翼の舞姫 (テイク・レボリューション) 〔1〕

 廊下をこちらに向かってくるせわしない足音に、アメリアは目を覚ました。
 アメリアの覚醒を受けて、傍らのユズハのまぶたもぱちりと開かれる。
 昼過ぎから雲が出てきたため月は隠れて見えないが、それでもまだ夜明け前の時間帯であることはわかる。
 アメリアは無言でベッドを滑り出た。
 闇の中、立ち上がったところで、ほとほとと扉が叩かれ、静かに名前を呼ぶ声がした。
「アメリア様。お起きください」
 その声にわずかに目を見張って、アメリアは扉に駆け寄って引き開けた。
「じい―――」
 クロフェル候がライティングの明かりと共に、そこには立っている。もうすでに七十近い年齢にもかかわらず、元気に父親の侍従長を務めている老人だ。
「こんな時間にどうしたんです?」
 クロフェルは、昼間と何ら変わらぬ服装をしている。
「殿下が、至急執務室まで来ていただきたいとおっしゃっております」
「父さんが?」
 固いその表情に、何かあったのだと知れる。
 いったんドアを閉めて着替えたアメリアは、ユズハに寝るように言い置いて、クロフェルの後に続いた。
 残暑が続いていると思っていたが、夜の回廊はひんやりしていて、アメリアはぶるりと肩をふるわせる。
 父親の執務室で、さらにアメリアは目を見張った。
 父親のフィリオネル以外にも、叔父のクリストファ、そして普段父親の政務を補佐している、クロフェルの部下の侍従たち二、三人がアメリアを出迎えたのだ。
 その様子から、この場に大臣たちがいないのは単に夜中で自宅に戻っている、ただそれだけの理由なのだと理解する。昼間なら、恐らく大臣たちもここにいるのだろうということも。
 これは、いったい―――
「夜遅くに起こしてすまぬ、アメリア。だが、大事が起きた」
「どういうことです、父さん」
 クリストファが、執務机の上にたったひとつ置かれていた天鵞絨ビロード張りの小箱を目で示す。指輪などを収めておく宝石箱によく似ていた。
 アメリアはそれを手にとって、中を開いて絶句する。
「これ国璽こくじじゃないですか!」
 普段、執務は王族の署名―――すなわちアメリアやフィリオネルのサインだけで書類を決裁する。
 だが、法の発布や軍を発起させるなどの最重要事項の裁可にかんしては、王もしくは王の代行者の署名と国璽の二つが揃わねばならない。逆を言うなら、この国璽さえ押さえれば、大抵ことはできてしまう。
 アメリアはこれまで国璽を目にしたことがなかった。国璽を使用するほどの重要な決定は、たいてい祖父が直接行うか、父親のほうにまわされてしまう。
 セイルーンの国璽は、金貨ほどの大きさの立方体だった。鈍い、銀とも金ともつかぬ淡い光を放っている―――オリハルコンだ。彫られている印影は、当然セイルーンの紋章。
「国璽がどうしたっていうんです」
 箱の中から、周囲の人々の方に顔をあげたアメリアに、執務机に両肘をついた父親が苦い声で告げた。
「それは偽物だ。すり替えられた」 
「――――!!」
 アメリアは思わず、手の中の輝きに視線を落とした。




 事が発覚したのは、些細な偶然がきっかけだった。
 夜、執務を終えようとする寸前、不意にフィリオネルが国璽はどこだと訊いたのである。単にずっと目にしていないので久しぶりに目で確認しておきたいと思っただけだったのだが、保管されている庫から持ってこられた国璽を見て、クロフェルが異変に気づいた。
 オリハルコンにしては輝きが強すぎる。色合いもわずかながらおかしい。
 念のため、その国璽をいらない紙に捺し、過去の書類と重ねてみて、その場にいたものは愕然とした。
 あまりにも捺された紋章がズレていた。
 クリストファが呼ばれ、箝口令がしかれ、そうしてアメリアが呼び出された。
 アメリアの眠気は一気に吹っ飛んでいた。
「いったい、いつすり替えられたって言うんですか」
 何せ滅多に使用されないものだけに、いつのまにすり替わったやら見当もつかない。
「最後に国璽が使われたのは、あの時だ」
 父親の言葉に、アメリアは遠く離れたところにいるリナたちを思い出した。ここにいる叔父のクリストファが王位継承権を放棄し、従兄のアルフレッドが死んだ、あの時。
 あの時、王位継承権に劇的な変動が生じたため、あらたな継承順位がアメリアと姉のグレイシアに下された。その時の勅命に使用されたのが、最後。
 いまのアメリアの継承権は、第三位。
「国璽のある庫には常に歩哨が立っておる。最後に庫が開かれたのは、数日前。書類を取りに宮廷大臣が庫に入っている」
「宮廷大臣が? まさか―――」
 庫に入るには、常に歩哨がそれに立ち会っていなければならない。
 真夜中のため、ただちにその歩哨に確認をとることができないのが、非常にもどかしい。
「リーデット殿が帰られたのも、その頃ですな」
 クリストファの言葉に、アメリアの表情が青ざめた。
「叔父さんは、リーデがやったって言うんですか !?」
「可能性は否定できない。兄上、宮廷大臣だろうとリーデット殿下であろうと、どんな人物でも疑ってかかるべきです」
「リーデはそんなことしません!」
 食ってかかるアメリアを、クロフェルがなだめにかかる。
