翼の舞姫 (テイク・レボリューション) 〔7〕

 ―――あなたは独りでこの計画を立てたんですか?



 アメリアの問いに、イルニーフェは怒りに満ちた表情で答えた。
「どういうこと。あたしが傀儡かいらいだって言いたいのかしら?」
 王女は静かに首を横にふった。
「いいえ。あなたに共犯者はいないのかと聞いてるんです」
「十二の子どもに?」
 イルニーフェは鼻で笑った。
「だれが十二の子どもが玉座をほしがるのを本気にして協力してくれるというの。あたしはだれの力も借りていないわ。そんなことどうだっていいでしょう? 署名してくれないの?」
 向けられたアメリアの笑みに、イルニーフェはたじろいだ。
 透き通るような切ない微笑。なにもかもわかっていると言いたげなその表情に苛立ちを覚える。まるで自分を引き取ってくれた異母姉のような、その笑い方。
 この笑みを自分に向けることを許されるのは、世界でただひとりその異母姉だけなのに。
 紡がれる、言葉。


「―――独りじゃ、何もできないんです」


 イルニーフェは絶句した。
 言葉自体の持つ意味にではない。それが伴っていた、すさまじい実感と重さに反論を封じられる。
 その間に、アメリアはイルニーフェの脇をすり抜けて、執務机の譲位宣言書を手に取っていた。
 弾かれたようにイルニーフェがふり返る。
 周囲の重臣たちから口々に非難の声があがった。
 アメリアは黙って父親を見つめた。フィリオネルも娘の目を真っ直ぐに見返して、何も言わなかった。
「イルニーフェさん」
 初めて名前を呼ばれて、イルニーフェは驚いた表情でアメリアを見上げた。
「何よ?」
 アメリアは再びふわりと笑って、言った。


