夢飾り (ツイン・ラピス) 〔3〕
リナは魔道士協会のすぐ近くに借りた家にやってくると、中には入らず庭を回って裏手に出た。リナの名前で借りた家だが、リナのものではない。
花も散りかけた、春の季節の終わりである。
いまはまだ過ごしやすい春らしい気候だが、あとひと月もたてば暑くなるだろう。
裏庭からはリアの声が聞こえてくる。
一人前に木の枝を構えて斬りかかる五歳児の相手をしているのは、地面に座りこんだ黒髪の青年だった。
どうやらすっかり懐かれてしまったようである。
「あ、かーさん!」
リナを見て目を輝かせたリアの金色の頭に軽く木の枝が命中した。
「いたい。ゼルさん」
「よそ見をするな。ガウリイが教えてくれないから俺に教えてくれといったのはお前だろうが」
「なるほど、そういう理由なわけね」
笑いながらリナは家の壁によっかかった。
「めずらしいものを見たと思ったら」
「体を慣らすのにちょうどいいからな」
「それよ。どう調子は? いきなり肉体崩壊とか起こしてない?」
「起こしていたらいまここにいられるか?」
仏頂面でゼルガディスがリナを睨んだ。
肌はほぼ白磁の色に近くなっている。髪も柔らかく風になびいていた。髪が黒いと童顔に見えると言われて、恐ろしく複雑な表情で黙り込んでしまったのはだいぶ前の事である。
「ただ、自分の体じゃないみたいだな。気持ちが悪い」
苦笑したゼルガディスがひょいと木の枝を持ち上げて、横からきたリアの枝を受けた。
「不意打ちか?」
「ちがうもんんんん〜」
ふくれっ面でリアがそう言った。
「リア。あんたなんでゼルから剣なんか習ってるの」
「だって、とーさんおしえてくれないんだもん。あぶないって〜」
語尾に妙に力が入っているのは、一生懸命ゼルガディスの木の枝を押しているからである。
「たしかにガウリイの言いそうなことだわ………って、ちょっとゼル。なに五歳児に押されてんのよ?」
「だから、加減がわからないんだ。少し力を入れてみろ」
木の枝が二つとも折れた。リアがはね飛ばされて尻餅をつく。
きょとんとしたその顔は何が起きたかわかってない証拠だ。
「ほらな」
「なるほどね」
リナは苦笑して、リアを立たせてやった。
「明日、最後の入れ替えをやるからね」
「頼む」
「あんたほんとに殊勝ね、気味が悪いわ」
ゼルガディスが憮然とした表情でリナを見上げた。立てば見下ろせるのだが、どうやら面倒くさいらしい。
「悪いか? もともとそうするしかないんだ。合成獣になったのだって、俺はレゾにうなずいたが俺自身が何かしたわけじゃない。元に戻ることだって、方法を見つけるところまでは一人でできるが、実段階ではそうはいかないことぐらい最初っから承知している。その点、あんたと知り合えたのはかなりの幸運だと思ってるんだがな。リナ=インバース」
「あたしも、あたしの同期にイフェルがいたのは、かなりの幸運だと思ってるわね。あんたとあたしだけじゃ、こんなに短期間でここまでいくことはなかったはずよ」
レゾのオーブには合成の課程しか記されていなかった。当たり前といえば当たり前である。戻す気などなかったのだろう。
その記されていた合成方法と、自分たちの研究成果とノウハウを照らし合わせて分離の方法を組み立てたのはイフェルとユリシスだった。
この分野に関しては門外漢のリナとゼルガディスだけではこう簡単にはいかなかっただろう。
「まだちょっと信じられん」
「へえ、何が?」
軽く眉をあげたリナに向かって、ゼルガディスが軽く手をかざした。
「………全てがだ」
「まだよ」
かざした手が軽く握りしめられた。
「わかってる。ところでガウリイはどうした」
「うちの実家。たぶん手伝わされてるんじゃないの?」
ゼルガディスは恐ろしげな表情を浮かべてしみじみと口にした。
「この親にしてこの子ありという言葉を、あのときほど思い出したことはないぞ」
