夢飾り (ツイン・ラピス) 〔5〕

 その瞬間、世界は溶けて崩れて意味をなさなくなった。
 気が狂いそうなほど待っていた。
 このときを。




 議事が進行していく最中、アメリアは一言も口を開かなかった。『リーデット公子』もそれは同じで、ときおり会釈をするだけであとは侍従が喋るのにまかせきりにしている。
 そうこうしているうちに『リーデット公子』への各官の紹介も終わり、諸官の退出を、進行役を務める宮廷大臣が促そうとしたときだった。
「みんな聞いてください」
 アメリアが初めて口を開いた。
「アメリア?」
 フィリオネルが怪訝な顔で隣りに座った愛娘を見やる。
 耳元の瑠璃の飾りに手をやりながら、アメリアは椅子から立ち上がった。
 いま言わなかったら、きっと二度と言えないだろう。
 だって自分はここから出ていくのだから。
 どうしても言っておきたいことがある。
 アメリア=ウィル=テスラ=セイルーンという人間について。
「わたしはセイルーンの第二王女のアメリア=ウィル=テスラ=セイルーンです。わたしはあなたたちと同じくらいセイルーンを愛しているつもりですし、王族としての自覚に欠けている気は毛頭ありません。けれど―――」
 その濃紺の瞳が宮廷大臣を見据える。
「それはわたしの一部でしかありません。わたしという人間を構成する一部でしかない。言っていることがわかりますか? 王女のわたしも、アメリア=ウィル=テスラ=セイルーンという人間を構成する上での必要不可欠な要素ですが、あいにくそれが全てではないんです」
 アメリアの視線が、この場のひとりひとりをとらえながらゆっくりと移動していった。
 最後にその視線が『リーデット公子』に止まる。
 琥珀の目が柔らかく細められていた。
 泣きたくなるほどあたたかい勇気をくれる目だ。
 アメリアは再び口を開いた。
「意に染まぬ結婚をするのはわたしという人間を殺すことと一緒です。セイルーンの王女というパーツひとつだけでは生きていけない」


 ――色々な欠片が組み合わさって、

「あなたたちがそれを無視するようなら」

 ――寄せ木細工のようにわたしを形作る。

「ここはわたしの」

 ――どれが欠けても形を成さない。

「居場所じゃないんです―――」

 ――どれかだけでも意味をもたない。


 アメリアの持つ雰囲気と口調に気圧されたかのように、だれも声を発しない。
 そのとき、これまで一言も口をきかなかった『リーデット公子』が、微笑しながら立ち上がった。
「おめでとう。アメリア」
 低めではあるが、まぎれもなく女性の声。
 その声を聞いたアメリア以外の人間が愕然とする。
「アセルス、姉さん」
 弟公子に扮したアセルスは、周囲の驚愕の視線をあっさりと無視してアメリアに近寄った。
 その人差し指と中指に挟まれているのは、硬貨ほどの大きさの薄片。声を届ける魔法の道具。
 指先がアメリアの肩口をさして、その向こう側へと突き抜けた。
「後ろだよ。バルコニーから下を覗いてごらん。アメリア、王宮機構との五年越しの勝負はきみの勝ちだ。出ていく必要はなくなった」
 これ以上はないほど、大きく瞳が見開いた。


