翼の舞姫 (テイク・レボリューション) 〔3〕
「―――ねえ、アメリア」
マラードに到着したその夜、アメリアが眠れずに露台に出て夜景を眺めていると、上からリーデットの声が降ってきた。
思わず呆れて、手すりの上に身を乗り出して頭上を仰ぐと、ひらひらとリーデットが手をふり返す。
「上がリーデの私室なんですか?」
「そうだよ。話しづらいんならそっちに行こうか?」
アメリアは軽く眉をひそめた。
「夜に淑女の寝室をおとなう礼儀ぐらいわきまえてください。それで、どうかしました?」
「いや、ただね―――」
アメリアは上を見上げるのをやめて、城下に広がる街の灯りに視線を戻した。
明日の早朝、アセルスと共にセイルーンに戻る。本当に、ただの隔幻話の故障だといいのだが、そうではないとアメリアの勘が告げている。
いまの状況では不安を煽るだけだが、アメリアの勘はよく当たった。
リーデットの静かな声が闇に流れる。
「もしいまの事態が反乱で、王宮が占拠されてて、玉座が君たちの血統じゃなくなったらどうする?」
「………降りてきますか?」
アメリアは手すりに頬杖をついて、声だけを上に放った。
「淑女の寝室をおとなう礼儀ぐらいわきまえてるから、遠慮しとく。殴られたくないし」
「わかってるじゃないですか」
「ためしに聞いただけだよ。未来は無限で何が起きるかわからない」
「…………」
アメリアは答えなかった。黙って夜景に視線を注ぐ。涼しい風が首筋をすりぬけていった。
まだまだ残暑が厳しいといっても、やはり秋だ。
「単に僕の興味本位なんだけど。君が枷から解放されたとき、どう行動するのか気になって」
上から降ってくるリーデットの言葉に、アメリアはイライラと指で石造りの欄干を叩いた。
「王女じゃなければ、君は君が待っている人のところにいけるだろう? だから、もし王宮が―――」
「言わないでください」
アメリアは遮った。リーデットがそれに従ってぴたりと口をつぐむ。
「聞きたくないです。そんなこと有り得るはずがない」
「―――アメリア」
アメリアは上をふり仰いだ。片時も離さない瑠璃の耳飾りが、ちりちりと音をたてる。
「リーデはわたしに何を言いたいんです? これ幸いと勝手に好きなことをしろってわたしを唆してるんですか」
「いや」
リーデットは短く答えた。
見おろしてくるその表情が、アメリアの癇に障る。
どうして、そんな―――
降ってくる声は淡々としている。
「聞きたくないっていうのは、自分から思考を停止させることだよ。アメリア」
呆然とアメリアが見上げていると、リーデットは露台のなかに引っこんでしまった。
「おやすみ、アメリア。明日から気をつけて」
アメリアとアセルスはセイルーンへとって返した。
「アメリア、本当に大人っぽくなったよね」
馬上で、アセルスが感心したようにそう言った。
「はあ?」
「だって、最後に逢ったのはアメリアが十四のときでしょう? 十四の姿からいきなり二十四になられたら、誰だってびっくりするよ」
「わたし、どこか変わりましたか?」
アメリアは首を傾げた。
確かに変わってはいるだろう。いつまでも十四の子どものままじゃない。
でも髪もあのときと変わらない長さを保っているし、身長もあまり変化していない。
アセルスは笑った。
「すごく変わった。そんなもんだよ。本人にはどこが変わったかなんてわからない。でも、確実に変わったことだけはわかってるでしょう?」
「ええ、まあ………」
「でも、アメリアはアメリアだよね。そういうあたりは何も変わってない」
「意味がよくわからないんですけど………」
軽く眉をひそめたアメリアに、六つ年上の王族の女性はクスクス笑って答えなかった。
事が起きたのは、セイルーンまであと二日を残す距離まで来たときだった。
「布告?」
暮れゆく街に入ったアメリアが首を傾げた。
傍らのアセルスも怪訝な顔をする。
「布告が出されたって言うの? 王宮から」
連絡の取れないはずの王宮から。
アメリアが馬から飛び降りた。アセルスがその手綱を押さえる。
人混みをかきわけてその布告板の正面まで来ると、アメリアは内容を呼んで絶句した。
なかなか帰ってこないアメリアに業を煮やしたアセルスは、布告を読み終えて馬の脇を通り過ぎていく女性を捕まえて訪ねる。
「いったいどうしたの?」