「………それ、チクるわよ」
「すまん。俺が悪かった」
リナの足下でお腹が空いたとリアがごねている。
「ごめん、リア。夕飯は姉ちゃんたちのところで食べてね」
「さいきんはー、かーさんのほうがとーさんよりあそんでくんないぃぃ」
リアがふくれっ面で母親を見上げた。
「ごめんね。イフェルたちと最終的な打ち合わせがあるのよ。帰れるかわかんない。ガウリイがいるでしょ?」
「かーさんもいなくちゃやだ」
完全に拗ねモードに入っている。
「もう少ししたらセイルーンに連れていってあげるから」
「ほんと?」
「ほんとほんと。ゼルが死ななきゃね」
「おい………」
じとりとゼルガディスがリナを睨んだ。
リナは娘を抱き上げた。
「だから、祈っててくれる? 神も魔もアテならないから、リアが信じる『何か』にうまくいくように祈ってて。あたしとゼルがイフェルたちのところに行ってるあいだは、そうしててくれる?」
幼い子どもに理解できるような言い回しではない。
それでもリアは何かを感じ取ったのか、きょとんとした顔で母親を見たあとでうなずいた。
「じゃあね、とーさんにお祈りしてるー」
「それは、ちょっと………」
「ある意味すっごい不安なんだけど………」
リナとゼルガディスはおそろしく複雑な表情で呟いた。
「呪法?」
リナは眉をひそめて呟いた。
ライティングの明かりに照らされたクローラーの表情はいつもと違って固かった。
窓のないこの研究室にいると時間の感覚が消失してしまいそうになるが、いまは夜だ。
リアをガウリイに預け、その足で魔道士協会に来たリナを迎えた二人の第一声がそれだった。
先に来ていたゼルガディスは黙って壁にもたれている。
ユリシスがけわしい表情で答えた。
「こういう言い方はどうかと思ったんだが………あえて言い表すならそういうことだ」
「呪に関しては私たちより君のほうが専門だ、リナ=インバース」
「どういうことなの。説明して。どうしていままで黙ってたの」
リナが声を荒げた。
実現不可能だと思えたことが現実と重なるまで、もうあとわずかなのに。
リナの言葉をクローラーが訂正する。
「その言葉は正しくない。いままで気づかなかったんだ、それに仮説だ。あるかもしれない、という話だ」
「なぜ、いまごろ気づいたの?」
「分離させたあとの邪妖精の組織と石人形の組織の一部分が再融合していた。見るか?」
「あんた捨ててなかったの?」
リナが思いっきり顔をしかめた。
「いい。あの謎の物体は一度見れば充分よ。それより詳しく説明して」
説明を聞いて、リナは我知らず唸っていた。
「合成獣としての安定化をはかるためにそういうものがほどこされている可能性があるというわけね? ゼルが合成獣じゃなくなったらそれが発動すると?」
「合成獣じゃなくなったらというのは正しくない。合成された組織の安定が崩れて肉体の維持ができない判断したときに発動すると思われる、一種の安定装置だ。」
「いらないわよ、ンな安定装置」
リナは悪態をついて、髪をかきあげた。
まさしく呪いだ。
ゼルガディスに合成獣化を施したのがレゾであることは言ってあるが、そのレゾが赤眼の魔王だったなどとは二人にはもちろん言ってない。
その何も知らない二人が呪法と表現したのは、ある意味真実を突いていた。
「そういうものがあるとしたら、どうしていままで反応しなかったの? もうゼルの体のほとんどは人間なのよ?」
「それだ。仮定だが、この呪は三つの要素のうちどれか一つでも損なわれたときに発動するのではないだろうか。すなわち、彼本来の人としての組成と、邪妖精と石人形の組成。現時点ではどの要素も欠けてはいない」
「前に君にもいっただろう? 邪妖精のほうは完全に分離させることは無理だと」
「聞いたわよ。そんな言い聞かせるような口調で言わなくてもわかってるわ、ユリシス」
