翼の舞姫 (テイク・レボリューション) 〔12〕
アメリアは夜空を見上げてわずかに目を細めた。
イルニーフェと自分は似ている。
ただ、決定的な違いは一人でそれを為そうとしたか、最初から味方を求めているかだけだ。
どちらがいいのだろう。
イルニーフェの方が、強くまぶしい高みにいるのだろうと漠然と思う。自分が十二のときは、きっとあれほどの輝きを見せてはいなかった。
母を失って、姉は去ってしまった。
だけどここが自分の居場所だ。
居づらいなら居心地よく変えてしまうだけだ。
「―――オルハ」
窓際から戻り、椅子に眠る白ネコの背を撫でてやりながら、アメリアはそっとひとり呟いた。
「わたし、本当は、ゼルガディスさんを好きなことに比べたら、他のことなんて何の価値もないんです」
微かに白ネコが身じろぐ。その様子にわずかに笑んで、アメリアは続ける。
「でも、そんなのって不健康ですよね」
その想いは事実だが、自分の幸せの条件には、周囲の、自分が愛している人たちの幸せも含まれていてそれは絶対に外すことはできない。
なりふりかまわない想いでは、満たされるが幸せではない。
心から笑えない。
「そんな不幸な恋愛はしたくないからわたしはここにいるんです」
自分に言い聞かせているような声だった。
数日前、慰問と称してやってきたリーデットの会話が脳裏に甦る。
(答えはでたのかい?)
(あれから同じことを別の人にも聞かれました。でも、そんなもの最初っから出てましたよ。ただ、ちょっと誘惑にかられただけです)
涼しさが寒さへと移り変わる季節のなか、撫でているオルハの体温が指に温かい。
(絶対帰ってきてくれますから。わたしは、ちゃんと胸を張っておかえりなさいって言うためにここにいるんです。だから、どこにも行きません。
―――これが、答えです)
アメリアは、視線を窓に向けるといまだ再会のかなわぬ恋人に向かって、声に出さず呟いた。
―――愛してます。
イルニーフェは目を開けた。
身を起こそうとすると体中が痛んだが、いうことを聞かないほどではないので、たいしたことはないのだろう。
自分が落ちてきただろう頭上の枝葉と、クッションになってくれたであろう季節柄、積もったばかりの落ち葉を見て、イルニーフェは嘆息した。
「不幸だと思ってたけど、あたしってけっこう運がいいのねぇ………」
それほど高くは飛んでいなかったとはいえ、世の中には慣性の法則というものがあるのだ。放り出されても無傷ですんだというのは、やはり運がいいとしか言い様がない。
胸のあたりをぎゅっとつかむ。革袋に入った賢者の石の感触を確かめてから、イルニーフェは立ち上がってシルフィールの姿を探した。
「そう離れたところに落ちてはいないと思うんだけど」
もうすっかり陽は暮れてしまったが、明かりを唱えるわけにはいかなかった。自分たちを追っている連中に見つかってしまう。
「それにしても、横合いからいきなり風魔咆裂弾ってのは反則だと思うわ………」
呟きながらイルニーフェはシルフィールとユズハの姿を探したが、暗いこともあって見つからない。
―――はぐれたわね。
そう確信して溜め息をつく。自分だけがはぐれたのか、全員がはぐれてしまったのか。
他人の心配をしている暇はない。シルフィールは大人だ。いざとなれば自分で何とかできるだろう。それにユズハもだ。性格的と言動的にはかーなーり、不安を誘うが、シルフィールの言うとおり炎の精霊なら、人間相手にそう大事にはいたらないだろう。
ユズハのことを思い出して、イルニーフェは顔をしかめた。
「そうよ………半分は精霊ならあんなにぱかぱかご飯を食べる必要もないんじゃないかしら」
だいたい、どうして精霊が王宮で王女と一緒に暮らしているのだ。
考えるほどわけがわからなくなって、イルニーフェはますます顔をしかめた。
自分こそが石を持っているのだ。自分のことを考えなくてどうするのだ。
そこまで思考がたどりついたあとで、イルニーフェはわずかに苦笑した。
「気がつくとこうなってるんだもの、変な運命よね………」