「り・あ !!」


 開け放された背後の窓から、聞き慣れた幼い声がアメリアを呼んだ。
 弾かれたようにアメリアは窓の外に飛び出して、手すりから身を乗り出した。


 その瞬間、世界は溶けて崩れて意味をなさなくなった。



 気が狂いそうなほど待っていた。
 このときを。



 髪は、自分とよく似た艶のある黒だった。
「ゼルガディスさん―――」
 肌は象牙に近い自然な色。見慣れた色彩はどこにもない。
 たったひとつ、別れたときから何ら変わっていないのは、その氷の蒼の瞳。
 アメリアは手すりを強く握りしめると、おもむろにそこから飛び降りた。
 落下の浮遊感にぎゅっと目を閉じると、慌ててのべられただろう手に受け止められるのがわかった。
「ゼルガディスさん」
 相手が何か言い出す前にアメリアは地面に降り立つと、相手の服の両袖をそれぞれの手でつかまえて顔を伏せた。
「長かったですね」
「………ああ」
「待たされましたね」
「…………そうだな」
 顔をあげないままアメリアは、ここからはわたしの話です、と前置きして口を開いた。
 陽光で、影が自分の上に落ちてくる。
 五年間。この影すらそばにいなかった。
「五年は、短いですね。でも、離れているには長いと思いませんか?」
「…………」
「ずっとあなたを待ちながら、正直自分でも頭がおかしいんじゃないかと思うときがありました。記憶も約束も時の風化をさけられない。なのに、たったひとつの約束とその証拠だけをわたしはずっと信じ続けてた」
 それは欠けた瑠璃の飾り。
 彼を待ってる自分に王宮の者は口を揃えて言った。
 そんなものは口約束。たとえそのとき本気だったとしても、手紙が届くとしても、それから何年過ぎているのですか。彼も約束を守りはしないでしょう。忘れておしまいなさい。
 いったいいつまで待ちつづけているのです。このまま二十年、三十年経っても、彼がここに帰ってくるとは限らないのに。
 彼らの言うことは当然のことだった。
「あなたは、どこかわたしの知らないところで死ぬかもしれなかった。心変わりをするのかもしれなかった。あきらめているのかもしれなかった。わたしには、遠くにいるゼルガディスさんのことまではわかりませんから」
 だけど、とアメリアは続けた。
「ユズハを見るたびに思い直すんです。どこかわたしの知らないところで生きている。頑張っている。投げ出したりなんかしてないこともあるんだって」
 ユズハは自分の感情に忠実だ。見返りを求めたりはしない。自分が好きならあくまでも好きなのだ。嫌いなら嫌い。ゆだねると判断したらゆだねきる。そこにその相手の意志が入り込む余地はない。
 だから夢を飾り続けた。
「わたしが信じていることと、ゼルガディスさんがわたしを信じていることは、二つともとても大事だけれど、互いが互いに影響される必要はないんです。わたしは、あなたを信じたくて信じていた」
 柔らかなアルトが、それに続いた。
「俺も、お前を信じたくて信じていた」
 アメリアはようやく顔をあげた。
「そして、わたしたちは自分自身に勝ったんです」
 袖をつかんだ手を離すと、アメリアは両手で彼の頬を包みこんでいた。
 濃紺の瞳が揺らめいた。すぐにそこから光が溢れだして頬を伝っていく。
「おかえりなさい」
 光は連なって、次々とこぼれ落ちる。


