夢飾り (ツイン・ラピス) 〔2〕
部屋に入ってきた良く知った気配に、彼は顔を上げもせずに声を放った。
「ああ、姉さん。僕はいま運命とは何かについてかなり真剣に考えてたんだけれど」
「土壇場で父さんに似ないでくれるかな? 気が弱い男の人なんて身内に一人で充分だからね」
アセルス公女は容赦がなかった。
駆け落ちしてマラードを出ていったアセルスだったが、実際に駆け落ちされて白目を剥いたのと見せられた孫の可愛さに負けたらしい父親の公主の泣きつきで、いまはマラード城下に住んでいる。こうして、ときどき城にもあがってくる。
マラード公国の自室で、一ヶ月前以来頭を抱え込みっぱなしの六つ下の弟の頭をアセルスはかなり容赦なくはたいた。
「いいから背筋をのばしなさい。でないと、私が勝手にのばさせるけれど、いい?」
「そうは言うけど! 姉さん、いったいこの事態をどうしろと !?」
珍しくリーデットが大声をあげた。
「僕だってアメリアと結婚したくないよ !!」
事情を知らない他の人が聞いたら何事かと思うようなセリフだったが、掛け値なしにリーデットの本音だった。
「そのアメリアからヴィジョン」
「………って、へ?」
「だから、その結婚相手から、ヴィジョン。だいじょうぶだよ。ヴィジョンじゃアメリアがリーデを骨折させたくてもできないから。さっさと行きなさい」
恐ろしいセリフを吐いて、アセルスはリーデットの背中を押した。
「ちょ、ちょっと姉さん !?」
「くどい」
アセルスは琥珀の目がきらりと光った。
「さっさと行ってくれる? 私は協力を惜しまないと伝えてほしいな」
「………了解」
観念したリーデットはおとなしく出かける用意をし始めた。
「おひさしぶりですね、リーデ」
「うん。そうだね………元気?」
「ええ。『おかげさまで』
ヴィジョンの向こうのアメリアは、めいっぱい嫌みをこめて強調してくれた。
隔幻話室の外にいる魔道士たちは、まさかこんな冷え切った会話をしているとは思っていないだろう。
「………僕のせいじゃないよ」
「わかってます。これ、八つ当たりですから」
「…………………………やめて」
げっそりとした表情でリーデットはそう言った。
「ほとんど命令のような代物だから断れないし。断ったら属国じゃなくなるだろうし。そうしたら沿岸諸国連合にまた入れてくださいって頭下げなきゃいけないし。それは死んでも嫌だし。だれかに助けてほしいよ、まったくもう………」
愚痴に近づいてきているのはわかっていたが、とりあえずぶちぶちと言ってみた。
アメリアはとりあえず一通りそれを聞いたあとで、
「お祖父様が迷惑かけてごめんなさい」
「君も困ってるんだろう?」
「ええ。ちょっとそのことで手伝ってほしいんですけど」
リーデットはヴィジョンの向こうにいるアメリアを見た。
恐ろしく真剣な表情をしている。
リーデットは軽くうなずいた。
自分の周りにいる女性たちのこんな表情を見ていると、背筋に一本芯が通ったような気分になる。
悪くない。
「いいよ。あと、姉さんから伝言。"協力は惜しまない"ってさ」
アメリアの顔が笑顔になった。
「それは嬉しいです。なら、がんばって延ばすの手伝ってください」
「…………何を?」
「式の日にち」
「………念のために聞いてもいいかい?」
「何です?」
「悪あがきじゃないだろうね?」
「………いますぐセイルーンに来てください。ぜひとも技を決めたいですから。骨折してもうちの魔法医は優秀で式延期の理由にならないのが、とても残念ですけど」
「………アメリア、もう少し落ち着いて」
「わたしはとっても落ち着いてます」
「…………」
リーデットはなだめるのを観念した。
アメリアは少しいらだたしげに髪を耳にかけた。
その動きに合わせて、片方だけの瑠璃の飾りがかすかに揺れる。
「えっと、本題に入りますね。リナさんから連絡が来ました。三ヶ月待ってくれとのことです。ですから、協力してください」