少なくとも母親がデーモンに殺される前まではごく普通の人生を歩んできたはずなのだが。しかし、それから後は自分でもおかしなことなったと思わないでもない。
義姉が自分が運んだ夕食を食べて血を吐いて死んだ時点で、自分も死んだようなものだった。体は生きていた。きちんとお腹も空いた。だけど、心は死んだと思った。きっと毒殺の疑いをかけられて口封じに自分も殺されるのだろうと信じたが、それからわずか三日後―――王宮の使者が来た。
そのときイルニーフェは心底途方に暮れた。自分がどうして生きているのかわからなかった。
たった三日。
あと三日早く、使者が来ていれば。
そう考えた日から、イルニーフェは王になりたいと思った。ロードの腐敗をゆるさない王に。義姉のローゼのような人間を出さずにすむように。
セイルーンに文句を言ってやりたかった。
本当にただ、自分は悲しくて、どうしていいかわからなかっただけで。
しかし、何の因果か巡り巡ってこんなところで、こんなことをやっている。死んだ母と義理の姉が見たら何と言うことだろう。
頭をふって回想を追い出すと、イルニーフェは月の傾きと方角でだいたいの時間を目算して、当面の目的地である領主の館のある街の方角へと歩き出した。
いつまでもここにいてもしかたがない。合流しなければ。
「ダメね………」
ぽつん、とイルニーフェは呟いた。
「迷ってばかりだわ」
やることなすこと、これでいいのかわからなくて。
死なせるのは惜しいと面と向かって言ってきたセイルーンの王女は、迷っているようには見えなかった。
ためらいもなく、目の前で譲位宣言書を破いてみせた。
あそこまでさせて、ずっと待ち続けているという男の人は、いったいどんな人なんだろう。
「おじいさんに聞いておくんだったわ」
ユズハとシルフィールはどうやら知っているようだったから、合流できたら聞いてみるのも悪くないかもしれない。
だが、それにはとにかく合流しなくては。
―――暗い森は怖い。
一見、息をひそめて眠りに就いているかのようで実は違う。夜を活動の時とする動物たちのさざめきがイルニーフェの耳に忍びこむ。黒い影がそそり立つなか、月光の幾筋もの細い光が射しこみ、足元をわずかに照らす。
嘆息してイルニーフェは手前の枝を押しのけた。
追ってきた人間と出くわすかもしれないと思うと、よけい神経が鋭くなる。鳥の声や、葉擦れの音にさえ、注意を払ってしまう。
臆病になっている自分を内心笑いながら、イルニーフェは慎重に歩を進めた。
まったく、こんなことを怖がっていては王になりたいだなどと言う資格はない。
イルニーフェが方角を確かめようと立ち止まった瞬間だった。
「 !! 」
横合いから黒い影が飛び出した。
声をあげる暇もなく、地面に押し倒され口を塞がれる。
もちろんイヤと言うほど暴れたが、所詮は十二の子ども。力、体格ともに大の男には到底かなわない。
「捕まえたぞ」
「他は?」
「見当たらん」
「剣は?」
「持ってない。見ればわかるだろうが」
剣についた宝玉が偽物と気づかれていないことと、ユズハとシルフィールがまだ無事でいることを確認してから、イルニーフェは口を塞いでいる男の手に思いっきり噛みついた。
ぎゃっと叫んで男が手を離す。
狼狽したところをふりほどいて、イルニーフェは引きずり倒された地面から飛び起きた。伸ばされる男の手をかいくぐり、走り出す。
とにかく必死で走ったが、後ろの声と足音は遠ざかるどころか、だんだんと追いついてくる。そもそも足の長さが違うのだと思ったが、思ったところでいきなり自分が成長するわけではない。
前方に月明かりに照らされて人影が見えたとき、イルニーフェは挟撃されたのだと思って一瞬、心臓が止まった。
だが、すぐに誤解に気づいた。
木々が影を落とす暗い箇所から、月光が地面まできちんと届いているわずかな場所まで歩み出てきた影は、追いかけてくる男たちとは雰囲気も服装も全然違っていた。
―――旅人? なんでもいいわ。とにかく巻きこんで逃げ切るのみよ!