「ずっとあなたを、待ってた」



 バルコニーに頬杖をつきながら、アセルスは眼下にいるユズハに手をふった。
 気がついたユズハが、ふわっと浮いて手すりのすぐ横までやってくる。
「おいてけぼりだね」
「ンむ」
 こくん、とうなずいて、ユズハは手すりに腰掛けた。それをひょいと抱き上げると、アセルスはバルコニーから室内へと戻った。
「フィルおじさま、十日後の婚礼を弟と一緒に楽しみにしていますので」
 言われたフィリオネルが苦笑混じりにうなずいた。
 部屋をそのまま出ていこうとするアセルスに、宮廷大臣が食ってかかった。
「アセルス殿下! なにゆえあなたがここにおられるのです! 悪ふざけも大概になさってください!」
 いまのこの状況ではかなり焦点のずれた追求だった。
 ユズハを抱いたままふり返ると、アセルスはあっさり言った。
「ああ。間違われたんだ。今ごろはリーデットも私に間違われているんじゃないかな」
「ま………」
 これほど堂々とすっとぼけられると突っ込む気も起きない。
「そんなことよりも、予定通り式の打ち合わせに入らなくてもいいの? せっかくアメリアの相手が現れたのに」
 それとも、とアセルスが首を傾げた。
「もしかしてあなたは、血の存続だけなく、相手の身分も取りざたするつもりだったのかな? だとしたら、アメリアはここから出ていくよ。私のようにね」
 宮廷大臣は顔を真っ赤にして胸を張った。
「失礼もほどほどにしていただこう! 不肖ながらこのわしは、お仕えする王家の血が安泰ならば、アメリアさまが心より望んだ人をお迎えするのにやぶさかではないですぞ !!」
「何気に失礼なことを言っているような気もするけれど………まあ、いいか。私の可愛い妹分はそれなりにあなたたちに期待しているんだ。自分の選んだ人をあなたたちセイルーンの王宮が受け入れてくれる度量を持っているとね」
 笑みを含んだ視線になでられた諸官が緊張で表情を固くする。
 ユズハを下ろすと、アセルスは優雅に扉の前で一礼した。
「マラードとして、主国の慶事、心よりお祝いさせていただきます。それでは」
 扉から廊下に出てきたアセルスとユズハを、待っている者たちがいた。
「やあ。姉さん」
「………その気色悪い冗談やめないと怒るよ、僕」
「やめるよ」
 アセルスが笑いながら首から礼装のカラーを引き抜いた。
「それで、どうだった? リーデは殴られたの?」
「………どうして話の焦点がそこに行くの、姉さん」
「いや。何となく」
「だいじょうぶよ。見ての通り顔は腫れてないでしょう? それより、何で入れかわったりしたのか聞かせてほしいわね。まさか今日ゼルガディスが来るって予知していたわけじゃないでしょう? しかも姉弟間でレグルス盤まで持って」
 ゼルガディスをここまで案内してきたイルニーフェが呆れたように腕を組んでそう言った。
「それは単に間違われただけ」
「はっ !?」
「いや、本当に。それにレグルス盤持ってるのは習慣だから。いつもはマラードでの城と私の家との連絡用に使ってる」
「間違われたことに関しては意図的に黙っていたけどね。姉さんも僕も」
「アメリアが暴走したらリーデじゃ止められないからね。これ幸いと知らないふりをしていたよ」
 互い違いにそう告げられて、シルフィールとイルニーフェは頭痛を覚えて黙り込んでしまった。
「なんにせよ、シルフィールもご苦労様」
 シルフィールは穏やかに笑って首をふった。
「いいえ。これでわたくしも何の気兼ねもなくサイラーグへ行けますわ」
 神官の資格はもうすぐ手に入る。
 シルフィールは編んだ髪を揺らして一礼した。
「わたくし、リナさんに連絡をとりに城下へ戻ります」
 シルフィールを見送ってから、イルニーフェもアセルスとリーデットをふり返った。
「あたしも戻るわ。きっとこれから眩暈がするほど忙しくなるでしょうね」
 ユズハはきょとんとした顔で、それを見てから、首を傾げた。
「おるは、どこ?」
「あのネコかい? 探すの?」
「ン、けしかけるの」
「………いったいアメリアはきみに何を教えているの」
「アメリアのせいかなぁ。どうだろう」
 ユズハも廊下の角を曲がって消えてしまった。
 二人になってからアセルスは弟をふり返った。
「結婚できなくておめでとう」
 少し、意地悪く笑う。
「それとも、残念?」
「まさか」
 苦笑してリーデットが六つ年上の姉に答える。
「たしかに、結婚しなくちゃいけないならアメリアがいちばんいいけどね。まだ僕は結婚しなくても平気だろう?」
 アセルスが呆れたように嘆息した。
「そうやって消去法で選んでいるうちは、絶対リーデは結婚できない」
「まあ、当分僕はそれでいいよ。いまはアメリアにおめでとうを言わないとね」
「とりあえず服を着替えるべきだと思うけれどね」
「それは同感」
 連れだって二人は歩き始めた。