リナに皮肉っぽく言われて、ユリシスが不機嫌に黙り込んだ。
魔力の増大を目的として主に精神面の方に合成された邪妖精を完全に分離させるのはいまの技術では無理だった。それはもはやゼルガディスの精神と分離不可能なほどに融和してしまっていた。
ゼルガディスと話し合った結果、邪妖精の組成は分離できるものを除いてほとんど残してある。
この耳は消えて魔力は残る。結局俺は得をしてるのか? とそれを聞いたとき、皮肉っぽくゼルガディスは呟いた。
「これまでは、比率がどうかわろうと三つの要素が残っていたからおとなしくしていたんだ。しかし明日、完全に石人形の部分を取り除く」
「すると呪が発動するってわけね」
「仮定通りなら、恐らく」
「発動するとどうなる?」
それまで黙っていたゼルガディスが口を開いた。
淡々とクローラーがそれに応ずる。
「恐らく、これまで分離させたものが一気に戻ってくる」
「ちょっと待ちなさいよ! 分離させたものは大部分処分したでしょうが! ないものがどうやって戻るのよ。おかしいわよ、その発動条件! 嫌がらせとしか思えないわ!」
「そこが謎だ。もしかしたら私の仮定が間違っているかもしれないが、何らかのことが起きるのは間違いない」
リナが断りもなく傍らにあった椅子にどさりと腰を降ろした。
「ねえ、あんたの勘違いってことはないでしょうね? 仮定だらけの話を聞かされても困るわよ」
「仮定だらけだから困っている。もし事実なら明日分離はできない。それこそ確率二分の一の大博打だ」
「さらに仮定するわよ。呪ってのは術者の生死に準ずるのよ。レゾは死んでる。よってこの術は発動しない」
「それにさらに仮定する。もしこれが合成獣を作る際の術に組み込まれていたなら、リナ=インバース、君の仮定は成り立たない」
「でもそんな呪文や理論はオーブに書き込まれてなかったでしょ?」
「………不毛だ」
溜め息混じりにゼルガディスが言い捨てた。
「ゼル」
リナが立ち上がった。
「一日でいいわ。分離を待って。あそこに行って来る。全部のオーブを洗い出してくるわ」
「リナ」
「あんたは行けないでしょ。ここで待ってて」
扉に向かったリナがふりかえってゼルガディスに笑いかけた。
「もしなかったら、そのときはのるかそるかの大博打ね」
「ああ」
「反論は聞かないわよ、イフェル、ユリシス」
「一度承諾した。もはやあきらめている」
「右に同じく」
リナは苦笑した。
「ありがと。やれやれ、何がないっていちばん時間がないのよねー。んじゃ、行って来るわ」
「リナ」
ゼルガディスがリナを呼び止めた。
「お前、どうしてそこまでする?」
「タダじゃないわよ。いまはあたしがあんたを全力で助けてあげられる。だからそうしてるだけ。あたしはあんたのこともアメリアのことも好きだしね。あとで代価はいただくわ」
リナがひらひらと手をふって消えた。
閉まった扉をしばらく眺めた後で、ゼルガディスがぼそりと呟いた。
「腹が立つ」
「何にだ?」
「イカレた赤法師と、自分にだ」
予言。託宣。神託。もっと低俗にいうなら虫の知らせや第六感、そんな気がする、ですませられる類の感覚。
巫女として長い経験のあるアメリアだったが、幸か不幸かいままでそんなものが『降臨』してきたことはなかった。
シルフィールに聞いてみると、それは本当に何の脈絡もなく脳裏に閃くのだという。
実際に託宣を経験し、高位の存在を間近に感じたことのあるシルフィールは、本当に敬虔な祈りを捧げる女性だ。自分はあれほどまじめに真摯に神に祈ったことはない。
アメリアはスィーフィードに仕えている巫女だったが、王宮にいたときから神が本当にいるのかどうか疑っていた。
リナたちと旅に出て世界の真実に触れてからは、神はいるが、本当はいないという結論に達していた。