そう思った瞬間、月光に照らされるその髪が濃く透き通った赤茶色なのに気がついた。
見覚えが、ある。
イルニーフェと目があったその人物は、いたずらっぽく笑った。
「アセルス公女 !?」
「これを持って先に逃げててくれる?」
その声は中性的なアセルス公女のものとは違って、れっきとした男性の声だった。
とっさのことに混乱するイルニーフェに、その手がレグルス盤を押しつける。
「君を護って奴らを撃退する自信は少しもないんだ。先に行っててくれると助かるな」
「―――わかったわ」
質問は後だ。
すれ違うようにイルニーフェは走り去っていった。
その足音を聞きながら、リーデットは不意に苦笑した。
「よけるだけなら得意なんだけど」
「そこをどけ」
闇を動くのに便利な黒い色彩をまとった男の低い声に、リーデットは剣を抜いた。
その数、四人。
「退くわけにいかないな。姉さんによると、彼女は僕の未来の花嫁だそうだから。僕の意志はともかく、姉さんに逆らうなんてそんな恐ろしいことできやしない」
まあ、さっきの印象じゃ僕としてもそうやぶさかじゃないけど、とリーデットは呟いて笑ってみせた。
「そういうわけで、追いたかったら僕の屍を越えてってくれる?」
レグルス盤を頼りに合流すると、リーデットはイルニーフェの前に膝をついた。
「こんばんわ。君がイルニーフェだろう? 僕はアセルスの弟のリーデット」
イルニーフェは困惑もあらわに目の前の青年を見つめた。
「マラードの、公子?」
「そうだよ」
「どうしてこんなところにいるの?」
「アメリアから話を聞いてね、後を追いかけたんだ」
「わざわざ?」
「うん。そう」
イルニーフェはまだ警戒した表情で告げた。
「とりあえず、お礼を言うわ。助けてくれてありがとう」
「どういたしまして。ところで、ユズハとシルフィールさんは?」
「………はぐれたわ」
「石は誰が持ってるんだい?」
「………あたしよ。剣はシルフィール。でもユズハもシルフィールもまだ向こうには見つかっていないし、剣が偽物だって気づかれてもいないわ」
イルニーフェはやや警戒を解いた。石の事をアメリアが話すくらいだから、よほど信用されているのだろう。
「リーデット公子―――」
「リーデでいいよ。皆はそう呼ぶ」
「ごめんなさい。まだ略称で呼べるほど親しみを感じないの。リーデット、膝をつく必要はないわ。子ども扱いしないでくれる?」
リーデットは黙って立ち上がった。
「別に子ども扱いしてるわけじゃないよ。見下すのも見上げるのも嫌いなだけ」
イルニーフェが奇妙な表情をした。周囲が明るかったなら、早とちりに頬に朱が散っていることがわかっただろう。
「ごめんなさい。そうだとは思わなかったわ」
「別に気にしてないよ。とりあえず街まで歩こうか。すぐ近くだよ。合流するならそこだと言ったんだよね?」
「ええ」
磁石を取り出して月の位置と見比べると、リーデットは率先して歩き出した。
延々と森の中を歩いたあとで墜落、神経を尖らせての一人歩き、さらにその後は全力疾走ときたため、イルニーフェの体力はもはや尽きかけていた。この日何度目かの溜め息をつくと、リーデットの後に続く。
「どうしてばれたのかしら」
歩きながらイルニーフェが独り言を呟くと、意外なことに返答があった。
「それ、僕のせいなんだ」
「何ですって?」
思わず目をしばたたくと、飛び出している木の枝をつかまえて折り曲げながらリーデットが何でもないかのように答えた。
「僕とアメリアの会話を聞かれていたんだ。まあだからこうしてすっ飛んできたわけなんだけど。石を取り外したことは知られてなくてよかったよ」
姉のアセルスとは別の意味で会話に疲れる人物だった。
「行かせた本人がセイルーンで足を引っ張らないでほしいわね」
「手厳しいね」
「他人に厳しく、自分にも厳しくがあたしのモットーよ」
「………他の女官たちから嫌われてなかったかい?」
イルニーフェは悪びれなかった。
「そりゃあもう、ものすごく」
リーデットは嘆息したようだった。
「………どうして僕の周りの女の人はみんなこんなのばっかりなんだろう………」
そのセリフに何か言い返そうとしたとき、不意に横手の茂みがガサリと揺れた。
リーデットがイルニーフェを後ろに庇って、剣の柄に手をかける。
「あ、やっぱりイタ」
ユズハにのんびりと呟かれて、一気に二人は脱力した。