簡潔すぎる言葉だったが、それで充分だった。
「三ヶ月………過ぎたら?」
「ここを出ます」
あまりにあっさりした言葉に、リーデットは眉間にしわを寄せた。
「本気?」
「もちろん。あなたと結婚して王宮に留まれと言うんですか?」
「いや、そんな気は毛頭ないけれど………」
リーデットは困ったように頭をかいた。
「姉さんと同じ選択をするんだなと思って」
「…………」
アメリアは返答に困ったようだった。
「あなたに言ったことは嘘になっちゃいましたね」
「君は嘘をついてないよ。あのときこうも言ったはずだ。
"もしいつか、放り出す日が来たとしても、いまはまだそのときじゃない―――"」
ヴィジョンが一瞬揺らいだ。アメリアの濃紺の瞳も、それにあわせて揺らぐ。
「いまが、そのときかい?」
「………みたいです」
少しだけ泣き笑いの顔でうなずくと、アメリアはリーデットとアセルスにセイルーンへ来てくれるよう求めた。
「来て、とにかくわたしを助けてください。式の日取りが一日でも延びるんでしたら、もう何してくれてもいいですから。ああ。セイルーンに来る途中で、盗賊に襲われて行方不明ってのどうですか?」
「………姉さんが姫将軍呼ばわりされてるの承知で言ってるの、それ………。どう考えたってそれじゃ狂言だってわかるよ」
「ならアセルス姉さん抜きで。それならリーデ、盗賊に勝てないでしょう?」
「何だかもうめちゃくちゃ言われてるよ、僕………。僕や姉さんはいいとして、そのとき一緒なはずの御者や従者はどうするんだい? 説得は無理だよ。完璧にこの縁談に舞い上がっているから」
アメリアは舌打ちしそうな表情になった。
「似合わないよ、その顔」
「……………………ありがとう。リーデ、わたし、あなたのことが嫌いです」
「うん。考慮しておく。とにかくそっちに行くよ。姉さんも連れてきたほうがいいよね」
アメリアは軽く首を横にふった。
「違います。アセルス姉さんが来てくれればいいんです」
「…………………ならそう言っておく」
殺気立っている女の人を相手にするのはやめておこう、とリーデットはいまさらながらに誓った。
イルニーフェは溜め息をついて、王宮の廊下から外を眺めた。
陽射しはだんだんと強く暑くなる。
それにともなってだんだんと期限が迫ってくる。
「ねえ、ユズハ」
「何、いる」
「アメリア王女の好きな人ってどんな人?」
「んと、ぜる」
「………それは名前でしょう? あたしはどんな人間なのかと聞いているのよ? 外見とかひととなりをね」
「わからん」
簡潔な答えをどうもありがとう、である。
「………いいわよ。あなたに聞いたあたしが馬鹿だったんだわ。今度シルフィールにでも聞くから」
「あ、あのね」
ユズハが何か思いだしたように首を傾げた。
「黒い髪と、蒼い目なんだっテ。でもね、銀色でかたいの」
さっぱりわからない。
「………あ、そう」
疲れたようにイルニーフェは生返事をした。
そのとき、廊下の角を曲がってアセルスが姿を現した。十日ほど前から彼女はセイルーン王宮に来ていた。リーデットは一緒ではない。彼が王宮に来ると、下手をすると日取りが早まりかねないからだ。いまごろマラードで奮闘している頃ではないだろうか。
いったいどういう理由をつけてアメリアがアセルスを呼び寄せたのかは謎だが、割と自由に行動していて、アメリアとの会話を制限されてないところを見ると、話し相手として呼んだのだろう。しかし、同じ話し相手でも人々の想像とはまったく逆のことでアセルスが呼ばれたのを、イルニーフェは知っている。
「ここにいたんだね」
「どうしたの?」
近寄ってきたアセルスは困ったように首を傾げた。
「アメリアとこれから手合わせするんだけど、見ていく?」
「…………は?」
イルニーフェは激しくまばたきしたあと、慎重にたずねた。
「どっちが言い出したの」
