たからもの (オンリー・ワン・ワールド)〔3〕
行商人の一行とは、その日にたどりついた村で別れた。
母の言いつけで馬車から降りる前にフードをかぶる。どういうわけかリアは、やたらと物をもらう以外にも、怪しげなおとなたちから声をかけられることが非常に多かった。絶対についていくなと厳しく言い渡されているが、フードをかぶっておけば声をかけられる機会自体が減る。
目をこすりながら馬車から降りたリアの視界に、鮮やかに燃えたつ西の空の薔薇色がとびこんでくる。夕暮れの光が村をやわらかな茜色に染めていた。
聖王都へと直接通ずるこの街道は、整備も行きとどいていて道幅も広く、人の往来も多い。セイルーンからプライアム・シティまでは二日かかるということもあり、ふたつの街のちょうど中間地点にある山麓のこの村は、旅人を泊めさえすれば収入が入るということで、ほとんどの家が旅行者に向かって開放されていた。王都に大祭があるときなどは納屋まで宿泊客で埋まるという。
たしかにセイルーンのお祭りはものすごい人出だ。普段の市が立つ日だけでも、いったいどこからこんな人がと思うぐらいなのだが、双子の王女さまが生まれたお祝いのお祭りの時は、あまりの人の多さに三日間、大陸橋を除く大通りの馬車通行が全面禁止されたほどだったという。
親子で祭や市に出かけると、子どものリアに人混みは危ないし迷子になるからと、いつも父が抱きあげるか肩車するかしてくれた。背の高い父の肩車はうんと見晴らしがよくて、通りを埋めつくす人の頭や帽子がよく見えた。たかーいすごーいとリアが喜んで、さっそく見つけた美味しそうな露店の食べ物を指さしたりすると、周りの人よりも小さな母は、大きな父の隣りで拗ねたような顔をして、ちょっぴりうらやましそうにリアを見あげるのだ。
そういえば市もとんとご無沙汰だ。また行きたいなと、ちらりと思う。
馬車を置くことのできる馬小屋付きの宿へと向かう行商人に礼を言い、母はごく普通の宿に一室をとった。行商人夫婦はリアを大層可愛がり、目を覚ましたリアに売り物の干し果物や砂糖菓子をどっさりくれた。母がちゃっかり何やら高価いものをもらっていたような気もするが、リアはまだちょっと眠たかったのでよく見ないままお礼だけを言った。
昼には過ごしやすかった気温も夕暮れどきのいまは、すっかり冷たくなっている。唇から白く息がこぼれた。
「かーさん、息が白いよ」
「そうね。寒いわね」
寒いのが苦手な母親は、ちょっと嫌そうな顔でそう答えた。
「どーしてさむいと息白いのかな」
「息のなかにある目に見えない小さい水蒸気が、吐きだされたあとで外の空気に急に冷やされてくっつきあって、目に見える大きさのたくさんの水の粒になるからよ」
「これおみずなの?」
「そうよ」
「ふーん」
目を丸くしてリアは、はあっと大きく息を吐いてみた。フワッと目の前が白く煙る。フードとケープの紺色に白い呼気はよく目立った。黄昏色の斜めに射しこむ光線が、つかのま浮かびあがってすぐに消える。
宿の一階で夕食を食べ終わり、引きあげた二階の部屋でブーツを脱ぐと、案の定あちこちマメだらけだった。すでにほとんどが破けて、何だか嫌な感じでじくじくしている。もらったお湯で足を洗うと、とんでもなく浸みた。思わず涙目になる。痛い、ものすごーく痛い。
母は真面目な顔でリアが脱いだブーツを調べていたが、かかとに蝋を塗ると、ブーツも買い替えなきゃねとあきらめたように肩をすくめただけだった。どうやら窮屈に感じたのは、久しぶりに履いたせいだけではなかったらしい。
「明日ガウリイと合流したら、まずあんたの装備の買い物だわね」
「マントとブーツ?」
だとしたら、マントは母と同じ真っ黒なのがいい。いまの薄茶の優しい色をしているのも好きだが、母のたっぷりした真っ黒なマントはあこがれだった。自分もばさっとやってみたいのだ、ばさっと。
「セイルーンで買うほうが色々見られそうだけど、そんなことしてたらあんたの足はマメだらけになっちゃうしね」
「………ごめんなさい」
