翼の舞姫 (テイク・レボリューション) 〔5〕

 その夜、門扉を守る衛兵は近づいてくる人影に表情を険しくした。
 まだ夜はそれほど更けていないものの、月がでていないためライティングのない場所はひどく暗い。
 やがて、ライティングの光の中に姿を現したのは黒髪のしとやかな女性だった。
 衛兵はその顔には見覚えがあった。無条件で王宮内に通すように言われている女性だ。しかし、時間が時間である。
「王宮の門はもう閉めた。明日、出直してきてほしい」
 しかし彼女はひるまなかった。
「アメリア王女に頼まれて、火急の用件をフィリオネル殿下にお伝えに参りました。書状はここに」
 目の前に差し出された羊皮紙には、その旨とアメリア王女の署名が記されていた。
 羊皮紙自体にもセイルーンの紋章が浮き出しにされていて、間違いなく正式の書状である。
 アメリア王女が父親の命を受けてセイルーンを外出中であることは衛兵も知っていたので、これを見て慌てて女性を通用門から中に入れる。
「ありがとうございます」
 微笑まれて、衛兵は少し陶然としてしまった。
「さて、と」
 門から完全に遠ざかったところで、シルフィールは書状を懐にしまった。マラードでの調査用にアメリアが持っていた公用の羊皮紙に、これまたアメリアが勝手に署名をした表向きは間違いなく『本物』の書状である。
 シルフィールは普通に王宮内を歩いていてもそう怪しまれることのない人物だ。神官の資格を取得するために神殿に赴くし、グレイの助手として参内することもある。そして、アメリアを彼女の知人として頻繁に訪問するため、ある程度は顔が利く。
「アメリアさん、アセルスさん………」
 シルフィールは暗い空を見上げた。
 彼女は別働隊。もしものときのための伏兵だった。
 本隊はいま、空にいる。




「うちの王宮って結構しっかり警備してたんですね」
「あたりまえじゃない。仮にも大国セイルーンなんだから………」
 感心しているアメリアに、呆れた声でアセルスが答えた。
「賊は入るし魔族も入ったことがあるしで、結構いいかげんなんだと思ってました」
「…………賊に入られたばかりで警備がいいかげんな王宮って、もはやダメだと思うな」
「それもそうですね」
 もはや何も言わず、アセルスは眼下に広がるセイルーン王宮に目をやった。
 あちこちにライティングの明かりが点り、時折その光の輪のなかに見回りの衛兵の影がうつる。
 これでもし見つかったりしたら笑い話にもならない。自分の王宮に潜入する王女がいったいどこにいるというのだ。
「どうするの?」
「行くとしたらわたしの部屋、父さんの部屋、父さんの執務室のどちらかです」
隔幻話室ヴィションルームは?」
「いま行っても無意味だと思います」
「とりあえず、直接フィルおじさまのところに行ったほうがいいかもね」
 魔法が使えないアセルスはアメリアにしがみつくような格好で宙に浮いている。以前からそうだったのだが、逢っていない間に覚えたりはしなかったらしい。
「アセルス姉さん。どうして魔法覚えないんです?」
「小難しいことは嫌い。混沌の言語だなんて、名前からしてややこしそうな言葉覚えられるわけがないでしょう?」
「旦那さんのほうは?」
「ばっちり使えるよ。だから別に不自由していない」
「………なるほど、補完ってこーいうことを言うんですね」
 軽口を叩きあいながら、二人はフィリオネルの私室が見える位置までやってきた。
「………暗いね」
 人の気配はない。
「まだ寝るには少し早い時間ですし………執務室の方を覗いてみま―――」
「待って!」
 突然アセルスが押し殺した鋭い声を放った。
「いま、あそこ人が通った。小さい子。あの子がユズハじゃないの?」
「 !? 」
 アセルスが指差す方を見ても何も見えない。
「どこです?」
「もう建物の中に入った。白っぽい髪の色をしてた」
「ユズハです」
 アメリアは断言した。
 あのクリームブロンドは遠目からだと白く見えるだろう。
「私をどこかに降ろして」
「アセルス姉さん?」
「私があの子を追う。アメリアは予定通りフィルおじさまのところに行って。ユズハでも人違いでも、後から追いつく。絶対だ」
 逡巡したものの、アメリアは結局アセルスの言葉に従った。
 この年上の女性が絶対と口に出したことは、本当に『絶対』だった。
「気をつけてください」
「わかってる。そっちこそ」
 うなずいて、アメリアはレグルス盤をアセルスに手渡した。簡単な呪文で起動し双方向で通話ができる二枚一組のマジック・アイテムで、今はもう片方をシルフィールが持っていた。同じ地上にいる者同士が持っていたほうがいいだろう。いざとなったらアメリアは立場を利用して何とでもなる。
「いくら小難しいことが嫌いでも起動呪文ぐらいはだいじょうぶですよね」
「アメリアも言うようになったね」
 軽口を叩いて、二人は別れた。