「アメリア様、このクロフェルもそんなことを信じてはおりません。しかし、すり替えられている以上、王宮から持ち出されているのは必至。ここ数日で王宮を出ていったのはリーデット殿下のみです。リーデット殿下が犯人でなくとも、その供の者に賊が紛れておるやもしれませぬ」
 アメリアは唇を噛んで俯いた。
「でも、最後に使用されたのがそんな前では、いつ誰がすり替えたのかなんてわからないじゃないですか」
「玉璽は、わしが時々思い出してはこうやって確認する。今夜のようにな」
「最後に確認したのは、いつなんです」
「一ヶ月ほど前だ」
「クロフェル候。その一ヶ月の間に、庫に出入りした者は?」
 クリストファの問いに、クロフェルが表情をひきしめた。
「宮廷大臣が二度。庫の埃払いの女官が一人。魔道書の閲覧をゆるされた宮廷魔道士殿。そして、宮廷大臣が案内したリーデット殿下の四人です。全員が歩哨の立ち会いの元、庫に入っております」
 アメリアは愕然と目を見開いた。
「どうしてリーデが庫に入っているんです!?」
 部屋にいた全員が、気まずそうにアメリアを見た。
 フィリオネルが口を開く。
「おぬしも、リーデット殿の口から直接聞いたのではないか? 公国の世継ぎにもかかわらず、主国の王女であるおぬしとの見合いに赴いた理由を」
「………泣きつかれた………うちの国が泣いて喜ぶほどの好条件を、出されて………」
 呆然とアメリアはリーデットが言ったセリフを呟いた。
 まさか、その好条件のうちのひとつに。
「宝物の下賜かし―――?」
 国璽のある庫は、無数にある宝物庫のうちのひとつでもある。
 その言葉を口に出した瞬間、アメリアの頭にカッと血がのぼった。
「宮廷大臣は何を考えているんです !? いくら意地の張り合いになってきてるからって、そんな………宝物を下賜までして、わたしと結婚させてどうするんですかっ。視野が狭すぎます! わたしが結婚さえすれば、セイルーンは永遠に繁栄して、病人も怪我人も死人も出なくなるって言うんですか !? 宮廷内のことだけしか考えてないから、頭も思考も固いんですッ」
 激昂したアメリアのセリフに、クロフェルやクリストファがぎょっとした表情をする。
「アメリア、アメリア」
 父親であるフィリオネルがなだめるような口調で、名前を呼んだ。
「いまは、おぬしの婚姻を問題としておるわけではないから、だいじょうぶだ」
「…………」
 アメリアは大きく息を吐き出した。
「………ごめんなさい。とりあえず今は国璽ですね」
「疑わしいのは、歩哨の兵を除くと四人。最有力なのは、宮廷大臣とリーデット殿下ではないかと思われます」
 リーデットの名前を聞いて、握りしめた拳がふるえた。
 宮廷魔道士や女官は、権力から遠い。国璽を手に入れても意味がない。裏に何者かがいるとしたら話は別だが。
 宮廷大臣は、国璽を簡単に利用できる立場にある。しかも庫に立ち入っている回数が多い。
 そして、リーデットには国璽を入手するだけの理由がある。
 正確には、リーデットの公国には。
 リーデットが継ぐであろうマラード公国は、二十年程前に沿岸諸国連合から分離して国境の接しているセイルーンの属国となった、若い国だ。
 沿岸諸国連合との間には分離の際の軋轢がいまも存在するし、連合諸国へ食指を伸ばしたがっている他国や、諸国連合そのものへの慎重な配慮が必要だと主張する重臣たちのせいで、主国セイルーンからの庇護も充分とはいえない。
 国璽を手に入れれば、公国に有利な命を発布できる。
だが、そこまでする必要があるだろうか。そんな危険を冒す必要はないはずだ。
 せっかく主国が頭を下げて、好条件を出して、うちの王女と結婚してくれと言っているのに、わざわざその見合いに来たセイルーン王宮で国璽を奪うことなどするだろうか。
 確かに、見合いの失敗は昨日の早い時間に確定していたから、リーデットはともかくその供の者が煮詰まって暴挙に出たということは考えられる。
 しかし、庫にはリーデットしか入っていない。
「夜が明け次第、宮廷大臣を召喚する。他の、宮廷魔道士と女官とこの一ヶ月歩哨に立った者は内密に監視下におき、それとなく事を質すように。リーデット殿下は、まだ公国に帰り着いておらぬはずじゃ、各地の魔道士協会にメッセージを飛ばして、至急戻るよう―――」
「待って、父さん」
 指示を遮ったアメリアに、この場の全員の視線が集中する。
「呼び戻さないで、こちらから調査団を派遣しましょう」
 その言葉に、フィリオネルの目が見開かれた。
 愕然とした表情のクロフェルやクリストファを見ながら、アメリアは言葉を続ける。
「わたしはリーデを信じています」
 腕いっぱいに琥珀の薔薇を抱えて、馬車に乗って行った。
 味方が要るかい、と訪ねてくれた。
 疑うなんて―――無理だ。
「だけど、じいや叔父さんが言うことも、もっともだと思いますから、ですから調査団を編成して派遣するんです。もし戻るよう指示を出した場合、事の発覚に気づいた者が国璽だけ持って先に公国に帰るかもしれません。だから、向こうには何も知らせずに後を追うんです」
 いつの間にか、父親の背後にある窓から見える空は、淡い菫色に染まり始めていた。
 夜が、明ける。
「お願い、父さん」
 アメリアはまっすぐにフィリオネルを見つめた。
「調査団に、わたしを加わらせて」