「この紙にサインして彼のところに行ったら―――」
 アメリアの指が、羊皮紙の縁にかかった。


「わたしはきっと、心から笑えなくなります」


 譲位宣言書が真ん中から二つに分けられる。アメリアの指が、さらにそれを細かい切片へと破いていった。
「出ていくときは自分で出ていきますから、心配にはおよびません」
 舞い散る紙片に、無言で目を見張っていたイルニーフェの頬が徐々に怒気で紅潮していく。
「そう。ならいいわ! あなたには頼まない。書類なんかいくらでも作り直せるもの。それともあなた、自分のお祖父様の命なんか惜しくないというわけ?」
「そういうわけじゃないです」
「だったら―――」
 その時、イルニーフェの背後で執務室の扉が音高く開かれた。
 思わずふり返った視線の先に、クリストファ王子と、アメリア王女の庇護下にある異種族の少女の姿があった。
 呼びつけたのは自分だ。フィリオネルがダメならクリストファに書かせようと思ったのだが、いまはそんなことはどうでもいい。
「なんなの―――」
 声を荒げかけたとき、涼しい風がイルニーフェの首筋をなでていった。
 わずかに湿り気を含んだ夜風。草木の匂いが鼻孔をつく。
 窓は閉まっていたはずだ――――
 背後をふり返るより早く、中性的な声が降ってきた。
「とりあえず、ハンコは返してもらうね」
 革紐のちぎれる音とそれが首筋をすり抜けていく感触。
 ふり仰いだ先には、赤茶の髪と琥珀の目をした青年が国璽を手にして立っていた。
「返しなさい!」
「返せって、もとはあなたのじゃないでしょう?」
 青年かと思ったが、よく観察すると女性だった。
「これからあたしのものになるわ!」
 きっぱりと言い切ったイルニーフェに、国璽をハンコ呼ばわりしたアセルスは一瞬目を丸くして、次に笑い出した。
「アメリア。私、この子好きだなぁ」
「返してったら! エルドラン王がどうなってもいいっていうの!?」
 イルニーフェがレグルス盤を取り出した。
 重臣たちが息を呑んだ。場に緊張が奔る。
 それを打ち破り、次に叫んだのは、王位などまったく関係ないはずのユズハだった。
「りあ、結界!」
「ユズハ !?」
「張って。早ク!」
 声の様子が反駁するのを許さなかった。
 吹きこむ夜風に、その白金の髪が舞い上がる。
 すぐさま言う通りにしたアメリアの呪文が完成した、直後。
 開いた窓から火炎球の朱い光が部屋の中に射しこんだ。火球は結界に当たって炸裂し、紅蓮の炎が周囲を舐める。
 アメリアとユズハ以外の人間がその顔色を失う。風の結界内の温度が急激に上昇していく。
「ユズハ、消してください!」
 その言葉を受けたユズハが無言で炎を凝視した。精霊自体に干渉して炎を吹き散らす。焼け焦げた室内だけがそこには残された。
「なんなのよ !?」
 苛立たしげにイルニーフェが叫んだ。
 炎が完全に消えたのを確認してからアメリアが結界を解く。この場の全員の注意が火球の飛来した窓へと向けられていた、その瞬間。
 出現した気配に、窓に駆け寄っていたアセルスが焦りの表情で背後をふり返った。
 判断を誤ったことを彼女は悟った。
 窓ではなく、全くその逆。堂々と、正面の扉から。
 もはや自分ではどうにもならない、ただ託すことしか―――
「アメリア、その子を護って――― !!」
 扉の方を見たイルニーフェの黒い瞳が驚愕に見開かれた。扉が開くと同時に飛びこんできたのは、神官服の上から顔に布を巻きつけて表情を隠した男。
 抜き身の剣と少女の間を遮るものは何もなかった。
「くっ―――!」
 アメリアが伸ばした手は、間に合わなかった。
 肩から斜めに鮮血がしぶき、その体を引き寄せようと差し伸べたアメリアの腕をも斬り裂いていく。
 イルニーフェが座りこんだ。泣き出さんばかりに苦痛に歪められた顔を隠すように、その体が床の上にうずくまる。石床の上に敷かれた絨毯がみるみるうちに赤い色を吸いこんだ。
 扉の向こうに、また人影が現れた。
「物は運んだ。―――退くぞ」
 その低い声に、アメリアの思考が白く染まって―――弾けた。
「許可します、ユズハッッ !!」
 朱橙の瞳が強く輝いた。
 その手が勢いよくふり抜かれる。
「炎・よ――― !!」
 アセルスが男を追うよりも早く、ユズハが数年ぶりにその精霊の力を解放する。
 身をひるがえした男の体が一瞬のうちに炎に包まれる。赤でも青でもない白色の炎。
 次の瞬間、そこにいたはずの男は一塊りの白い灰と化していた。剣すらもない。鉄は熔解して蒸発しはてていた。
 扉の外の覆面の男がそれを見て素早く身をひるがえす。
「待ちなさい!」
 今度こそアセルスが男を追って飛び出していく。間をおかずに、廊下にシルフィールの声が響き渡った。