「どうしたもこうしたも」
うきうきと女性が答える。
「税を軽くなさるんですって」
「税? 税は各領主が決めることでしょう? 王宮の権限違反ではないの?」
アセルスは首を傾げた。アセルスの生まれた公国は小国のうえ属国なので、そのあたりの詳しいことはよく知らない。
「そんな難しいこと私は知らないよ。ただ、王様が各領がかける税の上限をうんと低くしてくださった。違反だろうと何だろうと嬉しいことに変わりはないね」
「そうだね」
適当に相づちをうったアセルスは、アメリアが戻ってくるのを見て自分も馬から降りた。
「アメリア」
「宿に行きましょう。話は、そこで」
アセルスから手綱を受け取りながら、アメリアは短くそう告げた。
「一時的なものですが領主が国に納める税率が低くなって、それで全体の税の上限が減っています。それから、関税も軽くなってる。それに―――」
「何?」
「自分のところの領主に不満があるなら、直接うちにチクるようにと。魔道士協会のメッセージサービスはそれに限り無料。他にも細々としたものが出されてます。どれも開始は年明けからです」
手短に告げられた布告の内容を聞いて、アセルスが片眉をはねあげた。
監査のための官を派遣しても癒着が起こる場合がある。直接王宮に伝えられるなら、そんな心配もない。もちろん無料というのは、セイルーン自体が魔道士協会に料金を支払うからだろう。
「それはすごいね。布告もすごいけど、手並みが。発布しても実行するのは並大抵のことじゃない。税率関係は大量に人を使うよ。それに一度にこんなことしたら、各領主からとんでもない反発が来る」
「ええ。それはその通りなんですが、微妙に他の布告の部分でバランスをとってあるんですよね。それに民から訴えがあっても、うちが即行動に移せるわけじゃなくって………何というか、王家の真意は不明だけど王都にすっ飛んで行くぐらいの不審を抱かせる程度ではないというか。新年の挨拶の時に嫌味を言って本意を聞こう、ぐらいというか」
眉間に皺を寄せた身も蓋もないアメリアの言葉にアセルスが吹きだす。
「フィルおじさまがやっているの?」
「そんな話出てませんでしたけど。こんなある意味めちゃくちゃな決定が四日の間に提出・裁可されるはずないですし」
困惑ぎみにアメリアが答える。
人々は喜んでいる。純粋に。国王の目の届かないところでロードが悪政をしくことはよくあることだから、間違ってはいない。たしかに正しい布告だ。
だが、いったい誰が出したものなのだろう?
しかも一度にいくつもの布告。性急すぎる。こんなに急に大きな変化を起こすと、反発が相当なものになる。
「誰が執務を執り行っているんでしょう」
アメリアは、テーブルの上のカップを手のひらで包みこんだ。
王宮と連絡がとれない。それは事実だ。現にここに来る途中の街ごとに魔道士協会からセイルーンに連絡を取ろうとしたが、やはり王宮の隔幻話室は応えなかった。
ベッドに腰掛けたアセルスが、飲み終えたカップを手に立ち上がった。
「どっちにしろ着かなきゃわからないし、どうにもならないことだよ。誰が出した布告にしろ、いったん出した以上撤回はできないから、当分はそのままにしておいたら? 朝令暮改もまずいしね」
「そこらへんが、よけい謎なんですけど」
考えこんだアメリアの後ろ頭を、軽くアセルスが小突いた。
宿の女将に頼んで持ってきてもらった香茶が、ゆるやかな湯気と共に芳香を立ちのぼらせている。
「だから、考えても今はわからないんだってば。とりあえず、晩御飯を食べに行かない? 何も考えてないフリして、実は色々考えこむのがアメリアの悪い癖だよ」
「何ですか、ソレ」
琥珀の目が笑んだ。
「いいから、いいから。それより、リーデの話聞いたときからずっと気になっていたんだ、アメリアの好きになった人のこと。聞かせてもらうから、今夜ゆっくり」
「ア、アセルス姉さん?」
慌てるアメリアに、アセルスは意地悪く笑った。本当に、こういうところは姉弟ともにそっくり同じである。
「ダメ。いままでうまく避けてきてたでしょう? 今夜は逃がさない。代わりにうちの旦那の話もしてあげるから」
「いえ、そっちの方はもういいです………」
「うちのオルの話が聞けないの?」
「ここ数日で充分、拝聴しましたから」