「なんで謝るの? あんたがどんどん大きくなる子どもだってことを、うっかり忘れてたのはあたしのほうなのに? ごめんね、ティルにばっかかまいすぎてたわ」
「だってティルまだ赤ちゃんだもん」
弟はまだ、ひとりでご飯も食べられないし、歩くこともできないのだ。誰かがずっとそばにいて世話をしてあげなければダメなのだ。
「リアお姉さんだもん」
そう言った途端、母の両手が急に伸びてきてリアの金髪をぐしゃぐしゃにかきまわしたのでリアは面食らった。驚いた拍子にかかとの靴擦れを椅子の脚に思いきりぶつけてしまい、しばらく硬直して動けない。母は何やら「ああもうカワイー」などと呟いているが、痛くてよく聞きとれない。
やがて娘が涙目になっていることに気づいた母が、あ、ごめんと言いながらリアの頭を解放してくれた。リアがくしゃくしゃになった髪を撫でつけているあいだに、荷物のなかから本を一冊手にして戻ってくる。
「さて、お嬢さん。―――ひさびさだけど、寝る前にちょっと勉強しよっか」
ライティングが唱えられ、本が読めるぐらいにはテーブルの上が明るくなる。それぐらいならリアにだってお手のものなのだが、ぶつけたかかとがまだ痛かったので、おとなしく母のすることを見守った。
「さっき、息が白くなる話したしね。水系の精霊魔法理論をやりましょう。あんたはどれもこれも丸暗記で発動させるから困るのよ」
魔力の明かりのもとで、リアはうんと眉をしかめた。そんなことを言われても、リアだって困る。歌うように呪文を紡ぐ母がカッコよくて、始終その真似をしていたら、そのうちどれもみんな発動してしまったのだ。
おかげで母は以後、リアの前ではいっさい魔法を唱えなくなった。リアは何度か魔法が見たいと駄々をこねたが、頑として聞き入れてくれない。
その代わり、魔法が見たいなら自分で使えるようになりなさいと、魔道の基礎を教えてくれるようになったが、リアは母が魔法を使う姿が見たいのであって、自分で使いたいわけではない。………いや、本当はリアだって魔法は使いたい。色々なことができるようになるし、自分も母に近づけたみたいでちょっぴり気分が良かったりするのだが、それよりも何よりも、母が呪文を唱えるのを見るのが本当に好きなのだ。
呪文を口ずさみ、わずかに目を伏せている母の周囲に魔力が集まっていくのがリアには感覚できる。唱える呪文の程度によっては、呪力障壁が夏の陽炎のように向こう側の風景を歪ませながら立ち現れ、風が起こり、髪が揺れマントが揺れ、土煙が舞いあがる。空気さえ春先の大気のような不安定さを帯び―――そして限界ぎりぎりまで集められ、高まった力は、凛烈と響く力あることばによって一気に解放される。鮮やかで、目もくらむほどに激しく。
その瞬間、リアはとてもどきどきする。爆音と衝撃でどきどきしてるのか、カッコよくてあこがれてどきどきするのか、どっちか自分でもよくわからないこともあるが、とてもどきどきする。
以前、父に「かーさん、呪文を唱えているときとってもキレーだよね」とこっそりささやいたら、ちょっとびっくりした顔でリアを見返して「やっぱそうだよな。おれもそう思う」と、笑いながら耳打ちしてくれた。それから母にはナイショにしておこうと、ふたりで約束して秘密にした。
だから母から魔道を教えてもらうのは、できることが増えて嬉しいのと同時に、母の魔法が見られなくなるから、ちょっとだけイヤだ。
「リア、浄水結となえられるよ?」
ライティングと浄水結は三つのときから大得意だ。
「だからそれが丸暗記だっつーの。丸暗記だと、いつまでたっても出現地点や分量のアレンジができないでしょーが。あんた前に浄水結唱えてイルニーフェに頭から水ぶっかけたの忘れたの?」
「リアそんなことしたっけ?」
「うあ憶えてないんかい。たしかにまだ四つぐらいのときだったけど………そんなこと言ってると、ガウリイみたいなくらげになるわよ」
「えっ? とーさんは最初からくらげじゃなくて、だんだんくらげになってったの?」
げがらしゃっ。
リアがびっくりして聞き返すと、正面に座っていた母親はなぜだか椅子ごとひっくりコケた。