―――記憶を失う前、レゾが自分にどう接していたのか覚えていない方が、傷が浅くすむ。痛みと葛藤に無縁でいられる。
溜め息混じりに「よかったわね」と同意した。間違っていたとしても、確かにそれはひとつの真実だ。
何とも居心地の悪い、気詰まりな空気のなか、エリシエルの声は流れ続ける。
(この声をお聞きになっているということは、多少なりとも落ち着かれ、私に下した命が誤りだったとレゾさまが考えておられる証拠なのだと、思ってもよろしいのですよね………?)
ここにはいない―――おそらく彼女の心の中にしかいないレゾに向かって、言葉は切々と紡がれている。
それを聞いているのは、レゾではない。
リナは顔を歪めた。聞いていて気持ちのいいものではない。
なまじレゾを知っているだけに。
このオーブの中でエリシエルが案じていたレゾの様子のおかしさは、魔王に精神を蝕まれていくその課程での出来事なのだろう。
崩れていく精神の均衡のなか、レゾは彼女にここの破壊を命じた。
そして、その次にはおそらく拠点そのものの破棄を命じた。
どうして?
(レゾさまがあれほど熱心に研究してらした様々な分野のその成果を、瓦礫の下にすることなど私にはできません。書庫を埋めてしまうと、いつの日かお血筋の方の体を元に戻したいと思われたとしても、それすらもできなくなってしまいます。このエリシエルの短慮を笑ってくださってかまいません。なにとぞ書庫を開ける鍵のことばをこのオーブに残すことをお赦しください。鍵となることばは…………)
「…………ッ!」
リナはオーブを装置ごとつかんで部屋の外に飛び出した。
目の前の扉、鎖の絡まる取っ手にオーブをかざしたその瞬間、エリシエルの声がキーワードを紡ぎだす。
泣いているような声だった。
もしかしたら彼女は予感していたのかもしれない。
崩壊してゆくレゾの精神が、元には戻らないことを。
それでも、レゾに仕えることが彼女の幸せだったのだろう。
負の面すべてを飲みこんでしまえるほど、幸せだと思っていたのかもしれない。
けれど、そんなことはもうわからない。
レゾは魔王と共に滅び、エリシエルは死に、ゼルガディスはリナたちと出逢い、アメリアと出逢い、そしていまだ合成獣のままでいる。
(開いて………)
吐息のようにリナは囁いた。
決してゼルガディスのために残された部屋ではない。エリシエルのエゴが、レゾのために自分のために壊さず封印した部屋だ。
彼女にとってはレゾが全てだった。
だが、そんなことはどうでもいいのだ。
本当に、どうでもいいのだ。
リナとゼルガディスがこうしてここにいる、そのことこそが重要なのだ。
(開いて………!)
エリシエルの声が途切れた。
鎖がひとりでにほどけて、落ちた。