 警備の重点は外におかれているようで、王宮の中は人気がなかった。いくらなんでもこれは人がいなさすぎるが、アセルスにとっては多いよりはよほど良い。
「どこいったのかな………」
 アセルスはひとり首を傾げると、おもむろにレグルス盤を起動させた。
(シルフィールさん。聞こえる?)
(聞こえてます。どうしました?)
 レグルス盤を口元にあてて囁きながら、アセルスは無人の廊下を歩きだした。
(いまどこに向かっているの?)
(言われた通り、アメリアさんの私室です)
 当初の打ち合わせでは、シルフィールは人が来るはずのないそこで待機。そこでユズハに逢えればそれでよし。逢えなくともアメリアたちが連絡をいれれば合流する予定だった。
(ユズハらしい子が王宮内を出歩いているんだ。見つけたらすぐに連絡を入れて)
(わかりました)
 会話はそこでうち切られた。
 闇のわだかまる王宮内をいちべつして、アセルスはこき、と首を鳴らした。
「………なんか泥棒とか怪盗が癖になる理由がわかった気がするな」
 そう呟いて、アセルスは不意に表情を険しくした。
 廊下の角を曲がったところから話し声が聞こえる。何やら押し問答をしているようだ。
 会話が聞き取れるところまで注意深く近づいたアセルスは、聞き覚えのある男性の声と初めて聞く幼い声にためらいなく飛び出した。
 突然現れたアセルスに、声の主二人がふり返った。
 その間をすり抜けるようにして奥に立つ神官衣の男に迫る。
 その男の驚愕は一瞬だった。
 鋭い先端が空気を切る音。
 アセルスは後ろに飛んでそれをかわした。ライティングの光が黒い刀身を浮かび上がらせる。
「ユズハ! おじさまを護りなさい!」
 アセルスは相手が空振りの体勢を立て直す前に踏みこむと、相手の右肩に拳を撲ちこんだ。次いで、その右手を離れた短剣が石の床に落ちきるよりも速く、体全体の旋回をのせて左足を男の首筋にたたききこむ。
 乾いた音をたてて、床に剣が落下した。
 苦痛の声と共に床に倒れこんだ男を冷ややかに見おろして、アセルスは蹴り足を静かに戻した。
「侵入者に対して王宮の人間のフリするのは悪くない考えかもね。パッと見じゃ素人にはわからないし」
 床の上で悶絶している男に聞こえているかどうかは怪しかったが、アセルスは続ける。
「でも、ダメだよ。あなた、筋肉の動きと気配が綺麗に制御されているんだもの。普通に話しかけられても多分すぐに気づいたはず。そんな神官いるわけないよね」
 アセルスは男の首を折らない程度に踏みつけると、にっこり笑って言った。
「ごめんなさい。私、アメリアほど優しくないんだ」



 一方その頃アメリアは、執務室の窓から椅子に座っている父親の姿を発見して、安堵の溜め息をついていた。
 慎重に上空から近づいていくと、父親の他にも執務室のなかに複数の人影が確認できる。
 クロフェル侯がいるのはいつものことだ。しかし他にも宮廷大臣や他の要職にある者たちの姿もあるのが解せない。
 普段ならもうとっくに王宮内から退出している時間のはずだ。
 横の壁にはりついて伺うと、皆その表情に緊張の色を浮かべている。
 ただごとではない雰囲気に、アメリアは窓から直接合図をするのをためらった。執務室の隣りの窓から別の部屋に入りこむと、夜目に紛れるために着ていた黒い服を脱ぐ。
 その下にはマラードでアセルスから借りた服を着ていた。愛用している旅用の巫女服よりも、上着の裾がかなり長くて膝下までスカートのようになっており、蹴り足として使用する左足側には腰の辺りから下まで一気にスリットが入っている。もちろんその下はズボンにブーツである。
 扉から回廊にライティングをともしながら出てくると、歩哨に立っていた衛兵が目と口をまん丸く開いてアメリアを凝視した。
 アメリアが指先を唇にあてて口止めをすると、無言でかくかくとうなずく。
 父親の執務室の扉のノブに指をかけたとき、中から声がした。
「―――早くそこに名前を書いてくれないかしら。いったい何を迷っているの?」
「 !? 」
 アメリアは一気に扉を引き開けた。鍵はかかっていなかった。
 部屋の全員の視線がアメリアに集中する。
 執務机の正面。部屋の中央に立っていた人物がふりむいて、アメリアの姿を認めるとにっこりと微笑んだ。
「―――こんばんわ。アメリア姫さま。あたしが簒奪者よ」
 それは、いつか回廊で出会った女官見習いの少女だった。