たからもの(オンリー・ワン・ワールド)〔4〕

 水系は寒いからイヤだとリアがごねると、母はあっさり火炎系の授業に切り替えてくれた。母は寒がりで冬場はよく父の隣りにいたがるし、魔術のほうも火炎系の術のほうが得意なので、わざわざ寒い時によけいに寒くなるような話をする必要もないと思ったのだろう。
 母が教えるのは理論のみで、呪文の構築までは手伝ってくれない。大きくなったらそのうち自分で考えて見つけだしなさいね、などと言うのでケチだと思う。呪文と動作さえわかれば、リアは何だって唱えられるのに。大きくなったらって、いつのことだろう。リアには七日後のことさえも、ずっと先のことのように思えるのだ。だが、リアの歳では理論を全部修めるのも実はまだ早いらしい。………そんなに難しいようには思えないのだが。
 寒いからあたしと一緒に寝てね、あんたあったかいから―――と言われ、その日リアはひさしぶりに母親に抱きしめられてぐっすり眠った。
 ―――翌朝。
 宿屋の女将は、昨夜のうちに頼んでおいた母娘二人分の量とは思えないお弁当を半信半疑の顔ながら手渡してくれた。これ、お母さんとお嬢ちゃんだけじゃ食べきれないんじゃないかい? と問われ、リアがこれじゃぜんぜん足りないよーと返すと、目を点にしていた。
 どうやら母が昨夜のうちに話をつけてあったらしい。別の行商人と村の入口で落ち合うと、そのまま荷馬車の後ろに乗りこむ。
「歩かないの?」
「この山を越えて、途中の分かれ道まではね。この馬車はゼフィーリアのほうへ行くんだって」
「おじーちゃんとおばーちゃんと、ルナさんとスポットは元気かな?」
 伯母のことは「ルナさん」と名前で呼ぶ。気がついたらそう呼んでいたので、おそらく片言のころから、そう呼ぶように言い含められてきたのだと思う。ルナが世間一般で言う伯母にあたることに気づいたリアが「ルナさんっておばさんだよね?」と尋ねると、母は青ざめた顔で「絶対にそう呼んじゃダメよ」と噛んで含めるようにリアに言い聞かせてきた。
「こないだ送られてきた記録球じゃ、みんな元気そうだったわね。後ろのひとりと一匹は、風邪のほうが避けて通るぐらい元気よ、きっと………」
「ルナさんはカゼひかないの?」
「あ、いや。ひくわよ? いちおー人間なんだし………あたしが肺炎まで悪化させたこともあるし」
「………? かーさん何したの?」
「な、何でもないわ。そうだ、昨日もらったお菓子食べよっか」
 そういえば、何をもらったのかよく確かめていなかった。リアは自分の荷物のなかに母が入れてくれた干し果実と砂糖菓子の包みを探すべく、馬車の揺れに邪魔されながらも口紐をほどきだした。やがてめでたく干し無花果(イチジク)とオレンジの皮の砂糖漬けを発見し、母と競いあうようにして食べる。
 小さな山をひとつ越え、北に向かうとプライアム・シティ、東北に向かうとゼフィーリアという街道の分岐で馬車を降り、母と娘は日が傾くころに目的地のプライアム・シティへとたどりついた。
 閉められる寸前の街の門を慌ててくぐり、夕餉の匂いと無数の灯りに包まれた大通りへと入りこむ。
 セイルーンの真北にあるこの街は、ゼフィーリア方面へ向かう街道とは違う分岐の先にあるため、リアはいままで訪れたことがなかった。セイルーンのにぎやかさを知っているリアには少し物寂しげに見えたが、それでも祖父母と伯母の住むゼフィール・シティと人の多さはそんなに変わらないように見える。大通りの両脇に間隔を置いて建つ鉄柱の先に、魔道士協会所属と思われる魔道士がひとつひとつライティングをかけていく。
「かーさん、あそこちょっとくずれてるね。こないだの地震のせいかな」
 リアが指さした先では、どこかの邸の塀だろうか―――石積みの壁がちょうど登りがいのありそうな感じで、見事な崩れっぷりを見せていた。大部分の石は撤去されているが、黄昏時のいまはそこだけ明かりもなく、大きな黒い影がわだかまっている。
「あら、ほんとだ。あの地震、ちょっとばかり大きかったしねー」
 十日ほど前に、少し大きな地震があった。たまたまユズハが隣りで一緒に寝ていたため、リアは揺れの前に目を覚ましたのだが、隣室ではティルトが危うくベッドから転げ落ちそうになったらしく、揺れがおさまってからリアが隣りの部屋に駆けこむと、青い顔をした母がベッドの上にへたりこんでいて、父が弟をつかんでいた。―――抱いていたのではなく、つかんでいたのである。弟はといえば、引っつかまれているのに目を覚ます気配もなく、それはもうぐっすりと眠っていた。後で様子を見に行った双子は大泣きしていたので、この差は何なんだろうと少し不思議だ。
「セイルーンの結界もほんの少しだけど石が崩れたし、アメリア青くなってたわね―――って、ちょっ、こらリアっ!」
 きょろきょろとあたりを見まわしていたリアは、他の人々より頭ひとつ飛びだした金色を見つけ、足の痛みも忘れてぱっと駆けだした。
「とーさんっ!」
 ふり向いた金髪の主はフードをかぶった子どもの姿を認めると、はっきりと破顔して、飛びついてきたリアを軽々と抱きあげた。同じ色の金髪にリアは頬を寄せて笑い声をたてる。
「なんだ、リアも来たのか」
「うん、いっしょにきたの。ティルはおるすばんなの」
「もうリア、いきなり走りださないでよね」
「ごめんなさーい」
「よー、リナ。ただいま」
 後からやってきた母の頭に、父は軽くぽんと手をのせた。軽くはずませるようにして、くしゃっと撫でる。母はいつもと同じで何だかくすぐったそうな顔をしていた。わりと頻繁に見るのでリアはもう慣れっこだが、他の世間一般の夫婦がこれをやっているのは見たことがないので、たぶん父と母のあいだにだけ通用する挨拶か何かだろう。ちなみに父はリアにもよくこれをやってくる。抱きあげてくれないときは、たいていこれだ。―――もしかすると、かーさんはリアみたいに簡単に抱っこできないから、代わりにとーさんこれやるのかな?
