夢飾り (ツイン・ラピス) 〔4〕

 目の下に青いくまを作ったリナが、似たような顔色のクローラーに抱きついた。ユリシスには抱きつかない。抱きついても迷惑がるだけだろう。
「ありがとう。感謝してる」
「当然だ。もっとしてもらっても罰はあたらない」
「………あんたのそういうところが大好きよ」
「光栄だ」
 片眼鏡を外すと、クローラーは滅多に見せない表情で笑った。
「私も感謝している。貴重なデータをとらせてもらった」
「………それがあんたなりの感謝と喜びの表現だって知っちゃあいるけどね」
 リナはクローラーから視線を外して、背中を向けた。
「ハッピーバースデー?」
「………馬鹿野郎」
 柔らかなアルトの声が、苦笑混じりにそう答えた。


(あたしたちは、何も知らないからね?)
(あんたとアメリアから連絡がきて、初めてそっちに行くんだから)
(だからさっさとその連絡をとりにセイルーンまで行きなさい………一人でいろいろ考える時間がほしいでしょ?)


 見透かされていて、少し腹が立った。
 しかし、悪い気分はしなかった。




 鏡の前にアメリアは立っていた。
 姿見にうつるその姿と、現実の立ち姿を交互に眺めながら、イルニーフェがわずかに顔をしかめた。
「ねえ、アメリア王女。あなた痩せたんじゃないかしら」
「そうですか? 夏痩せですかね」
 笑いながらアメリアは、萌黄に朽ち葉色の刺繍の入ったドレスの裾をさばいてイルニーフェのほうに向き直った。
 いつものごとく、女官に付けてもらった瑪瑙の耳飾りをひょいひょいっと外して鏡台の上に投げ出すのを見て、イルニーフェは溜め息をついた。
 何に対しての溜め息かは、自分にもわからない。
 まだ式までは十日ほど残っている。
 父親の公主の体調が優れないからとか、何のかんのと理由をつけてセイルーンへの参内さんだいを渋っていたリーデットがとうとうこっちへ来たのが昨日。
 今日は、その顔見せと言うべきか、打ち合わせと言うべきか、アメリアや父親のフィリオネル、その他セイルーンの重臣たちがリーデットと顔を合わせる予定が設けられている。
 王女付きの女官として頭に入れておくべき、アメリアの今日の予定はこれぐらいだ。
 表向きは。
「お願いしますね、準備」
「………わかったわ」
 言われて、イルニーフェは固い表情でうなずいた。
「すでにまとめてベッドの下にありますから」
「シルフィールに渡せばいいんでしょう? わかってる」
 扉に向かうアメリアの耳元で、銀と瑠璃の耳飾りが揺れた。
 片時も肌から離さない装飾品ほど曇らない、という話はいったいどこから聞いたものだったか。
 今日が約束の三ヶ月の、最後の日だった。