霊縛符ラファス・シード!」
 次いで、柔らかく重いものが床に叩きつけられる音。
 アセルスの凛とした声が部屋まで届いた。
「捕らえたよ!」
 その声に、弾かれたように執務室の時間が動き出す。
 一気に騒然とした空気に包まれる部屋のなか、アメリアはイルニーフェの体を起こして仰向けにした。
 長い髪が赤黒い艶を放って、べたりとその頬に張りついている。袈裟懸けに切り裂かれた傷は深いが、途中でアメリアの腕が太刀筋を阻んだため最後まで斬られずにすんでいた。代わりに、アメリアの腕の傷も浅くはない。
 血が溢れ出す傷口の奥に白い骨が見えて、アメリアは思わず眩暈を起こしそうになった。
「シルフィールさん、来てください! 早く !!」
 駆けこんできたシルフィールが、血塗れのイルニーフェを見て短く息を呑む。
 服が汚れるのもかまわず血溜まりのなかに膝をつくと、すぐに復活を唱え始めた。
 執務室に戻ってきたアセルスがアメリアの腕に止血を施す。そのアメリアはといえば、父親の方をふり返っていた。
「父さん! 箝口令を!」
 この少女を極刑にさせるわけにはいかない。絶対に。
 アセルスが声をあげた。
「アメリア! あなたも早く呪文を唱えて。血管が切れてる!―――誰でもいい。魔法医を呼んで、早く!」
 急かされて、アメリアも呪文を唱えはじめた。同じ呪文を唱えるシルフィールに視線で問うと、難しい表情をする。
 アメリアたちのいる場所だけ、周囲の喧噪から取り残されたかのように、静かに呪文の韻律が流れていく。
 その傍らでは、フィリオネルとクリストファがほとんど秒単位で指示を出していた。
 二人の指示のもと、重臣たちは固く口止めをされて、今夜だけは王宮内に留め置かれた。衛兵隊長たちが駆けつけ、焼け焦げた室内に顔面蒼白になった後で、賊の侵入を告げられ慌てて各所への指示をたずさえて散っていく。エルドラン王の病室と隔幻話室の状態の確認に別の衛兵が飛んでいく。
 眠りについていた王宮が叩き起こされていく。
 腕の傷が塞がり、血が止まったのを確認したアメリアは、自分のための復活を中止して、シルフィールに唱和するためイルニーフェの傍らに膝をついた。
 そこで信じられない言葉を聞いて顔をあげる。
「………もう一度言ってごらんなさい」
 フィリオネルに反逆罪は死刑、慈悲あるのならば、どうせ死ぬイルニーフェをいま助ける必要はないと進言していた大臣が、アメリアを見て息を呑んだ。
 瑠璃の飾りが激しく音をたてて鳴った。
「もう一度その言葉を口にしてごらんなさい! 今度こそわたしはこの子に継承権を譲って正真正銘王宮ここを出ていってあげますからッッ !!」
「たしかに慈悲深いね。この事件の背後関係を聞かずにそのまま口を塞ごうっていうんだから、頭が悪いか慈悲深いかどちらかじゃないととてもできないよ」
 大臣は何かを言おうと二、三度口を開きかけたが、結局顔色を失ったまま執務室を出ていった。
 クビ。誰が何と言おうとあの大臣は絶対クビにしてやるとアメリアは固く決心する。頭が悪いにもほどがある。
 ここまで来て、アメリアのはらも据わった。
 どうせいらないと言っても押しつけられるのだ。ならば徹底的にワガママを貫いてやる。
 わたしの王宮に、こんな大臣はいらない。
 必要だというのなら、それはそう、いま目の前に倒れている少女やアセルス、リーデットのような人物たちだ。
 絶対に必要なのは、そう、隣りに在ると誓ってくれた、あの声、あの目。
「アメリア」
 アセルスの声に、イルニーフェの方に視線を戻したアメリアは、少女が薄く目を開いているのを見て驚いた。
「イルニーフェさん」
 その唇が微かに動く。
「しゃべらないでください」
 そう言ったものの、何かを訴えかける黒い瞳にアメリアは唇に耳元を寄せた。
「………ド……の、……下………」
「………?」
 アメリアが聞き返そうとしたとき、魔法医が部屋に入ってきて、イルニーフェは目を閉じて黙ってしまった。
「神殿の治療所に運びます。アメリア様、あなたもですよ!」
 魔法医たちに、なかば引っ立てられるようにして立ち上がったアメリアは、アセルスを見た。
 傍らにはユズハが立っている。
「あめりあ、ブジ?」
 いつか聞いた、しかしその時よりもずっと滑らかなその言葉に、笑ってアメリアはうなずいた。
「お留守番ごくろうさまです」
「ン、留守番してタ。えらい?」
「えらい、えらい」
 アセルスがくすくす笑いながらそのクリームブロンドを撫でて、くしゃくしゃにする。
「おじさまたちに事情を説明しておくから」
 アメリアはうなずいて、シルフィールと共にその場を離れた。