「はいおかえり。何、迎えに来てくれたの? 宿はもうとった?」
「いや、まだだ。おれもさっき着いたばかりだし。宿の名前憶えるより、門のところで待ってたほうが確実だし、早く会えるだろ」
「………あんたらしいわ」
 母は呆れたようにそう呟くと、父をうながしてすたすたと歩きだした。父がリアを抱きあげたままその後に続く。リアが肩の上に乗りたがると、笑いながらひょいと左肩のショルダー・ガードの上に座らせてくれた。
 背の高い金髪の剣士がよく似た子どもを肩に乗せて歩いているものだから、それはもう目立っているのだが、幸か不幸か父娘ともにこうやって普通に歩いていて視線を集めることにはとっくに慣れてしまっている。母親のほうはあきらめたのか、もはや何も言わない。………いや、ときどき自分より目立つなと文句を言うことはある。
「で、どうするんだ?」
「とりあえず今日はもう遅いし、ごはん食べて宿をとりましょ。こっちの役人に会うのは明日の午後でいいわ」
「午後?」
「午前中はリアの装備の買いなおしね。すっかり大きくなっちゃって、あちこち無理やりなのよ」
「そういやまたちょっと重たくなってるかもなあ」
「リアおもたくないもん。とーさんレディにしつれいよ」
 ショルダー・ガードの上でリアが足をぱたぱたさせると、当然ながら危ないから止めろと父からたしなめられた。落ちないようにその頭につかまり、リアは通りのあちこちを見渡す。
 色とりどりの露店の天幕はもうほとんどがたたまれてしまっているが、食べものや飲みものを売る店は、軒先に吊されたランタンや魔道士に頼んでかけてもらったライティングの光りでまだまだにぎやかだった。漂いだしてくる香ばしい匂いに、リアのお腹がぐうと鳴る。
 屋台の店主や宿の呼びこみたちはリアと目があうとすぐに笑って、手にした椀や串焼きを掲げてみせたり、うちに泊まっていけと声をかけてきた。母のことだから、いつものように食堂と宿が一緒になった店を利用するだろう。探すのを手伝おうとリアはぐるりと顔を巡らせる。
 普段よりうんと高くなっている視線が、ふと通りに面した宿屋の二階を何気なく横切った。―――薄板を連ねたその窓のひとつがふいに開き、そこから顔を覗かせた泊まり客らしい老人と偶然目があう。
 老人は父の肩に乗っているリアの姿を見て目を丸くしたものの、すぐに笑いかけてきた。リアが笑って手をふると、小さくふり返してきてくれる。相手はだれかに呼ばれたらしく、すぐに奥へと引っこんでしまったが、リアは何となく嬉しくて、しばらくその窓を眺めていた。



「―――おじいさん?」
 部屋のなかから呼ばれ、老人は窓から身を離した。
 彼の孫が窓から入りこんできた冷気に気づいて、こちらへ顔を向けたところだった。
 年の頃は十二、三ほどだろうか。獣油ランプの光を受けて切り揃えられた銀髪は見事な輝きを見せているが、よく似た淡い色の双眸は眼差しをひとつところへ定めぬまま、ゆるやかに虚空へと漂わせている。
「少し空気がこもってきたのでな。寒いか?」
「いいえ、だいじょうぶです」
「明後日には白魔術都市(セイルーン)だ。きっとお前の目を治してくれる医者がいるよ」
「………はい」
 少年は祖父の声がするほうへ視線を向けると、ふわりと笑いかけた。
 ゆったりとした動作で椅子をさぐりあてる孫を目を細めて見つめ、やがて老人は窓を閉じた。先程の親子連れはとうに通りすぎていた。