アセルスは、その少年のような顔でにっこり笑った。
「だから、次はアメリアの番だよね」
―――結局、なれそめから現在に至るまで洗いざらい白状させられた。
その夜、半分は眠りに落ちた柔らかな声で、アメリアがアセルスを呼んだ。
「ねえ、アセルス姉さん………」
その声に、隣りのベッドに横になっていたアセルスは起きあがる。
「寝てなかったの?」
「きっと姉さんは、帰ってきませんね………」
すぐにアセルスはそれが、自分のことではなくアメリアの実姉グレイシアのことだと気がついた。年が近いものの、王宮で何度か会話を交わしたことがあるだけで、あまり親しくはない。
「アメリア?」
「だって………姉さんは王宮が嫌いだから………母さんが死んだところにいたくないって言ってたから、きっともう戻ってこないんでしょうね………」
「…………」
アメリアの小さな囁きが聞こえた。
「きっとわたしが玉座を継ぐんだわ………」
「アメリア………」
「………おやすみなさい………」
寝付きのいいアメリアの規則正しい呼吸が聞こえだしてから、アセルスは呟いた。
「グレイシア。あなたと同じように出ていった私が言える立場じゃないけど、私はアメリアが可愛いから言うよ」
本来ならば、王族の中で一番年少のアメリアに継承権がまわってくることなどなかったはずなのに、今現在、気がついてみれば、彼女の父親の次に玉座を継ぐのは彼女しかいない。グレイシアが帰ってきさえすれば、そんなことにはならないが、アメリアはきっと帰ってこないと言う。
負荷に耐え続けるアメリアの、せめてもの望みを叶えてやれないほど王宮は狭いのだろうか。
あんまりにも口を割らないので酒を飲ませて聞き出したアメリアの、穏やかな強さに満ちた声が耳の奥で繰り返される。
『ゼルガディスさん、帰ってきてくれるって約束してくれたんです。セイルーンでもいいって言ってくれたんです。わたし、それが、すごく、嬉しくて―――』
「グレイシア。私、あなたのことが嫌い」
アセルスは布団を引っ被った。
セイルーンはごくごく普通の雰囲気だった。
以前のリナたちが関わった宮廷騒動のときよりもよほど穏やかで、普段の状態と何も変わっているところはない。
王宮の門扉も閉ざされることなく、普段通り歩哨が両脇に立っていた。
「ええっと………やっぱりただの故障なのかな?」
「ですかねぇ」
遠目に解放されている正門を見ながら、アメリアとアセルスはやや呆然としながら呟いた。
「どうするの?」
アセルスが首を傾げて訪ねた。
「とりあえず、父さんに会って事情を聞いてそれから―――」
「アメリアさん!」
背後から駆けられた切羽詰まった声に、アセルスとアメリアは同時にふり向いた。
長く綺麗な黒髪の女性が、通りの向こうからこっちに向かって駆けてくる。
「シルフィールさん !?」
「知り合いなの?」
アセルスの問いに黙ってうなずくと、アメリアは心配そうな表情をしたシルフィールに向き直った。
「どうしたんです?」
「それはこっちがお聞きしたいです。帰ってきているのなら教えてくれてもいいじゃありませんか。ユズハちゃんと、どこに行ってたんです?」
「は?」
アメリアがぽかんと口を開けた。
アセルスの反応は早かった。二人を門の歩哨の視線から外れた路地へと引っ張りこむとシルフィールの肩をつかまえて問いただした。
「ちょっと待って。アメリアは王宮に賊が入った一件で、十日前からセイルーンを離れていたのよ」
今度はシルフィールが声をあげた。
「そうなんですか? そんな話はお聞きしていません」
「ユズハはシルフィールさんに会わなかったんですか? 伝言を頼んだはずですけど」
シルフィールはますます眉をひそめた。
「これは、ちょっと変ですね………」
「シルフィールさん?」
アメリアが問うと、シルフィールはうなずいた。
「ちょっと王宮に帰る前に、おじさんの家に寄っていきませんか。すぐ近くですし、お話したいこともありますから―――あの、こちらの方は?」
遠慮がちなシルフィールの視線に、アセルスは特に気分を害したふうもなく答えた。
「私はアセルス。この子の体術の姉弟子だったの」
「彼女はだいじょうぶです」
「わかりました。お二人とも来てください」
先頭に立って歩きながら、シルフィールが言った。
「何だか、王宮が変なんです」