その意図をくみ取ったアセルスは苦笑して答えた。
「イルニーフェの想像通りだよ」
ならばアメリアだ。
最近はそばにいると胃が痛くなるほどぴりぴりした空気が伝わってくる。
女官の少女は深々と溜め息をついた。
「気持ちはわかるけれど、一度決めたことなんだから焦らないでほしいわ」
「あまり無茶を言わない」
笑いながらアセルスは歩き出した。
イルニーフェとユズハもその後に続く。
「焦らない方がおかしいんだよ。あとひと月なんだから」
陽光のまぶしい、濃い緑の芝の上でアメリアがアセルスを待っていた。
「おまたせ」
アセルスは微かに笑うと、距離を置いてアメリアと向き合った。
彼女は半袖の裾の長い服を着ていた。ウエストに合わせて身ごろを絞ってあって、両脇のそこからスリットが一気に下まで入っていっさいの動きを阻害しないようになっている。幅広のズボンと薄い布靴。
女性にしては背が高いほうだから、すらりとした印象がますます強くなる。
対するアメリアは、以前来ていた巫女服とよく似たデザインの白い上下を来ていた。
「ダメだよ」
アセルスが言った。
「私を宮廷大臣か魔族とでも思いなさい。私は手加減しないよ」
わずかに右足が後ろに下がり、爪先に力がこもっている。
アメリアは恐ろしいほど真剣な表情でアセルスの言葉にうなずくと、いったん目を閉じて、そして開いた。
強い光の欠片が目を灼いた。
風がふわりと髪を乱す。
「お願いします」
「なら、始めようか」
アセルスが笑って、トン、と地面を軽く蹴った。
一気に距離をつめられるようにアメリアが身構える。
アセルスが首を傾げた。
「こないの? なら、こっちから行くよ?」
そう言ったときには、すでに彼女は動いていた。
蹴られた芝がえぐれて下の黒土を巻き上げる。
一瞬の間に距離をつめて接敵すると、その左拳が風を切って襲いかかった。
反射的にアメリアがかわすと、間髪入れずに右が飛んでくる。わずかにのけぞるようにして避けると、そこを狙って今度は左の爪先が唸りをあげてやってきた。
濃赤の上着の裾が動きに合わせて激しくひらめいている。
アメリアも負けてはいなかった。
立て続けの攻撃をやり過ごし、アセルスが足を引くのに合わせて思いっきり踏みこんだ。
空いた腹めがけて低く左の拳を繰り出す。
アセルスがその繰り出されて伸びた腕を横から叩き、拳を外へと流した。そうして叩いた手でそのまま腕をつかむと、力の流れに乗るようにして外側へとねじる。同時に足払いをかけて、アメリアの体勢を崩そうとした。
右手もとらえて、アメリアがアセルスに背中を向けるような形になれば、芝に背中から叩きつけて技の完成だった。
しかし、アメリアの方も足払いを避けると、自分から背中を見せて腕のねじりを解消する。逆にそうしながら、とらえられた左腕を強く引いた。
アセルスの上体がわずかに前方に泳ぐ。
そこに充分に体をひねった左足の蹴りが襲いかかった。
アセルスの琥珀の目が笑った。
アメリアの爪先が届く前に、アセルスは思いっきり引っ張られたのを利用してさらにアメリアの方に踏みこむ。
相手の片足が蹴りのために宙にあるのをいいことに、右のかかとをアメリアの軸足のかかとにひっかけてとっぱらうと、そのまま押し倒した。
「っきゃ!」
二人はもつれあって倒れこんだ。
「はい。アメリアの負け」
アセルスがアメリアの上からどくと、そのすぐ横に両手をついて座りこんだ。
アメリアは寝転がったまま空を見ている。
「………アセルス姉さん」
「ん?」
「最後……あれ、お腹に肘が入るとこだったんでしょう? 体浮かせて寸止めしましたね?」
「わかった?」
「わかりました」
二人とも、いまごろになって一気に汗が噴き出していた。
勝負自体はほんのわずかの時間だったが、緊張と集中はその比ではない。
「手加減しないって言ったじゃないですか」
「勝負が決まったあとはするに決まってるよ」