魔王や神と呼ばれる存在はいるが、そう呼ばれているだけで、自分たち人間が崇めて望んでいるような唯一神は存在しない。だいたい自分のことだけで手一杯の神だ。人間なんかどうでもいいのである。託宣を降ろしてくるのも自分勝手な都合からだろう。
祈る、という行為を意識してしなくなってから随分な時間がたった。第一、祈りを捧げる相手がいない。
祈る、というのは『斎を告る』という言葉が語源だという。斎の者―――神聖なもの、より高位の存在に告げる言葉など、アメリアは持っていなかった。
彼らだって自分のことで一生懸命で、アメリアを助けてくれる余裕も理由もないことぐらいわかっていた。
けれど、いつだって自分は何かに、誰かに、祈っていたような気がする。
母親が死んだときも。従兄が死んだときも。
リナが金色をまとったときも。呑まれそうな闇のなか、異界の魔王に対峙したときも。
そのときに応じて内容は違ったが、いつだって何かに願いをこめて、思いをこめて、祈っていた。
きっと、自分自身に。そして、彼に。
(魔力ってのはある意味精神力だからね。強い願いは、それだけで力なのよ)
いつだったか、そう言ったリナに「知ってます」と答えるとそれは変な顔をして「あ、そう」と言った。
知っている。リナ自身は知らなくても、彼女に教えてもらったのだ。実際にそれを目の前で見せつけられたのだから。輝かしい金色と共に。
願いが一人歩きを初めて、魔力になり魔法になり、魔族になり神になる。
そして、ヒトにも。
(どうか)
アメリアは独り夜空を見上げた。
(どうか………)
何て祈ればいいのだろう。
言葉を探せずに、彼女はそっと目を閉じた。
「あった………」
ほとんど泣きそうな表情で、びしょ濡れのリナがオーブをひとつ、宝物か何かのように取りあげた。
その、朝。
リナが、まだ疲れの残る顔色でゼルガディスに問いかけた。
「準備はいい?」
窓から差し込む朝日がリナの栗色の髪を照らして、色を薄く見せていた。
煙がかった飴色に見える。
ゼルガディスはわずかに目を細めた。
ガウリイの髪―――野郎の髪を眺める趣味はないが、それは見事な金髪だったから、光に淡く透けていたのだけは印象に残っている。
自分の髪はよく見えるほどの長さでもなかったが、見てくれた相手が何度も同じことを言ったので覚えている。綺麗に光を弾くらしい。―――もう、その色ではなくなってしまったが。
そう言ってくれた相手の髪もそうだった。綺麗に黒光りする髪だった。手に絡めたときの感触はまだ薄れていない。
無性に会いたかった。
リナがひらひらとゼルガディスの目の前で手をふった。
「何よ。呆けた顔して。お祈りでもしてたの?」
「そんなところだ」
リナが目を丸くした。
「珍しい。あんたでもそんなことするのね。何に祈ってたのよ」
「こういうときは惚れた相手に祈るもんだ」
リナが絶句して、恐ろしい者を見るような目つきでゼルガディスを見つめた。
「………あんた、体調悪くないわよね」
「つくづく失礼なやつだな、お前は」
髪を見て色んなことを思い出していたとはあまり言いたくなかった。
「お前にはないのか。あれほどめちゃくちゃな目に遭ってるくせに」
虚を突かれたような表情でリナがゼルガディスを見て、まばたきした。
「………あるわ」
思い出し笑いをしながら、リナが首を傾げた。
「おかしなもんよね。助けるはずの相手に祈ったんだもの。あのとき」
「そんなもんだろう」
ゼルガディスは立ち上がった。
自分の黒い髪が視界の端に入る。
「あんたもいまそんな心境なのかしら?」
「さあな」
ゼルガディスははぐらかして、そうして外に出た。
「ねえ、多分あんたは知らないだろうから言ってあげるわ」
「何だ?」
「あんたのその髪、アメリアにそっくりなのよ」
言われて、ゼルガディスは驚いた顔をしたあとで、微かに笑った。