 アメリアを見送ってから部屋を出たイルニーフェは、まずはユズハを捕まえた。ユズハに遊ばれていた白ネコが救い主を見つけたとばかりにイルニーフェに寄ってきたが、夏場にネコにすり寄られても暑苦しいだけである。
「いた。やっと見つけたわ。あなたはもう準備はできているのかしら?」
「何の?」
 のほほんと訊ねられて、イルニーフェの額に青筋がたった。
「ここから出ていく準備よ」
「何もナイから、何もする必要、ナイ」
「そう。なら一緒に来なさい。アメリア王女の部屋にあるものをシルフィールに渡しておかないといけないわ」
 おとなしくイルニーフェの言葉に従いかけたユズハが、突然顔を横に向けた。
 初夏の風に、色の抜けた金髪が一筋、二筋、舞った。
「あ………」
 その唇が声を洩らした。
 ここは二階だ。回廊の向こうには、中庭をはさんだ同じ回廊の続きが見えている。
 しかし、ユズハの朱橙の瞳はその方向を向いていたが、視界に映るもののどれをもとらえてはいなかった。
 突き抜けるようなその視線。
「ユズハ?」
 ユズハは突然走り出した。止める暇もない。
「ちょっと !? どこに行くのよ!」
「りあのとこ」
 アメリアはこれから父親とともに顔合わせを行う離宮のひとつに行く予定だ。ユズハが会えるはずがない。
「ちょっと―――!」
 叫びかけたイルニーフェの目の前で、ユズハの襟首がひょいとネコよろしくつまみ上げられた。
「はいユズハ。ダメだよ」
「りーで、離ス!」
 じたばた暴れるユズハにリーデットが何やら耳打ちした。
 途端にユズハがおとなしくなって、すとん、と床に降り立つとリーデットの足下にまとわりついた。
「リーデット。あなたなんでここに―――」
 アメリアと共に、顔合わせの中心人物のはずである。それなのに正装もしていない。丈の短い上着にズボン。この恰好はむしろ―――
 天啓てんけいがひらめいて、イルニーフェは愕然と目の前の青年を見上げた。
「まさか、『あなたたち』………」
「イルニーフェはほんと鋭いね」
 リーデットは笑うと、イルニーフェを促した。
「とりあえずイルニーフェは正門にいってくれるかい?」
「は?」
 赤褐色の髪を夏の風に揺らしながら、マラードの公子はさらに面白そうに笑ってみせた。
「シルフィールさんが来ている。迎えに行ってくれるかな。どうやら押し問答しているみたいなんだ。見つけたのはいいけど、他国の僕たちが通せって口を出すわけにはいかないし。あとからユズハと来るから、とりあえず君は先に行ってて」
「押し問答? シルフィールが?」
 シルフィールは無条件で城門を通れる人物のはずである。
「知らない人物が一緒だから」
 また、リーデットが笑った。
 双子のように似通った姉弟は、そっくり同じ顔で笑う。もはやどっちがどっちだか区別がつけがたい。
「ぎりぎり三ヶ月には間に合ったみたいだね」
 イルニーフェは絶句した後、何も言わずに身をひるがえした。
 それを見送って、リーデットは空を見上げた。
 青く、鮮烈に光る夏の始めの空。気の早い入道雲がはるか彼方で銀灰と純白の濃い陰影をつくってきらめく。
 緑の若葉が揺れて、光を弾いた。
 最高の天気だ。
「気持ちがいいね」
 ユズハが首を傾げた。
「こういう日は、普通のときでも何かを記念して特別な日にしたくなるよ」
 リーデットは笑いながら、ユズハを見下ろした。
「僕たちもさっさと行こうか」



 アメリアは父親と共に離宮に入り、階段をあがると、今日の会合に使用される部屋の扉を開けた。
 視線がアメリアに集中する。
 クリストファ叔父。宮廷大臣。執政大臣。筆頭宮廷魔道士。神官長………いまここに火炎球のひとつでも打ち込まれれば、まず間違いなくこの聖王国は瓦解する。
 少しどころでなく物騒な考えだ。
 入ってすぐにリーデットの赤褐色の頭があった。入り口に近いここは下座だ。アメリアとフィリオネルは部屋の奥、バルコニーに背を向ける形で席に着く。
 今日、ここで行われることは重臣たちへのリーデットの正式な紹介。そしてその逆、リーデットへの各官の紹介。それが終われば、宮廷大臣と神官長を残して他は退出し、代わりに宮廷大臣の下で働くの式部官が入室して、式の細かな打ち合わせへと入る。
 開け放された後ろの窓から、涼しい風が吹き込んできた。
 そこでアメリアはようやく伏せていた視線を持ちあげて、正面―――やたら遠く離れた正面だが――にいる幼なじみの顔を見て、危うく叫びそうになった。
 琥珀の目が片方だけ軽くつぶられた。
 誰にも――そばにいるマラードの侍従にもばれていないというのがまた恐ろしい。
 しかし、ただのイタズラでこんな手のこんだことをするような姉弟ではない。
 いったい。
 何を。
 今日、ここから家出することは伝えてあるはずなのに。
 リーデットとその生国マラードの紹介が始まった。
 アメリアの内心の疑問など、どこ吹く風で。