「う〜」
アメリアが悔しげに唸った。アセルスが笑いながら、自分の前髪をかきあげる。
風に吹かれたまま動こうとしない二人に、さくさくと芝を踏んで観戦者たちが近づいてきた。
「あなたたち、やっぱりおかしな王族よ」
イルニーフェが呆れたように二人を見てそう言った。
「あす、強い」
ユズハの言葉に、アセルスは笑いながらその頭を撫でた。
「それはどうもありがとう。でも、アメリアも強いよ」
「ン、知ってル」
アセルスがアメリアの顔を覗き込んだ。
「落ち着いた?」
「………はい」
アセルスはゆっくりと立ち上がって苦笑した。
「年だね、さすがに。疲れてる」
「何言ってるんですか。まだだいじょうぶですよ」
アセルスは軽く服についた葉っぱや埃を払い落とす。
「ここにいる間は何度でも相手するから、けばだったら言いにくるといいよ」
『毛羽立ったら』とは、また恐ろしく独特の言葉遣いだが、その意味はつきあいの浅いイルニーフェにも何となくわかった。
アメリアが苦笑して謝った。
「ごめんなさい」
「それくらいしかできないからね」
まだ芝に座りこんでいるアメリアを置いて、アセルスは近くの噴水までやってくると、知り合いしかいないのをいいことに、そこに手を浸して指で髪をくしけずった。
「冗談ばっかり」
アセルスに着いてきたイルニーフェが呆れたようにそう言った。
視界の端では、アメリアとユズハが何やら会話している。
「それくらいしかできないって、昔のコネつかってるのはいったい誰なのかしら」
皆まで言わせずに、アセルスの濡れた指がイルニーフェの額を弾いた。
「そういうことを、こういうとこで言わない。アメリアに聞こえるよ」
「…………弾かなくても、あたしには聞こえるわよ」
イルニーフェが小さい声でそう言った。
「それに何もしてないよ、私は。ただ、『また』のされたくなかったらお願い聞いてほしいって言っただけだよ。だいたい、のされてもまだ盗賊やってるんだから懲りてないよね」
「………あなた、結婚する前は何をやっていたの?」
「マラードの悪党退治」
「……………………」
何のことはない、アセルスが昔退治したことのある盗賊たちを脅しつけて、各地の領主たちに発送した式の招待状やら、婚礼に関係する出入りの使者を『なるたけ優しく』襲わせているのである。これはセイルーンとアセルスのどっちが怖いかということなのだが、実行は一回だけで一度奪えばあとは国外へと逃走するだけでいいのなら、聖王国よりどこまでも追ってくる姫将軍のほうが怖い。
あまりにとんでもない手段なので、これはアメリアには伏せてある。いくらなんでも彼女が賛成するはずがない。
だからこれは、アセルスのお節介だ。
のんびりとマラード公国の公女は告げた。
「ま、それもそろそろ潮時だね。護衛が増えてきたし。でも、わりと引き延ばせたんじゃないかな」
「このうえもなく姑息だわ…………」
イルニーフェが嘆息した。
その頃、少し離れた芝の上では、ユズハが首を傾げていた。
「燃やせば、のびナイ?」
「のびるって、何が?」
「日付」
「………何を燃やすんです」
「衣装」
「それはダメです。あなたが王宮から追い出されるのはいただけません」
「むぅ」
「だいじょうぶだよ」
戻ってきたアセルスが笑いながらユズハを抱き上げた。
「ぴったり三ヶ月後はまだ式の日じゃないからね。『どういうわけか』、式までにやっておかなきゃいけないことの処理が遅れているみたいだから、リナ=インバースとの約束の期日までには間に合うよ。
―――アメリア、ここを出ていったあとで、出逢えたら連絡をくれるかな。君の待ち人の顔が見たいんだ。ぜひとも一発殴りたい」
「………は?」
「ぜひ殴らせてくれるかな。私なら五年も待てないからね」
「……………………」
「もっとも」
ユズハの白金の髪をいじりながらアセルスは笑っていった。
「三ヶ月に間に合ったら、殴らないでおくよ」