「ですから! この方の身分はわたくしが保証致しますと、さっきから―――」
 長い黒髪を後ろで編んだシルフィールが、珍しく怒りをあらわにしながら通行を差し止めている衛兵にくってかかっていた。
 イルニーフェを連れていたときは簡単に通れたものだから、まさかこんなところで足止めを食うとは思ってもみなかった。
 シルフィールの背後の人物は特に声を荒げるでもなく黙っているが、逆にそれがシルフィールには申し訳なく思えるのだ。
 運が悪かったとも言える。王女の結婚式をひかえて王宮内は浮き足だっており、あちこちで人員が入れ替わっている。
 ハルバードを構えた衛兵はシルフィールの知った顔ではなかった。
 とりつくしまもないとはこのことだ。
「あなたさまをご自由にお通しせよとの命令は下っております」
「わたくしだけ通ってどうなると言うんですっ」
「ですから、あなたさまが先に行って通行の許可をいただいてきてください。それからならお通しいたします」
 四角四面の物言いだった。
 あまりのことにシルフィールが顔を真っ赤にした、そのとき。
「珍しい。あなたが怒っているところなんて初めて見たわ」
 ハルバードに遮られた王宮側の門から、軽やかな声がした。
 衛兵二人が後ろをふり返る。
「この方たちの到着を、アメリア様、殿下共にお待ちかねです。早くその重たげな邪魔者をどけてくださらない?」
「許可は―――」
「そう。とっくに出ているの。不備があったみたいね。職務熱心なのは認めるわ。告げ口はしないでおいてあげるから、早くして」
 衛兵に早口でたたみかけると、イルニーフェはにっこりと笑った。
「早く、どけて。呆けてないで」
 呆気にとられながら衛兵が交差させていたハルバードを持ちあげた。
 二人がついてくるのを確認したイルニーフェは、衛兵たちに声が届かないところまで来ると、ふりかえってじろじろとシルフィールの隣りの人物を観察した。
「あなたがアメリア王女の待ち人?」
 シルフィールが慌てたようにイルニーフェの言葉を遮った。
「イルニーフェさん。どういうことです? 助かりましたけど、わたくしたちはアメリアさんには何も―――」
「言わないから衛兵なんかに捕まって門止まりになるのよ。リーデットが気づかなかったら門前払いで仕切直しを余儀なくされたでしょうね」
「じゃあ、さっきのあなたの言ったことはやっぱり」
「口からでまかせに決まってるでしょう? でも嘘でもないわよね」
「リーデット殿下がもうこちらに?」
「昨日来たわ。ほんといいタイミングで来たわね、あなたたち。今日を逃したらすれ違うところだったわよ」
「だから必死だったんです。あなたが持ってくる荷物の預かり先はだれの家だと思ってるんですか」
「………シルフィール。頼むから話を進める前に俺にも事情を飲み込ませてくれないか」
 うんざりした声が、会話を中断させる。
 その声音がイルニーフェの記憶に引っかかった。
 改めて観察する。
 黒い艶やかな髪に、涼しげな氷色の目をした青年だ。強い陽射しのせいか、いささか頬が青白く見えたが、それでも十二分に端正な容貌だった。
 しかし、見覚えのある顔ではない。
 しかし、声が何かにひっかかる。記憶力には自信がある。
 イルニーフェの視線に気づいた青年が、ふっといぶかしげに目を細めた。
「何だ」
「………あなた、どこかで会ったことないかしら」
「名前がわからんやつは会っても覚えていない」
 イルニーフェの表情が挑みかかるようなものになる。
「あたしはイルニーフェ。あなたは?」
「ゼルガディス」
 驚くほどの短い時間で、イルニーフェは全ての事情を呑み込んだ。
「………なるほど。そういうことなわけね」
 イルニーフェの言葉はなかば独り言に近かった。
「それで、五年も待たせるわけになったのね。あのときの銀色の髪をしたあなたは人ではなかったのね?」
 返答はなかったが、イルニーフェは特に必要としていなかった。
 ひとり蚊帳の外のシルフィールに向かって笑ってみせる。
「あとで話すわ。どうやらあたしたち、知り合いみたい」
「知り合いって、イルニーフェさん―――」
「呼び捨てにもしていいかしら?」
「かまわん」
 くすくすとイルニーフェは笑った。
「なら、ゼルガディス。あのときあたしと一緒にいたリーデットが、アメリア王女の花婿予定よ。でも彼自身は味方だから、殴るなら顔が腫れない程度にしてあげてちょうだい。ああ、いま来るわね―――」
 二人が何か言う前に、イルニーフェは晴れやかに笑った。。
「よかった。あたし、学院を辞めずにすむわ」
 鋼色の髪を編んでまとめた女官の少女は、服の裾をつまむと、膝を折って非の打ち所のない礼をとった。
「では、ご案内いたします―――」